あなたといきたい


 彼とは別れて何年になるだろうか。ほたるは開かれた世界を外へ外へと果てなく求め、一方彼は…辰伶は故郷に留まることを望んだ。その時に、2人の道は分かれた。

「…一緒に外の世界へ行くって、言ったのに…」

 いや、言ってはいないのだが。ほたるは辰伶に外の世界へ行くことを勧めたし、自分が案内してもいいとも言ったが、それについて当人からの明確な返事は貰っていない。2人の間に約束はなかった。

 壬生のために生き、壬生のために死ぬのだと言っていたその人は、いつしか自らの信条に迷いを得て、裏切りと挫折を味わい、計り知れない絶望と悲哀の果てに、やがて壬生の再建という光を見出した。義務と責任でがんじがらめになりながら、それでも彼は一族を深く愛していたのだ。

「ま、しょーがないけどね。辰伶は他人のためじゃないと、安心して生きてられないみたいだから…」

 思えば、ほたると彼は最初から正反対だった。生れ落ちた位置の僅かな差が、彼らの育った環境を決定的に運命付けた。壬生のためにと生を与えられた兄と、壬生から抹消されようとした弟。2人は常に逆位置にあって対を成す存在だった。

 凝り固まった憎悪。理由のない執着心。不意に襲う虚無感。ほたるを支配していたこれらの負の感情は、すべて異母兄である辰伶へと帰着した。何をするにも大義名分が必要なウザイ奴。お綺麗で狡い奴。彼の全てに苛立ち、ほたるの心と生き方を孤独に荒ませていた。

 しかし、そんなほたるを陰から見守り続けていた瞳があったのだ。それは他ならぬ辰伶だった。彼は異母兄という立場から、時には支援さえしてくれていたのだ。それを知った時に、ほたるの魂は己の境遇への拘りから解放された。そして解放された魂は、異母兄を縛っていた鎖を断ち切り、彼の魂も解放した。決して交わることのない平行線だった彼らの道が、血の絆によって交叉したのだ。

 強くなるのは自分のためだし、戦うのも自分のためだ。 ほたるは己のために強くなるのだという信念を、今でも固く持っている。しかし、他人のために強くあろうとする辰伶の姿勢も、今なら否定しようとは思わない。壬生一族のために生涯を捧げるのが辰伶の信念なら、その道を貫けばいいと思う。

「でも…やっぱり窮屈そうだなあ…」

 自分のためにすることは全て我が侭であると、辰伶はそんな風に思い込んでいる節がある。それは決して彼の意識上に現れることはないが、根深く彼の魂に植えつけられているようだ。思い起こせば、辰伶は期待を寄せる父母のために名門という名の重みに耐えてきた。また、謀略の陰に散った戦友のために壬生の正常化に命を懸けた。そして今、荒れ果てた壬生の郷を再建し、壬生のために尽くそうとするのは、彼の亡き師のため…

 自分が選んだ道だから、自分のためだと辰伶は言う。他人のために働くことを幸福と思える辰伶は崇高だ。だけど…

「あ、そーか」

 ほたるに名案が浮かんだ。

「辰伶は、俺のために外の世界へ行けばいいんだよ」

 これなら自分も辰伶も満足だろう。名案だ。ほたるは意気揚々と数年ぶりに帰郷した。


 牢の中でほたるは茫然としていた。意味が全然わからない。どうして自分はこんなところに入れられたのだろうか。こんな牢など破るのは簡単だったが、さっぱり訳がわからないので大人しく従ってみた。第一に、久しぶりの壬生の郷は何もかも変わっていて、どこに行けば辰伶に逢えるのか解からなかったせいもある。

