How Much Love
(『恋に出会う』の続き)
ほたるは異母兄に恋をした。けれどそれはうっかりひきこんだ風邪のようなものだと考え、己の恋心に何の手当もせずに放置した。
全く恋心を舐めていたと、今ではほたるも反省している。風邪だって拗らすと厄介なのだということを失念していた。
辰伶に対する想いは癒えるどころか益々悪化してしまった。このままではいずれ良からぬことをしでかしてしまうかもしれない。きっとやらかすだろう。絶対絶対ヤるに違いない。それは確信だった。変なところでほたるは自信があったので、一度は彼の傍を離れてみた。辰伶のためというよりは、むしろ自分の為に。
異母兄弟でそれはおかしい。それはダメだろう。まして無理矢理なんてありえない。ほたるの性愛に対する認識は、周りが思っている以上に常識的で理性的だった。
そうして離れたことで、愛しい人の面影は色褪せるどころか、記憶の中でより鮮やかに艶やかになっていた。蠱惑的な幻像が夢にまで現れてほたるを誑かす。そんな日々に疲れて果てたほたるは、恋心の元凶たる辰伶への憧憬をぶち壊してしまおうと思った。音信不通となって8年後、ほたるは異母兄と再会を決心した。8年も経てば色々劣化して、幻滅する要素も見つかるだろう。
ところが辰伶は手強かった。8年ぶりの辰伶はまるで劣化していないし、その兆しも無い。記憶の中で美化しまくったはずなのに、実物の辰伶はそれを遥かに凌駕して麗しくなっていた。結局のところ、辰伶に恋する以外の選択肢が、ほたるには用意されていなかったのだ。
「というのがこれまでの粗筋なんだけど」
「……誰に説明してるのよ」
ほたるの恋心を知り尽くしている唯一の人、灯の家にほたるは居候していた。8年ぶりに壬生の郷に帰ってからずっとである。
「家に帰ってくるように、辰伶から誘われてるんでしょ」
「俺の家じゃないし」
「また例の無明歳刑流アレルギー?」
「ナニソレ、ワケワカンナイ。もう親父のことなんて拘ってないし」
無明歳刑流本家の当主である辰伶の家は、当たり前だが無明歳刑流本家の屋敷だ。そして辰伶の異母弟であるほたるも、本来ならそれに連なる身であるのだが、ほたるはこの世に生を受けると同時に実父から存在を否定され、ずっと命を狙われ続けた。だから自分と無明歳刑流は無関係だと思う。その屋敷も自分が帰るべき家とは到底思えない。しかし、それよりももっと問題なのは…
「…1つ屋根の下なんてふしだらデス」
「ふしだらとか……あのバカでかい屋敷で1つ屋根の下とか言われてもねえ…」
灯も無明歳刑流本家の屋敷がどれくらい大きいのか正確には知らない。全て想像の域だ。だが、大きな屋敷であることは間違いない。辰伶の話しぶりでは、ほたるの部屋どころか、専用に一棟と、そこを管理する使用人も手配して準備してあるらしい。全然一つ屋根の下ではないじゃないか。
「とにかく、俺は辰伶を大事にしたいの」
ほたるのそのセリフに、灯は感動した。
「イイオトコになったわねえ…」
やっぱり恋は偉大だと、灯はしみじみ思う。
「でも、辰伶だってまんざらでもないんでしょ」
つい先日のこと、灯の企みのせいで、ほたるの辰伶への気持ちは一方通行ではなかったことが判明した。そして気づいたら告白してしまっていたのだが、後で冷静になって思い返してみると、それに対する辰伶の明確な返事がない。ほたるを求めてくれたのが、ほたると同じ恋心からなのか、単に酔いに任せて雰囲気に流されてしまっただけなのか、本当のところはどうなのかがよく解らない。今さら確かめる勇気もない。
「あれから辰伶は俺のこと特別に親密にしてくれてるけど、でもこれ弟扱いの延長の気がしないでもないんだよね。辰伶から(性的な意味で)誘われたことないし、そもそもそんな雰囲気にならないし…」
