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残 暑


「疲れた」
「貴様のせいだ」

「タルイし、めんどくさいし」
「貴様のせいだ」

「何よりもうるさいのが1人…」
「貴様のせいだっ。バカ者!サボってる暇があったら、さっさと手を動かせっ」

 チクショウ。

 どうして俺がこんな目に。

 名門無明歳刑流本家の長子として生まれ、五曜星として壬生の中枢に身を置き、紅の王の直下に命を賜る栄を浴する貴族の中の貴族のこの俺が、この辰伶が何故…!

 横目で窺がえば、螢惑は自分の置かれた状況が判っているのかいないのか、ぼけっと蜘蛛が巣を張る様子を眺めている。例によって、コイツは何も考えてはいないのだろう。

 チクショウ。

 それというのも、あの時コイツが…


 その時、俺は壬生の郷の西辺にある旧大典寮に赴いていた。以前は壬生の知識と知性を集積した文書や記録を取り扱う重要な寮館であったが、建物の老朽化に伴う移転後は半分忘れられたような存在だった。今では全く使用されておらず、俺にしたところで吹雪様の口から「旧大典寮」の名が出たときには一瞬どこのことだったかすぐには思い出せなかった。

 長らく放置されていた旧大典寮だが、最近になって、この建物を改修して新たに薬学研究所として使用する計画が持ち上がった。現在壬生には2つの薬学研究所があり、この計画が実現すれば3番目の薬学研究所となる。

 さて、その計画に俺がどのような関わりがあるかといえば、実は殆ど何も無い。俺の管轄には全く関係の無い計画だったのだが、…無関係の筈だったのだが…

 この旧大典寮の改修計画には、太四老で俺の師でもある吹雪様が関わっているらしい。その吹雪様から、旧大典寮の建物の傷み具合を調査して欲しいと所用を託ってしまったのだ。

 こんな雑用は五曜星の役目とは何か違うような気がしないでもないが、吹雪様の頼みでは断るわけにはいかない。それに、吹雪様のことだから何か考えあってのことだろう。

 特に深い意味は無く、たまたま俺がそこにいたからという気もしないでもないが…

 とにかく、村正様が郷を出られてしまってから、吹雪様は太四老の長として御多忙の身なのだ。少しでも手助けして差し上げることが、弟子としての俺の役目だろう。

 旧大典寮の閉ざされた扉を開けると、堪らない熱気に襲われた。長いこと締め切り状態だったので、この残暑の熱が篭って建物の中は酷い暑さになっていた。

「おまけに酷い埃だ。さっさと終わらせよう」

 俺は建物の状態を見て回った。さすがは壬生でも当時一級の技術で建てられた建物なだけあって、歪んだり傾いたりといった無様なことにはなっていない。元が疎かな造りではないから、雨漏りもしていないようだ。

 それでも傷みは激しいようで、所々壁が落ちているところもある。この分では修繕にはかなりの費用が掛かりそうだ。

 ふと、人の気配に振り返ると、開け放たれた扉の前に誰かが立っていた。逆光で判らない。俺が誰何する前に、向こうから声を掛けてきた。

「ゆんゆん?」

 ゆんゆん?誰だ、それは。

「ゆんゆんじゃないの?誰?」

 この声は…

「俺だ。螢惑」
「え、何で辰伶?ゆんゆんは?」

「ここには俺1人だ。“ゆんゆん”とは誰だ」
「ゆんゆん居ないの?変だな。ゆんゆんは居ないし、辰伶は居るし」
「悪かったな、居たのが俺で。ところで“ゆんゆん”とは誰だ」
「ゆんゆんがここに来いって言ったくせに。何で居ないの?」