「おい、釈放だ」

 牢番のどこか人を見下すような横柄な物言いにムっとしたが、ほたるは逆らわずに牢から出た。牢番の後ろにはほたるのよく知った人物が立っていた。

「ゆんゆん、久しぶり」
「ったくよお…なんつう劇的な再会だよ。感動の余り涙も出ねえよ」

 ほたるの師である遊庵は、厭きれた声で言った。

「てめえの身元引受人として来てやったんだ。感謝しやがれ」
「なんでゆんゆんなの?」
「俺じゃ不足かよ」
「…辰伶が来るかなって、思ったんだけどね…」

 呟くようにほたるが言うと、遊庵はがっしりとほたるの肩を引き寄せ、声を潜めて言った。

「辰伶の名は、あんまり大声で言わねえ方がいいぜ」
「え?」
「理由は後で教えてやる。とにかく行くぜ」

 意味深だ。辰伶の身に何かあったのだろうか。ほたるが牢に入れられた経緯を思い返してみれば、辰伶の所在を訊ねたあたりから雲行きが怪しくなったのだ。

 壬生の郷に踏み入ったほたるは、その変わりように困惑した…ということもなかった。そもそも筋金入りの方向音痴であったので、道に迷うことなどいつものことだった。知った土地であろうと知らぬ土地であろうと関係ない。適当に歩いて、出会った人に道を訊けばよいだけの話で、ほたるはのんびりと郷の中心であろうと思われる方向に歩いて行った。

 程なくして、ほたるは数人の郷の者に行き会った。早速、辰伶が何処にいるのか訊いてみた。辰伶は有名人であったので、大抵の者なら知っているだろうと踏んだのだ。知らなければまた違う人に訊ねれば良い。

 ところが彼らは互いに顔を見合わすと、辰伶については何も教えてくれず、ほたるに対して何者だとか何が目的だとか、それから何か訳の解からないことをしつこく問い詰めた。始めはそれに答えていたほたるも、ついには機嫌を損ねて黙り込んだ。その態度が反抗的だとか不審だとか、またよく解からない展開で、あっというまに牢屋に入れられてしまったのだ。

「ひどいよね。俺はちゃんと名乗ったのに、怪しい奴だって決め付けるんだよ」
「名乗ったのに、拘束されたってか?…っかしいな。幾らなんでも、元五曜星の熒惑に手を出す度胸があいつらにあるとは思えねえんだが…」
「あ、俺、熒惑じゃなくて、ほたるだから」
「…壬生じゃ『ほたる』は通ってねえからな。てめえが『熒惑』って名乗りゃ、拘束されることもなかったし、もっと早く俺のとこに連絡が来たのによ」

 ほたるは考え込む仕草をした。

「知りてえか?どういう経緯で俺のとこに連絡が来たか」
「…別に」
「ま、言うなれば俺様の日頃の行いと、人徳のお陰だな」
「本当は?」
「…可愛くねえ野郎だな」

 遊庵は診療所らしき建物へほたるを案内した。そこで彼を迎えたのも、旧知の人物だった。

「やっと来たわね。待ってたのよ、ほたる」

 聖母の微笑と慈愛に溢れる声に、ほたるは背筋に悪寒を覚えた。

「…灯ちゃん…久しぶりだね。…元気だった?」
「元気よ。ほたるも元気そうで何よりね。ところで…」

 灯は表情を一変させると、棒状に丸めた新聞紙の束でほたるの脳天を強かに殴った。

「今まで連絡の1つも寄越さんと、どこほっつき歩いとったんだ、コラァ!」
「痛い…」
「新聞の広告欄に『尋ね人』って、何回載せたと思ってんの。しまいには殴るわよ」
「…もう殴ってるし…」
「広告代で、灯たんのお小遣い無くなっちゃったじゃないの。心配かけた慰謝料も込みで、ちゃんと返しなさいよね」
「…頼んでないし…」
「ああん?」
「…いくら払えばいいの?」