「でも拒まれることもないんでしょ」
「まあ、キスくらいだし。あのね、拒まれないから困るんだけど」
「なんで困るのよ」
「辰伶が止めてくれないと、止まれない」
「止める必要があるの?両想いなんだからいいじゃない」
「ダメだよ。俺たち異母兄弟なんだから。変だよ」
「…辰伶よりも、アンタの方が石頭ね」
誰かに横から掻っ攫われても知らないからと、灯は忠告する。それはほたるも思う。この壬生の郷で辰伶は最も有名で、最も美人で、最もモテる、とほたるは思っている。時々、少し強引な勘違い野郎が現れて辰伶の水龍に血祭りにあげられているが、この先、誰が辰伶の心を射止めないとは限らない。
辰伶を諦めなければならない気持ちと、諦め切れない気持ち。2つの心の間で、ほたるの心は千々に乱れ、苦しい毎日を過ごしていた。そんな気持ちを抱えて辰伶と同じ家に住むなんて地獄だ。
「じゃあ、諦めるのね」
「ヤだ」
灯は『心底あきれました』とほたるに伝わるように溜息をついた。近頃はこれが頻繁だ。
「じゃあ、どうするのよ」
「とりあえず…図書館行ってくる」
図書館とは、先代紅の王が残した膨大な蔵書を保存する為に建てられたもので、館長は四方堂が務めている。しかし館長といっても、日がな図書館に入り浸って(噂によると住み着いていて)本を眺めているだけだ。運営は全て職員が行っていて、それに余計な口出しをすることもない。
「なんだかんだ言って、毎日図書館に通ってるあたり、行動が辰伶を諦めてないのよね」
「どういう意味?」
「辰伶目当てなんでしょ」
図書館が最も辰伶に遭遇できる場所であることは、壬生の郷では常識だった。職員に混じって図書館の業務をしていることもある。
辰伶は行政の長であり、治安維持の最高責任者でもあるので、本当のところ図書館の業務を兼任できるような暇はない。わざわざ時間を作っては図書館に通って司書紛いのことまでしているのは趣味とか道楽に近い。
図書館の方でも辰伶を非常勤の司書として扱い、専用の執務室まで用意している。それには、辰伶のお蔭で図書館の利用者が増えて、食堂など、図書館の付属、或は周辺の施設が充実しているという現実があるからだ。この極めて有効な客引きパンダを逃す手は無い。
ほたるも辰伶目当ての利用者の1人だが、そういう軽佻浮薄な輩と同列に語られるのも癪な気がして、素直に認めたくなかった。
「…仕事だよ。喰うべからずでしょ。帰ってからずっと灯ちゃんの世話になってるからね。食費くらい入れるよ」
「殊勝な心掛けだけど、残念でした。それはとっくにもらってるの」
「え、何ソレ。何で?誰が……って、辰伶?」
「そもそも、この診療所は土地も建物も辰伶の所有なのよ。アンタが居る間は賃貸料タダ。それどころかアンタの生活費を支払ってくれてるの。そんなのなくったって、仲間の面倒くらいみるけどさ、わざわざくれるってものを断る手はないわ」
「なんかムカつく。自分で払うから、そんなの返してよ」
「無理ね。半端ない金額よ。それこそ高級羽毛布団が買えるくらい」
「…買ったの?」
「アンタが使ってる布団もよ。寝心地いいでしょ」
確かに最高の寝心地だが……しかしほたるにはほたるの譲れない想いというものがあって……
「他にも欲しいものいっぱいあるから、まだしばらくは金ヅルになってもらうわよ」
ほたるに選択肢は与えられていなかった。
ほたるが仕事の為に図書館に通っているというのは、嘘ではない。辰伶の為に設えられた執務室。ここがほたるの仕事場だ。
「では、始めようか」
「うん。今日はねえ…笹を食べる白黒のクマの話なんてどう?」
「ほう、どんなクマだ?」