 …だから、“ゆんゆん”とは誰のことだ。

「こんなところで待ち合わせか?場所を間違えたのではないか?」
「そうかも」

 この螢惑という漢はひどい方向オンチなのだ。自分が生まれ育った壬生の郷でも、この歳でしょっちゅう迷子になっている。

「大体その“ゆんゆん”も、こんな誰も知らないような所を待ち合わせ場所にするわけないだろう」
「そうなの?じゃあ旧大典寮って、何処だろう」

 …合っているではないか。こんな誰も知らないような所を待ち合わせ場所に選ぶとは、“ゆんゆん”は何を考えているんだ。てゆーか、“ゆんゆん”って誰なんだよ。

「旧大典寮なら、ここで間違いない。“ゆんゆん”はまだ来ていないのだろう」
「ふうん。じゃあ、待ってる」

 そう言って、螢惑は床にごろりと寝転がった。よくもこんな埃だらけのところで横になれるものだ。俺ならこんな所に長居をするのはご免である。螢惑の存在は知覚の外に追いやって作業に戻った。

「あつい…」

 螢惑が寝苦しそうに寝返りを打った。そうだろう。何せ開いているのは出入口だけだから、風の通りも悪い。折りしも残暑のこの暑さだ。

「あつい…」

 外の方がまだ涼しいだろう。木陰にでも行って寝ればいいのに。

「あつい…」

 いかん。苛ついて、どうにも作業に集中できない。

「あつい…」

 ええい!うっとおしい!

「……暑い、暑いと言うな。余計に暑くなる」
「オレの言葉で温度が変わるわけでもなし。…バッカじゃないの」
「『心頭滅却すれば火もまた涼し』というだろう。要は精神力の問題だ」
「自分は水龍を身体の中に入れて体温を調節してるくせに。それって精神力のお陰って言えるの?」

 気づいていたのか…

「俺のこの能力は日頃の鍛錬によるものだ。鍛錬を続けるには精神力が必要だ。だからこれは精神力だ」
「ヘリクツ」
「うるさい。自己の裁量で自己管理、自己調整しているだけだ。それの何が悪い」
「悪かないけど、辰伶って、ごくたまにヒキョーもんだよね」

 後半については、聞かなかったことにしておく。今回は自分でも少しばかり無茶なことを言っていると思ったからだ。

「大体おまえは炎を召喚するくせに、何故これしきの暑さが耐えられん」

 ゆらりと、螢惑が上体を起した。眇められた琥珀の瞳が剣呑な光を放っている。俺は何か奴の気に障ることを言ったらしい。

「俺が火を出すことと、夏の暑さが何か関係あるの?」
「何?」
「なんで火を操ると『あつい』って言っちゃいけないのさ」
「誰もそんなことは…」
「言った」
「……」
「『暑い、暑いと言うな』って、言った」

 …この漢、普段はバカの癖に、つまらんことは良く覚えている。

「確かに言ったが、それはお前が火を操るからではなく、だらだらするなと言っているんだ」
「じゃあ、『炎を召喚するくせに』って、何?」

 …この漢、未だに陰陽殿への道さえ覚えられないバカのくせに、こんな時だけやたらと記憶力が良いときている。

「火は熱いだろう。夏の暑さとは比べ物にならんほどにな。それをいつも身近にしているお前が、夏の暑さごときでへばるのはおかしいというのだ」
「?別に、火はあつくないけど?」

 こいつは一体どういう体質をしているのだろう。

「ふうん、火ってあついんだ」

 白光が一閃した。反射的に剣で受けると、螢惑の剣先が俺の喉元の寸前で止まっていた。何が起こったのか俺には把握できなかった。

「な…」
「魔皇焔」

 何を思ったのか、螢惑は突如として炎を召喚した。俺は寸でのところでそれをかわした。

「きさまっ、何をするっ」
「どう、あつい?」

 螢惑の炎の攻撃はそれで終わらなかった。第2、第3と熱の塊が絶え間なく襲い来る。

「何を言っているっ!馬鹿!やめろ!」
「あついかって、きいてんの。ねえ、あつい?」
「熱いに決まっているっ」
「どうして?シントウをメッキャクすれば涼しいんでしょ」
「な…っ」
「ほら、早く滅却すれば。ほら、ほら」