 仁王立ちにほたるを罵っていた灯だが、言いたいことを言って気が晴れたらしく、大きく息をつくと傍の椅子に腰を落ち着けた。

「この灯たんの美貌に惚れて、貢いでくれる人なんて山ほどいるから、それくらいの出費なんて痛くも痒くもないわよ。今回は許してあげるわ」
「ま、何だな。姐ちゃんがお前の似顔絵を新聞に載っけてくれてたお陰で、お前を拘束した奴のうちの1人が気付いて問い合わせがあったんだな。で、姐ちゃんから俺んとこへ連絡があったわけよ」
「ふうん」

 ここは灯の診療所兼研究所だった。ひしぎの記憶と意志を受け継いで壬生に留まった灯が、病人や怪我人の治療をしながら、壬生一族特有の「死の病」について研究をしている。もう日も暮れて診療時間は過ぎていたので、患者は誰もいなかった。診察用の椅子に腰掛けた灯は、不意に沈痛な眼差しをほたるに向けた。

「何でもっと早く帰って来なかったのよ…」

 ほたるは息を呑んだ。

「辰伶に…何かあったの…?」

 これまでの人々の奇妙な反応の数々に、ほたるは辰伶に対して得体のしれない不安を抱いていた。その心情が問いとして口からこぼれた。

「まさか…あいつも死の病に…」

 灯は項垂れた。遊庵も眼を逸らす。

「…もう死んだ?」
「勝手に殺すな」

 背後からの声に振り返ると、辰伶が立っていた。灯と遊庵は同時に笑い出した。

「あ、辰伶。どうしたの?何か未練があるの?」
「は?」
「俺の顔が見たくて出てきたとか?そういえば、お盆だっけ?ごめんね、気付かなくて。お供え、なんにも持ってきてない」
「俺は死んどらんわっ」

 怒鳴り声と同時に水龍が飛んだ。これは確かに死者の技ではない。ほたるは身をもって実感した。

「辰伶様…」

 辰伶の背後には、数名の男たちが影のように控えていた。

「ああ、すぐ行く。…灯さん、頼まれていた資料だが、殆ど問題なかったが、1冊だけ帯出禁止でな。写本をして届けるから、2、3日待って頂くことになる」
「了解」
「ではな、熒惑。旅の疲れをゆっくり癒すといい。遊庵様に余り迷惑かけるなよ」

 たったそれだけの短い邂逅で、辰伶は男たちに囲まれて去っていってしまった。

「…何?あれ」
「辰伶の護衛…という名目の監視ね」
「監視…?」
「ほんとにもう…あんたってば、どうしてもっと早く帰って来ないのよ…」
「…何があったの?」
「まあまあ、姐ちゃん。こいつが居れば状況が変わってたって訳でもねえし…」
「だけど、あれじゃ、まるで犯罪者扱いじゃない。…辰伶があんまりだよ」

 灯は着物を握り締めて、拳を震わせていた。

「ねえ、説明してよ。辰伶に何があったの?何で見張られてるの?」
「まともに話すと長くなるんだが…」

 遊庵は煙管を取り出したが、ここが診療所であったことを思い出して止まった。

「いいよ。今は患者はいないから」
「わりいな」

 灯の言葉に甘えて、遊庵は煙管に火をつけた。胸いっぱいに吸い込んだ紫煙を大きく吐き出して、話を始めた。

「あの戦いで、辰伶には色々と思うところがあったんだろうな。壬生のことは壬生一族全員で決める制度をつくるんだとか何とか…何だかしらねーけど」
「…何だかしらないけど、いいんじゃない?」
「ところが良くなかったんだな」
「何が?」
「そういう制度をつくるには、全員が同じでなけりゃいけないんだとさ」
「…それって無理じゃない?俺と同じ奴なんて1人もいないし、辰伶と同じ奴も、灯ちゃんと同じ奴も、ゆんゆんと同じ奴もいないじゃない」