興味深そうに辰伶が相槌を打つ。ほたるが巡った諸国の話を、辰伶はいつも真剣に聞いてくれる。それがどんなに他愛のない内容でも。今でも彼の中で燻り続けているだろう外の世界への憧れ故か。
ほたるが語り、それを辰伶が筆にする。ほたるが外の世界で得た体験を書物の形にするのが、辰伶から与えられたほたるの仕事だ。
書物が評判になって写本を求める人が増えれば、その作業に携わる者たちに職を与えることができるから、というのが辰伶の考えだ。改めて辰伶の立場の重さをほたるは感じた。こんなに他人のことばかり考えながら生きなければならないなんて。『長』なんてものになりたがる者の気持ちがほたるにはさっぱり解らない。
実のところ辰伶は『長』を名乗ってはいない。そもそも現時点で壬生には『長』と呼ぶべき明確な肩書や地位が設けられていない。ただ、壬生の郷の復興を願い尽力する人々の中で、辰伶に統率力と責任感と計画実現能力があったために、なんとなく人々が辰伶を『長』と認識しているだけなのだ。そうして多大な責任を辰伶に背負わせている。辰伶も、それが壬生の為ならと、人々の勝手な期待や要求を投げ出したりはしない。奴らは辰伶の壬生の郷を愛する心に付け込んで、辰伶の能力を搾取しているように、ほたるには見える。だからこの仕事には、ほたるはあまり好意的になれないでいる。
また辰伶は、路銀にもなるだろうからと、ほたるの利益も考慮してくれていた。しかしほたるは路銀の心配などしたことはない。金銭が必要なら、その時のその場でどうとでも工面してきた。だからそれもほたるの心を動かしはしなかった。
それなのに依頼を断れなかったのは惚れた弱みとしか言いようがない。辰伶が(的外れとはいえ)ほたるのことを考えてくれたのも嬉しいといえば嬉しい。それに決して悪い仕事ではない。辰伶と2人きりで、2人で協力して1つのことを成す。まるで夫婦じゃね?とか思ったり…
話に夢中で、いつの間にか互いの距離が密着しそうなくらいに近くなっている。そんな時、2人はその甘い流れに逆らわず、自然に口付けを交わしていた。
(もうこれって、完全に恋人って呼んでもいい気がする)
そのまま辰伶を押し倒しても、きっと彼は抵抗しない。それは解っていたが、ほたるはそこから先へと進もうとはしなかった。辰伶も促しはしない。それではいけないだろうかと、ほたるは思う。いけないことはない。だが、もの足りないとも思う。もっと確実に辰伶を手に入れてしまいたい。そういう欲求もなくはない。
「…辰伶」
離れた唇を名残惜しむように、相手の名前が吐息のように零れる。
「…熒惑」
応える辰伶も、熱っぽく名前を呼ぶ。ほたるを「熒惑」と呼ぶのも、今では辰伶だけになった。そう呼ぶのを、辰伶にしか許していないからだ。名付け親の遊庵にさえ、呼ばせていない。むしろ遊庵は「ほたる」の名を積極的に定着させてくれた。それはまるでほたるが選んだ道を後押しするように。血縁はなくとも遊庵こそがほたるにとっては兄だ。
辰伶と遊庵。本物の血縁者と精神の家族。2人に対する自分の気持ちを比べてみると、ほたるはやはり辰伶を本当には兄だと思っていないことに気づく。辰伶に対する情は、兄弟に対して抱くものではない。辰伶は……辰伶なのだ。ほたるのことを誰が何と呼ぼうとも、辰伶からだけは「熒惑」と呼ばれたい。
ついそんな思考に陥ってしまい、せっかく「そんな」雰囲気になったのに、ほたるは急に現実に引き戻されてしまった。
「…辰伶……お腹すいた」
ほたるは今回もわざとその気を逸らせてしまった。辰伶は拍子抜けた顔をしたが、次の瞬間には笑い出して空腹に同意した。残念がっている様子はなく、むしろホッとしてさえいるようにほたるは見えた。ほたる自身も惜しいと思いつつも、どこかホッとしていた。
