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後継なき舞台
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辰伶の嘆きは、時人にも理解できた。しかしそれ以上に、父の心がその弟子に理解されていないことが、胸に痛かった。
「辰伶…父様は…」
言いかけて、時人は驚きに声を失った。振り返った辰伶は、時人の予想に反して、晴れやかな顔をしていた。これまで口にしていた苦悩や忸怩たる想いの痕跡は、その面には欠片も無かった。
「時人様、『文化』とは何だと思いますか?」
唐突な話題の転換に、時人は呆然とした面持ちで辰伶を見詰めた。辰伶は微笑を漏らした。
「壬生には素晴らしい文化があります。しかし文化を同じくする壬生の中にも異なる価値観が存在します。それは流派の違いであり、世代の違いであり、突き詰めれば個人個人の全てが違っています」
「だってそれは……同じ人なんて1人もいないんだから、しょうがないよ」
「ええ。私には私の価値観、時人様には時人様の価値観があります。しかしそれでは他人との価値観の共有のもとに生まれる『文化』などというものは、本当にこの世に存在しているのでしょうか」
辰伶が何を言いたいのか、時人には理解できない。戸惑いながら、辰伶の言葉に対して受けた印象を躊躇いがちに口にした。
「文化なんて…単なる思い込みの、幻想だっていうの? 文化なんて、本当は存在していないってこと?」
辰伶は緩やかに首を横に振った。
「それでもやはり、文化はあるのです。一瞬たりとも姿を留めず変化し続ける水が、悠久の大河を形成しているように。私はこう思います。文化とは人の生き様そのものなのだと」
「文化は、人の生き様…」
時人は口の中で呟いて復唱した。漠然として曖昧な、しかし簡潔で奇妙に納得する定義に思えた。
「だから、文化を持たぬ者などおりません。文化の無い民族もありません。自分の文化は大切にしなければならないし、異なる文化を貶めてはなりません。それは『人の生き様』を汚すことだから。相手に染まることでなく、相手に押し付けるでもない。理解しあうことが、文化の交流ということではないでしょうか」
時人は先ほどまで辰伶が手にしていた能管に目を遣った。壬生の外の世界で生まれた壬生には無い笛。律の狂った、壬生の価値観では「壊れている」とされる笛に、外の人々はどんな価値を見出したのだろう。この笛を生み出した文化には、どのような奥行きがあるのだろうか。辰伶はそれが知りたくて、この笛と語らっていたのだと、時人はそう理解した。
「外の世界は昔の私にとって憧れでした。今もその気持ちはありますが、あの頃のような幼い憧れとは違います。責任ある立場で身動きしづらいのは確かですが、ただ余暇が無いから行けないのとは違います。私は外の世界へ行くことを我慢しているわけでも、ましてや諦めたわけでもありません。外の世界へ行くことを、ただの物見遊山に終わらせる気がないだけです。壬生の文化を担う者として、外の世界の人々に堂々と相対し、外の人々の文化に毅然として向き合いたい。来るべき外の世界との交流の為に、準備をしているのです」
この富士の樹海の奥深くの壬生の郷に在って、この漢はそんなにも遥か遠くを見詰めていたのか。雪の為に屋敷に閉じ込められながら、異文化の笛を吹き、こんなにも自由に魂を解放していたのか。時人は目の覚める思いで、父親の弟子であった漢を見詰めた。
「私の異母弟である螢惑は、心の赴くままに先へ先へと行くでしょう。壬生の郷の誰も行ったことのない遥かな地にまで。私はそれに並ぶことはできませんが、でも、いつかきっと、螢惑がその目で見て、その足で立った場所に、私は辿り着きます。螢惑や、狂や、椎名ゆやという娘や、アキラ殿や…彼らの仲間達が足の向くままに切り拓いて行った道を、私はゆっくりと地均ししながら行くのです。後から通る者たちが、更に先へと進めるように」
辰伶は時人から能管を受け取った。手にしたそれを愛しげに眺めた。
「ひょっとしたら、私は、結局は外の世界へ行けずに終わるかもしれません。志半ばで倒れるかもしれません。でも、この私の夢は、次の世代が叶えてくれると信じます。吹雪様がそのお志を私に托して下さったように」
あれから何度も冬を迎えて、今日のように雪が降るたびに、辰伶は己の心の中の師匠と対話した。繰り返し繰り返し吹雪に尋ね、吹雪は辰伶に答えを返してくれた。昔と同じ温かい声で。吹雪の慈愛の記憶は、どんなに時間が経っても辰伶の中から薄れることはなく、寧ろ年を経る程に、改めてその奥深さに気付かされるのだ。
「かつて私は吹雪様の深い苦悩も知らず…知ろうともしませんでした。そんな過ちを、私は2度と犯したくない。吹雪様の本心を見誤ったりしたくはない。私を駒として扱われたことこそ、師としての深い愛情であり、弟子に対する期待の証であったのだと。私は吹雪様のお心を真っ直ぐに受け止めることにしました」