 灯が口を挟んだ。

「全員が同じっていうのは、みんなが平等な立場だってことよ。誰が偉いとか、誰が賤しいとかいうことがないってこと」
「俺が一番強い」
「強い奴もいれば弱い奴もいる。でも、そういうことが何かを決めるときに有利になったり不利になったりしないようにしようっていうのが、辰伶の考えなのよ」
「辰伶も変なこと考えるね」
「あたしはすごい考えだって思うよ。でも…大抵の人はそうは思わなかったみたいね…」

 灯が黙り込んでしまった為、話は再び遊庵に返った。

「すごいことだと俺も思うぜ。だが、時期尚早だな。何せ、壬生の誰もそんな教育を受けちゃいねえんだ。意識改革には時間がかかる。辰伶は先走り過ぎたのさ」

 遊庵のセリフに噛み付くように、灯が言った。

「だからって、あいつらを排除したままにしておけっていうのかい?」
「そうは言わねえよ。俺が言いたいのは、辰伶は理想が高過ぎて、現実味がねえんだ。皆で話し合いなんて制度、後でいいじゃねえか、後で。辰伶の独裁にしとけば簡単だったのによ」
「確かに簡単だったかもしれないけど、力で押し通せば、いつか不満が噴出する。短絡だよ」

 話題から取り残されたほたるはうんざりと溜息をついた。

「…あのさ、話が見えないんだけど…」

「悪い、悪い。つまり、辰伶の思い描く社会を作るためには、これまでの身分制度を廃止する必要があるわけだ。上級貴族だの、下級眷属だの、そういう垣根をとっぱらっちまったんだ」
「それがいけないことなの?」
「悪いことじゃねえんだが…まあ、貴族だった奴らは面白くねえだろうな」

 結果として、貴族と一般人の対立が出来てしまったのだ。辰伶は調停に奔走したが難航した。貴族からすれば辰伶は異端者で、一般人から見れば辰伶は貴族でしかなかった。

「大変だね。でもさ、それを何とかするのが……ナントカでしょ」
「ナントカだわな。ところで、壬生には貴族でも一般人でもない奴らもいるよな」

 いただろうか。ほたるは暫し考え込んだが、灯と目が合った瞬間に、急に思い至った。

「…ええと、造られし者とか?」
「そうよ。そして、あたしのような人間とかね」

 辰伶の提唱する平等には、彼らも含まれていた。その為に辰伶は貴族と一般人の双方から疎まれ、支持を得ることができなかったのだ。

「もともと自らを神と称して、人間を虫けら扱いしていた壬生一族だもの、そういうモノと自分たちが同じだなんて耐えられないのでしょうね」

 灯は皮肉の形に笑った。

「あたしは「死の病」の研究における第一人者ってことで優遇されてるけど。研究を完成させるために、あたしの機嫌をとっておこうっていうのが見え見えなのよね。…「死の病」を克服したあかつきには、あたしの処遇なんてどうなることやら」

 それでも灯は研究を放棄するつもりはない。「死の病」を克服することは亡き人の悲願であり、研究を完成させることは、彼の生きた証になるはずだから。

「姐ちゃんの立場は、この遊庵様が保証してやるから、安心しろや」
「あたしはいいのさ。自分の身ぐらい自分で何とかする。でなきゃ、四聖天の名折れだからね。でも、あいつらが…」

 かつて「壬生一族」の手によって生み出された「出来損ない」の造られし者たちは、壬生の郷と樹海の境あたりの地域に限定されて暮らしている。辰伶の戦友であった太白が可愛がっていた「出来損ない」の子供達も。

「辰伶は、あいつらを何とかしてやりたくて、色々立ち回って……結果、壬生一族の大半を敵に回して、行政に関する執行力を全て剥奪されてしまったの。今じゃ殆ど隠棲生活よ」
「監視つきでな。…だから辰伶が全権を握ってりゃ良かったんだ。あいつらを一族として認める方針を、独裁者として強行しちまうのさ。定着しちまえばこっちのもんよ。民主化なんて、それからでも良くね?」
「…ようするに、辰伶が優等生で良い子ぶったから、皆がムカついて仲間はずれにしちゃったってことだよね」