「ヘタレ」
灯にそのように評されて、ほたるは返す言葉も無かった。禁忌を冒すのは簡単なことではないけれど、常識や良識をさして大事と思っているわけでもないのに、最後の一線を越えることがこんなにも咎めるなんて、自分でも不思議にほたるは思う。
午後から辰伶はいくつかの訴訟について裁決を下さねばならないからと、昼食後は政庁へ行ってしまった。全く働き過ぎだろう。ほたるは図書館に戻って辰伶の執務室でうたた寝をして過ごし、夕方前には灯の家に帰ってきていた。図書館の地内の食堂の惣菜を手土産にして。
安い、多い、美味いで評判の食堂は、庵家の長女、庵奈が切り盛りしていた。ほたるがいくといつも椀や皿を大盛にしてくれる。他の客には内緒の特別サービスだ。公平でないのは良くないだろうけれど、身内だというだけで無条件に特別扱いしてくれることが、ほたるにはくすぐったくて、胃袋も心も満たされる。
そして身内の特権で、晩飯用に料理を重箱に詰めて用意してもらった。庵奈の大胆だが優しい惣菜は、灯も気に入っている。晩酌が進んで、2人とも酔いが回っていた。
「そういえば、アンタたちの本、なかなか評判らしいわね」
そうなのだ。辰伶の目論見通り、ほたるの見聞書は人気を博し、外の世界に憧れる人々で、壬生の郷は今や空前の旅行ブームだ。
「そのせいで、外の世界の人間たちとの間で揉め事が増えてるって、辰伶が言ってたなあ。それを治めるのに法度だか約定だかを、虎ガラと急いで取り決めなければって、忙しそうにしてた」
虎ガラ、紅虎の正体は徳川秀忠。言わずとしれた天下人である。つまり、人間と壬生一族との間で正式な条約を交わすことになるのだ。
「今はゆやが厚意で窓口になってくれてるものね。でも、もうそれじゃ回らないでしょ。ゆやに迷惑がかかることもあるだろうし」
「うん。だから、正式に窓口機関をつくるって言ってた。ゆんゆんの兄貴とか、村正の女の妹とかが、それになるっぽい」
「私たちがこうしている間にも、時代は進んでるのね……アンタは進んでないけど」
結局、話はそこへ戻ってくる。ほたるはもう何杯目か記憶が無い酒の杯を干した。
「今の辰伶って綺麗だけど……あれ、村正のマネっこだよね。本当の辰伶は鬼みたいに鬼で…鬼なのを上手く隠して騙してるけど、鬼だよね」
「話が逸れてるわよ、酔っ払い」
「ええと、村正のマネしてるのって、その方が壬生を治めるのに便利だからでしょ。本当の自分を抑え込むのって辛いと思うけど、辰伶は壬生のために生きちゃう人だから、壬生の為なら村正にだって成りきっちゃう」
「そうね。外側村正の、中身吹雪してる感じね。1人2役」
「で、灯ちゃんがひじきの頭脳役で……ゆんゆんの出番無いね」
「頭脳役って何よ。あと『ひしぎ』ね」
関係ないが、2人ともひじきと豆の煮物に箸を伸ばした。庵奈の惣菜は美味い。
「…辰伶ってさ、無意識に周りの要求に応えちゃうとこあるよね、昔から。周りが村正とか吹雪を求めてるからそうなっちゃってるんだろうなあと思うと、相変わらず窮屈に生きててウザイけど、それでこそ辰伶だなあ…って」
「達観しちゃったのね」
「俺にとっては昔も今も全然変わってない。辰伶はずっと辰伶のままだ。そう、壬生の為に生きて、壬生の為に死ぬって言ってたころと何も変わっちゃいない。辰伶にとって一番大事なのは壬生一族。……ねえ、どれだけ辰伶のこと想ったら、俺は壬生に勝てるの?……」
切ない言葉を残して飯台に突っ伏したほたるが、やがて寝入ってしまうと、灯はこれまでの会話を全て隣室で聞いていたであろう人物を呼んだ。
「…ていうのが、ほたるの気持ちよ。辰伶」