だから辰伶は望んだ。この壬生の歴史、壬生の素晴らしい文化を後世に伝えていくことを。自分達は誇り高い一族なのだと、一族1人1人が感じて欲しいと願った。
そして、壬生の外の人々と良い交流を結び、その上で、壬生の文化とは何なのか、自分たちは何処から来て何処へ行くのか、自分たちは何者なのかということを、改めて見つめ直したかった。吹雪ら先人達が残したものの価値を知り、更に磨きをかけて次世代へ托す為に。
「そしてなによりも、壬生を深く愛された吹雪様たちのお心を久遠に伝えていきたい。それこそが永遠の命…『不老不死』なのではないでしょうか」
「辰伶…」
「私は多くの民を率いる指導者ではなく…1人の教育者になりたいと思います」
辰伶は誇らしげに微笑んだ。その眼差しを、遠い記憶の中に見たことがあると、時人は思った。
「ああ、いつのまにか雪がやんでいたようです」
辰伶は障子戸を大きく開け放った。日が照って、白い庭が銀色に輝いていた。
「手段も目的も方向も速さも全く違いますが、私も螢惑も未来へ向かって歩いているのですよ」
「そうだね」
時人は微笑んだ。
―――そうなんだね。僕もお前も、皆、父様たちと同じ『先』を見ているんだね。
雪の白さが、目が痛いほどに眩しかった。
◇
◇
◇
―――過去―――
◇
◇
◇
「何か良いことでもありましたか、吹雪」
「解かるか? ひしぎ」
「何年の付き合いだと思っているんですか」
吹雪は得意げに胸を張ると、微笑みに口の端を緩めて、彼の上機嫌の訳を打ち明けた。
「俺は後継者を得たぞ」
ひしぎは不可解そうに吹雪を見返した。
「は? 跡継ぎでしたら、既に時人がいるじゃないですか」
「そういう意味の後継者ではない。確かに時人が生まれた時は、それこそ俺の人生で最高に嬉しいことだと思ったが…」
「おやおや。それでは姫時が妬いてしまうかもしれませんね」
「む、村正」
不意に姿を見せた妻の兄に、吹雪は彼らしくなく動揺した。
「も、勿論、姫時と結婚したことが、俺の人生で最高の出来事だ」
優しく美しい妻に対し、吹雪に不満は無かった。しかし村正の妹であることは、姫時の唯一にして最大の欠点だと思う。
「本当に、貴方は“最高”だらけですね。羨ましい限りです」
「そういうお前は、壬生最高の頭脳の持ち主ではないか。ひしぎ」
「そして村正は最高位である太四老の長ですか」
「私は長なんて柄じゃないと思うんですがね」
「長にはお前のような聖人面が一番似合うんだ」
「酷いですねえ。私は顔だけの長ですか」
村正は抗議するも、その口調には笑いが混じっている。彼らは親友同士だ。最高の。
「それはそうと、吹雪。貴方の上機嫌の理由を、まだ伺っていませんが」
「聴きたいか? それはだな…」
「そうですか。良い弟子を得られて、吹雪は幸せですね」
吹雪は舌打ちした。
「これだからサトリは…」
答えを言う前に横から明かされてしまって、吹雪は忌々しそうに村正を睨んだ。それを受けても村正は飄々と微笑を絶やさない。吹雪が心底腹を立ててはいないことが解かっているからだ。それはサトリの能力ではなく、これまでの長い付き合いによる。それはひしぎも同様なので無意味な仲裁はしない。
「しかし、吹雪。貴方はこれまで何人も弟子を指導してきたじゃないですか。今回に限って何が特別嬉しいんですか?」
「彼らも優秀な者たちだったが、言うなればそれは俺の技や術を伝授したのみだ。俺は、俺の志を継ぐ者、魂の後継者を得たのだ」
仄かに上気した頬が、吹雪の喜びの大きさを表現していた。村正もひしぎも、子供のように得意げに語る吹雪を、珍しいという思いで見詰めた。
「俺の水舞台に対する想い…壬生一族への想いを受け継ぐ者が現れたのだ。解かるか? この感動が」
「それは素晴らしいですね」
「解かってくれるか、ひしぎ」
「貴方のような人は、この世に貴方しか存在しないと思っていましたよ。いたんですねえ、貴方のような純粋バカが」
「な…っ。誰がバカだ」
「いいじゃないですか。私は好きですよ。純粋バカ」
「ずっとバカでいて欲しいですね。『壬生の為に』」
「ええ、『壬生の為に』」
「……」
己の口癖を揶揄されて、吹雪はむっつりと黙り込んだ。無遠慮な親友どもは笑った。笑いの漣が収まったところで、村正が言った。
「でも、確かに羨ましいですよ。貴方には貴方の血をひく跡取りがいて、貴方の技と術を伝える伝承者がいて、その上、心さえも受け継いでくれる魂の後継者までいるのですから」
「本当に、幸せな漢ですね」
「ふふん。羨ましがっておらんと、貴様らも跡取りくらい手に入れたらどうだ。この独身者どもが」
村正とひしぎは完敗を認めた。妻帯者には勝てない。家庭を持つ漢は、こうも自信に満ち溢れて強いものなのか。
「そうですね。私たちも、せめて片方くらいは手に入れたいですね」
春の風が花の香りを運んだ。3人は同時に視線を外へと向けた。姫時が咲かせた花たちに囲まれて、時人が倖せそうに笑っていた。
眩いような、光の中で。
おわり
吹雪様に捧げます。
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