 身も蓋もない。ほたるの要約に、遊庵と灯は絶句した。

「辰伶がイジメにあってるのはわかった。でも、何で俺が辰伶に逢おうとしたら牢屋行きなわけ?」
「権力を失っても、辰伶が重要人物であることには変わりねえ。能力、容姿、家柄、そして五曜星だったこともあって、あいつにはカリスマ性がある。辰伶を排斥した奴らにとって、辰伶の下に人が集まってくるのは脅威なのさ」
「少数だけど辰伶の支持者もいるのよ。壬生一族全員が、辰伶に反感を持ってるわけじゃない」
「そこへ、てめえみてえな得体のしれねえ胡散臭えヤロウが辰伶を尋ねてくりゃ、警戒もするわな」
「…なんで胡散臭いのかなあ。水は嫌いだけど、風呂にはちゃんと入ってるのになあ…」
「あー…、ほたる。今の、すっごくおもしろいわ…」

 事情は飲み込めた。辰伶らしい面倒な事情だと、ほたるは思った。ほたるには苦手な分野だ。正直なところ、よく解からない。遊庵が言った通り、その場にほたるがいたとしても、状況の変化に何ら寄与しなかったに違いない。

 それとも、少しは何か違ったのだろうか。


 辰伶は書架の前に立ち、本の整理をしていた。地味だが意外と体力のいる作業を淡々とこなしていたが、ふとその手を止めた。

「何か用か。熒惑」

 書架の陰からほたるが姿を見せた。

「ここは何?」
「四方堂様が創設された図書館だ。先代紅の王が残された蔵書を保管している。俺は四方堂様に頼まれて、本の分類や補修をしている」
「ひょっとして、辰伶って本が好き?」
「好きだな。最近は読書する時間が多くて嬉しいが、お陰ですっかり目を悪くしてしまった」

 そう言って辰伶は特に意味もなく眼鏡の位置を調節した。ほたるが壬生の郷を出る前は、辰伶は眼鏡などかけていなかった。

 低い調子で、辰伶は呟いた。

「不様だと…思っているのだろう」
「何が?」
「壬生を再建するのだと……吹雪様や村正様やひしぎ様のご意志を継ぐのだと息巻いておきながら、こんな有様ではな」
「ヘコんでるね」
「ああ…ヘコんだ」

 淡々と自嘲する辰伶からは、全く気力が感じられない。何だか一回り小さくなったように見えた。

「…何をしている」
「……」

 ほたるは辰伶の隣に立って背丈を比べてみたのだが、自分の身長が伸びていたわけではなかったので、小さく舌打ちした。

「皆が辰伶の言うこときいてくれないって、きいたけど」
「…まあな」
「聞きたくない気持ちもわかるけどね。おまえ、ウザイから」
「…悪かったな」

 辰伶は移動した。ほたるも後に続いた。別の書架で同じ作業を始めた異母兄の背中を見つめて、ほたるは言った。

「やっちゃえば……水龍で」

 物騒なことを軽々と口の端に乗せる異母弟に、辰伶は苦笑した。本当は笑っている場合ではないのだが。この言葉を迂闊に他人に聞かれて煽動と取られたら、謀略の罪で辰伶もほたるも拘束されかねない。危険な言葉だったが、ほたるが口にすると何故か深刻な感じがしなかった。

「力尽くは違法だ」
「そんな面倒なきまり、誰がつくったの?」
「俺だ」
「……」
「俺がつくったのだから、俺が破るわけにはいかんだろう」

 惨めな話である。しかし辰伶は笑って話すことができた。強がりではない。ほたるの声を聞いているうちに、複雑だと思っていた数々の問題が、甚だシンプルなことに思えてきたのだ。