「……熒惑の部屋は?」
だらりと意識の無いほたるの身体を、辰伶は肩に担ぎあげた。灯は大儀そうに溜息をつくと、ほたるが間借りしている部屋へ辰伶を案内し、寝床を用意した。そこへほたるを優しく寝かせてやる辰伶の、その甲斐甲斐しい様子のどこが鬼なのか。ほたるの寝顔を見守る眼差しが、どれだけ愛しさに溢れていることか。辰伶の優しさと慈しみは、ほたるに限定しては上っ面ではない。
「ほたるの気持ちに応える気はあるんでしょ。この際、辰伶から誘ってみてもいいんじゃない?それともやっぱり禁断の関係には躊躇する?」
辰伶は無言で唇の前に人差し指を立てて見せた。酔って熟睡してしまったほたるが簡単に起きるとは思えないが、眠りを妨げないように場所を変えることにした。
先ほどほたるが晩酌していた席に、今度は辰伶が座った。しかし酒を嗜むでもなく、料理に箸を伸ばすでもなく、辰伶は至極真面目に話した。
「禁忌だからというのは、別に大したことではない。それとは別の話で、俺から熒惑を誘うことはできない。熒惑と違って、俺の想いは邪だから」
「……ゴメン。意味が解らないわ」
「そもそも子孫を残すことが目的の行為だろう。ならば、子供の生まれなくなった壬生一族同士でのそれは、相手が同性だろうが異性だろうが無意味なことに変わりはない」
「無意味って……まあ、そういう捉え方するなら無意味かもしれないけど。そうなると、辰伶にとっては壬生一族以外の、つまり人間の女だけがその対象ってことになると、そう理解していいのかしら」
「…俺はもともと家を存続させていかねばならない義務があったから、跡取りを得るための相手なんて、それこそ「家」で決まることだから、ろくに考えたこともなかった」
「おーお、名家発言、腹立つわー。必要だったら、愛していない相手と寝ることにも抵抗ないってことよね」
「……心を許した相手の方がいいに決まっている。だが、俺にとっては、人を好きになることと、番うことと、婚姻とは、全く別のことだったのだ」
「悪いけど、そういうの、解りたくないわね」
灯が至上とする幸福の構図は、好き合う者同士が一緒になって幸せになるという、単純といえば単純なものだ。だから、辰伶の価値観は根本から受け付けられない。
「そんなにきっちり区別したり、割り切れたりできるものなの?」
「そこをきちんと区別せずに曖昧にしてしまったのが、俺たちの父親だ。あれは暴君ではない。心の弱い、ただの臆病者だったのだ。その弱さのツケを、熒惑の存在を抹消してしまうことで清算しようとしたんだと思う。だから俺は絶対に間違えるわけにはいかないのだ」
父親が異母弟を殺そうとしていたことは、辰伶にとって重い事実として未だに心の中で燻り続けている。父親と同じ過ちをしないことが熒惑への償いであり、辰伶の信念だ。
複雑な事情に縛られて生きている辰伶は、なるほど、ほたるの言う通りウザイと灯も同意した。そして、そのウザイところも好きだというほたるの気持ちの真剣さに、灯は絆されてしまうのだ。このどうしようもないバカどもを何とかしてやりたい。
とりあえず、素面で話すには内容が込み入っていると感じたので、灯は辰伶に酒を勧めた。いささか喋りすぎて喉に渇きを覚えていた辰伶は、勧められるままに酒を口にした。
「壬生が崩壊して、俺だって色々価値観が変わった。だが、根底にあるものは簡単には消えなくて…相手に拘りが無いのは今でもそうだ。だから、異母兄弟である熒惑と関係を持つことに禁忌という躊躇いは余り無い。だが……愛しい相手を情欲のままに求めるのと違って、ある種の目的を遂げる為の手段とすることにも余り躊躇いがなくて…」
「もう少し解りやすく」