「ねえ、辰伶。ヒマ?」
「お陰様で。毎日読書三昧だ」
「じゃあさ、行こうよ」
「何処へ」
「壬生の外へ、俺と」
「……」

 答えずに、辰伶は黙々と作業を続けた。その書架できりをつけ、辰伶は図書館を後にした。護衛という名の監視がついてきたが、ほたるは構わず辰伶の隣に並んで歩いた。

「壬生にいてもやることないんだったら、どこにいてもいっしょでしょ」
「……」
「行きたくないの?」

 辰伶ではなく、監視役が答えた。

「我らの目の届かない場所へ、議会の許可もなく行かれるのは困りますな」
「…お前には訊いてない」

 ほたるの視線が監視役を射抜いた。その目に宿る光の冷たさに、監視役は背筋を凍らせた。しかし根拠もなくほたるを軽んじていた為、いらぬ虚勢をはった。

「何だ、その反抗的な目は」
「あんたこそ、何?何で俺と辰伶の話のジャマするの」
「貴様が一方的に辰伶様に付き纏っているだけだろう。辰伶様は一言も返しておらん。貴様に迷惑しているのだ」
「……」
「これ以上付き纏うなら、貴様を辰伶様に害なす者として処断する」
「ふうん。面白いからやってみたら?」

 ほたるは監視役の鼻先へ剣をつき付けた。その動作は監視役には見えなかった。剣を突き付けられた監視役は声も出せず、ただ口をパクパクと開閉させた。他の監視役たちは剣を抜き、ほたるを取り囲んだ。

「こんなふうに、辰伶に何もさせないようにして、辰伶の理想を踏み躙って。……お前達は辰伶なんていらないんでしょ。だったら、俺がもらう」
「熒惑、やめろ」

 辰伶が制止の声を投げる。しかしほたるは剣を引かない。

「やめるんだ。お前がそういう行動に出るなら、俺は…」

 辰伶は己の手首を掻き切り、その血によって舞曲水を生み出した。

「こうするしかあるまい」

 ほたるの琥珀色の瞳が眇められた。

「辰伶と死合うのって、久しぶりだね。言っとくけど、俺は強くなったよ」
「…そのようだな」
「辰伶は?ちゃんと修行してた?」
「……」
「辰伶は…最強とか興味ないみたいだから、サボってたんじゃない?」

 辰伶の口の端に笑みが浮かんだ。

「確かに俺は、最強の称号には興味ない。壬生に仇なす者から、壬生を守れるだけの力がありさえすればいい。何も最強である必要はない」

 昔の、自信に満ちた声で言った。

「熒惑、貴様が壬生の者を傷つけ、壬生に仇なすというのなら、俺は貴様には負けぬ」
「…上等」

 ほたるは炎を召喚し、その身に纏った。ほたるを取り囲んでいた監視役の輪が破れて、彼らはほたるの背後で遠巻きに剣を構えた。不様な及び腰が情けない。

「お前達も耳にしたことくらいあるだろう。こいつは元五曜星・熒惑だ。そして俺が何者か忘れたわけではあるまい。五曜星同士の戦いに巻き込まれたくなければ、この場を去れ。言っておくが、周りを気遣う余裕はない」