「だから、熒惑は純粋に俺の体に欲情して求めてくるが、俺は違う。この体で熒惑を壬生の郷に留めておけないかという打算が常にある」
「…えっと…体を使って快楽の虜にして、ほたるを繋ぎ留めようってこと…よね…?」
「…………そうだ」
「不純だわー」
灯はゲラゲラと笑い出した。酔って笑い上戸になっているらしい。
「そうね、そうなのね。だから辰伶からほたるを誘うことは『できない』わけだ」
「そうだ。熒惑から欲してくれるのでなければ意味がない」
「不純だわー。辰伶って、そんなヤツだったんだ。情欲に直結してる分だけ、ほたるの方が純粋かもね」
「仕方ないじゃないか。熒惑はいつでも雲みたいに自由でいたい奴なんだから。もともと壬生の郷にいい思い出もないだろうから、すぐに郷を出ていってしまうし、出ていったら簡単には帰って来ないし。8年間、どうせ俺のことなんて思い出しもしなかっただろうさ。今回の帰郷だって、灯や庵一家が懐かしくなって帰ってきたんだろう。ムカつくな!俺の気持ちも知らないで」
辰伶も酔いが回ったようで、普段よりも感情的に饒舌になっていた。
「でも、俺の体に興味をもったみたいだから、もしかしたら執着させられるんじゃないかと期待するじゃないか」
「健気ねー。期待して待ってるくらいなら、自分から押し倒しちゃえばいいじゃない」
「だから、それでは意味が無いと言っただろうが」
「でも、上手くいってないじゃない」
「手応えはある…と思う。最近では熒惑とそんな雰囲気になる回数も増えたし。…途中で逃げられてしまうが」
突然として、がばりと顔をあげた灯は神妙な面持ちで言った。
「アイツ、男同士のやり方知らないんじゃない?ていうか、もしかして、ど…」
「え?まさかそんな理由で?」
つられて辰伶も真剣に考え込んだ。
「そうならそうと言ってくれれば……俺が教えてやるのに」
「え?何?まさか辰伶、男性経験有り?」
「それは無いが、知識としては知っている。自慢ではないが、熒惑と会うときは、いつそうなってもいいように準備はしてある」
「準備って、……の?」
「当たり前だ。……を……で……して……」
「……で……って、無明歳刑流って、そんなことまで伝授してくれるのぉ」
「そんなわけあるか!…自己流だ」
灯は腹を抱えて笑った。話をする間、止めどなく酒を飲み続けた辰伶も目が座っていて、どちらも完全な酔っ払いだ。話題もすっかり下世話なものになっているが、2人とも気づいていない。
「じゃあ、下心で図書館に通ってたのはほたるだけじゃなかったわけだ」
「見聞書の作成なんて、熒惑に逢うための口実に決まっている。都合のいいことに、執務室は個室だからな」
「仕事中にいちゃつこうなんて、意外に手段選ばないのね」
「だって、家には来てくれないし……」
気怠く飯台に肘をついている辰伶は、恨めしそうに灯を見遣った。ほたるが灯の診療所に居候していることが、辰伶は面白くないのだ。ひょっとすると、彼は灯に嫉妬さえしているかもしれない。
灯は辰伶に同情した。こんなにもあからさまに誘っているのに空振り続きで、さぞかし虚しい気持ちになったことだろう。ほたるは辰伶の行動を「弟扱いの延長」だの「誘われたことない」だの「そんな雰囲気にならない」だのぬかしていたが、天然ボケも時によっては重罪だ。
「ほたるのこと、そんなに好きだったんだぁ」
「好きだ。あんな奴、惚れないわけない」
「あんなフラフラどっか行っちゃう奴の、どこがいいのぉ?」
「その自由気侭なところが好きなんだ。俺が何をしようが、それこそ体を使おうが、熒惑を留めておけないことくらい解っている。熒惑だって、きっと俺がそんな打算を持ってることを察知して、だからいつも途中で引いてしまうんだろう」