 辰伶の忠告に、監視役達は傍目も構わずに逃げ出した。その様子を見届けた辰伶は、舞曲水を消滅させた。

「さあ、行こう」
「何処へ?」
「…外の世界へ誘ってくれているのではなかったのか?」

 ほたるは驚いて、2、3度瞬きをした。

「死合は…」
「奴らを追い払う為の方便に決まってる。…いい加減に炎を消せ」

 辰伶との死合に少しワクワクしていたほたるは、つまらなそうに炎を収めた。

「奴らが戻って来る前に、さっさと出掛けてしまおう」
「…おまえ、こんな性格だったっけ?」
「色々あったからな。俺も逞しくなった」

 辰伶の笑顔が太陽のように眩しくて、ほたるは無言で頷いた。


 郷と樹海の境にある、造られし者の居住区で、辰伶は出来損ないの子供達と別れの挨拶をしていた。

「すまない。太白と約束したのに…」

 子供達のいたいけな瞳にあって、辰伶は外へ行く決心が鈍った。辰伶は背後に立っている熒惑に振り返らずに言った。

「熒惑…やはり、俺は…」

 彼らを見捨てて旅立てない。俯き唇を噛み締める辰伶の背中に、ほたるは溜息をついた。辰伶は変わっていない。政治に携わって他人との駆け引きに揉まれて、多少の狡さを身につけても、辰伶の魂は純粋なままだ。

 ほたるは独り、辰伶に背を向けた。その時、舌足らずの子供の声が、明瞭に言った。

「まえに、ちんれいちゃま(辰伶様)が言いまちた。泣かないですむように、つよくなれって」

 辰伶は驚いた。そのセリフには確かに覚えがある。しかし、まさかこの子供が覚えているとは思っていなかった。

「ボクたちはつよくなります。ボクたちみんなが泣かないために。だから、安心ち(し)ていってらっちゃ(さ)い」

 子供の言葉に、辰伶は胸がいっぱいになった。

「…必ず…帰ってくるからな……土産を楽しみにしてろ」

 辰伶の声は震えていた。その首に、花の首飾りがかけられた。幾つも、幾つも…

「げんきでね、ちんれいちゃま(辰伶様)」
「けいこくちゃま(熒惑様)と、なかよくね」
「いつまでも、けいこくちゃま(熒惑様)と、おちああせ(お幸せ)にね」

 子供達からかけられる言葉に妙なニュアンスが混じっていることに、辰伶は気付いた。

「つかぬことを尋ねるが…おまえたち…俺達が外の世界に何をしに行くと…」
「知ってまーす。かけおちでしょ!」

 信じられない単語をきいて、辰伶の意識は宙に彷徨った。

「え、ちがうよ!ちんこんりょこー(新婚旅行)だよ」
「バカだなー。けいこくちゃま(熒惑様)がちんれいちゃま(辰伶様)をごーだつ(強奪)してくんだから、カ・ケ・オ・チ」
「しゅ(す)ごーい、ろまんちっく」

 子供達が駆け落ちの話に花を咲かせている中で、辰伶は魂が抜けたように茫然としていた。その襟首を掴み、ほたるは辰伶を引き摺るようにしてその場を後にした。辰伶はハッと正気づき、喚きだした。

「ご、誤解だ!おい、熒惑、放せ。あいつらの誤解を解かねば!」
「そんなこと、どーでもいいじゃない」
「良くない!くそっ、最近の子供の教育はどうなっておるのだ!改革だっ。戻って教育制度の改革だーっ!」
「…うるさいなあ」

 煩く喚く辰伶の口を、ほたるは自分の口で塞いだ。効果は覿面で、辰伶は驚きのあまり唇が解放されても言葉を発することができなかった。

「俺はいいけど?駆け落ちでも」
「……」
「俺は辰伶と行きたい。ただ、それだけだから」

 ほたるは微笑んだ。至近の琥珀の瞳に、辰伶は魅了された。

「辰伶と生きたい。俺はただ、それだけを想って、外の世界を旅していたんだよ」

 もう一度、触れるだけのキスをした。


 一部始終を心眼で視ていた遊庵は、厭きれて溜息をついた。

「ガキどもに妙なことを吹き込んだのは、姐ちゃんかよ」

 遊庵の隣には灯が立っていた。

「まあね。これなら辰伶も心置きなく出て行けると思って」
「ウソからでた真とは、よく言ったもんだぜ」
「え?」
「…なんでもねえよ」

 締まらないラストだ。誰に語るでもなく、遊庵は心の中で呟いた。


 おわり