辰伶はぼんやりと杯の中で酒を揺らしていた。そして、何かを振り切るように一気にそれを飲み干した。
「だから、俺はもう諦めた」
「え?」
急な切り替えに灯はたじろいだ。ぐだぐだと愚痴を吐き出すだけ吐き出して、辰伶は心に整理をつけてしまったのだろうか。
「諦めたって…」
「俺に熒惑を壬生に留めておける力はない。だから諦めた」
辰伶は一途で融通が利かなくて、時には頑迷ですらあるのに、その一方で見切った時の切り替えは異様に早い。あれほど手段さえも選ばずに求めたほたるを、あっさりと「諦めた」と言ってしまえる辰伶は潔いのか薄情なのか。ほたるの代わりに灯が焦ってしまう。
「諦めるのはちょっと早計に過ぎない?」
「いや、最初から無理な話だったんだ」
そう言って、辰伶は不思議な笑みを浮かべた。
「何者にも縛られず己の心のままに自由に振る舞う熒惑だから、俺は好きなんだ。だから熒惑を壬生に繋ぎ止めること自体が間違いだったんだ」
壬生の為に尽くす辰伶と、壬生を出て気侭に旅をするほたる。互いが互いのことを思い合えば、結論は「別れ」しかないのかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか。
「だから……俺が熒惑についていく」
その声は晴れ晴れとして清々しかった。すうっと透明な輝きが灯の心を澄ませていく。
「熒惑が壬生の郷を離れて、どこへ行ってしまおうとも、どこまでも俺は追いかける」
「じゃあ、壬生はどうするの?」
「俺の責務を分散して、それぞれ後継を育てて引き継がせている。実はもう殆ど移行し終わっていて、後は紅虎との条約締結が済めば、もう大きな仕事は無い。そうしたら俺は第一線から引いて身軽になれるから、どこへ行こうと自由の身だ」
「本当に…本当に辰伶は壬生を離れられるの?壬生よりも……俺を選んでくれるの?」
「生涯を共にしたいのはお前だけ…え?熒惑、いつからここに…」
酔いつぶれて部屋で寝ていたはずのほたるが、いつのまにか辰伶を背後から抱きしめていた。辰伶は目いっぱい首をひねったが、首筋に顔を埋めているほたるがどんな表情をしているのか見えなかった。
「好き。ねえ、辰伶…抱きたい。抱かせて…」
「あ…、それは、ここでは……」
「アタシのことは気にしなくていいわよ。何なら朝まで出かけて来ましょうか?」
灯の気の回しようが、かえって辰伶の羞恥心に火をつけた。
「それはさすがに申し訳ない。今日のところはお暇する」
「じゃあね、灯ちゃん」
そうして2人で辰伶の家に帰って行った。その様子を晴れ晴れとした気持ちで灯は見送った。
「お酒が美味しいわ…」
今夜の首尾はどうだったか、今度ほたるに会ったら問い詰めてやろうと、灯は楽しく思った。
で、その首尾はどうだったかというと、
「役立たず」
「そういう言い方、傷つくなあ…」
酒の飲み過ぎで、上手くいかなかったらしい。いざ床入りしてはみたが、そこからほたるは記憶が無い。裸で抱き合ったまま、何事もなく朝を迎えてしまった。辰伶に尋ねてみても、不機嫌そうに何も答えてくれない。
「というわけで、また灯ちゃんの家に居候してるわけなんだけど」
「だから、誰に説明してるのよ」
もう少しで辰伶の役目の引き継ぎが完全に終わる。その日を待ちながら、ほたるは壬生の郷に留まり続けている。辰伶がほたるの為に郷を出るのなら、ほたるだって辰伶の為に郷に居てもいい。
「たまには帰ってきなさいよ。…アタシが生きてるうちに」
「うん。お土産、何がいい?」
灯の言葉に含まれる悲哀に気づかぬくらい、ほたるは幸福だった。そんな様子を見守る灯は幸福の女神のように美しかった。
やっと、2人で一緒に外の世界へ行けるのだ。
おわり