 俺の中で、何かが音をたててブチ切れた。

「…このっ、バカがっ。いい加減にしろっ。水破七封龍!!」

 俺と螢惑の必殺技がぶつかり合い、老朽化していた旧大典寮は崩壊どころか影も形も残さず消し飛んでしまった。

 こんな下らない経緯によって、旧大典寮は壬生の郷から永久に姿を消したのである。


 旧大典寮を全壊させてしまった咎で、俺たち2人は陰陽殿の清掃を言い渡されてしまった。この程度の処罰で済んだのも、ひとえに吹雪様の温情によるのだろう。

 それにしても、罰掃除…。この俺が、五曜星の辰伶ともあろう者が罰掃除とは。いい恥さらしだ。

 チクショウ。

 あの時、こいつがふざけて炎なんぞ召喚しなければ。

 チクショウ。

 こいつときたら、剣術と俺を怒らせることに掛けては天才的な才覚を見せる。

 螢惑は蜘蛛の巣や鼠の穴などに心を奪われて、あちらこちらとフラフラ立ち歩くばかりで、ちっとも作業が続かない。今の状況が判っているのだろうか。

「サボっていたら、いつまでたっても終わらんだろうが」
「うるさいなあ」
「きっかり半分だぞ。絶対にきさまの分までやらないからな。俺は俺の範囲が終わったら帰るからな。絶対だからな」
「手伝ってくれないの?」
「……」

 誰が手伝うものか。

「手伝わねばならない義理はない」

 そうとも。1人で残ってやってろ。

「誰かが言ってたけど、オレとお前ってさ、きょう…」

 箒を持つ指が強張った。

「凶悪コンビだってさ」
「…きさまと一まとめにはされたくないな」
「うん」

 思わず息が漏れた。そうだった。螢惑が知るはずがない。俺と螢惑が血の繋がった兄弟であることなど。彼は、俺のことなど知らない。知らないだろうが、こいつは俺の…

 俺の弟。

「こんなこと、いつまでもだらだらやっていてもしょうがない。さっさと片付けて終わるぞ。…少し位は手伝ってやる」
「え…」
「少しだけだからなっ」
「うん」

 螢惑は箒を取り直して、ふと俄かに立ち止まった。

「あ」
「どうした」
「そういえば、ゆんゆんの用事って何だったんだろう」
「さあな。ところで、“ゆんゆん”とは誰だ?」

 そして、陰陽殿がすっかり闇に沈んだ頃、罰掃除を終えた俺と螢惑は、床に手足を投げ出して眠っていた。

 不覚にも、互いに凭れ合いながら。


〔おまけの後日談〕

 旧大典寮全壊の報告を受けた吹雪は騒ぐどころか眉1つ動かすことなく、淡々と『第3薬学研究所設立計画書』に火をつけた。

「建物そのものがなくなってしまえば、この計画は立ち消えだ」
「ああ、お前の思惑どおりな」

 ふらりと遊庵が立ち現れた。

「旧大典寮を改修する気なんて、最初から無かったんだろう。まあ、俺にはどうでもいい計画だったから、今回は協力してやったけどな」

 遊庵の指摘を、吹雪は否定しない。氷のような漢。吹雪のその瞳に一切の感情の光は無い。

 辰伶が旧大典寮で螢惑に出くわしたのは偶然ではない。そこには吹雪の計算し尽くされた目論見があった。

 内心で、吹雪はこの薬学研究所の増設計画を全く価値の無いものと思っていた。そんな無意味な計画の為に旧大典寮という半ば忘れられたような存在の建物の修繕をするなど、吹雪からしてみれば、時間と労力と経費の無駄以外の何物でもない。

 そもそもこの計画は、使用されぬまま放置されている旧大典寮の処遇を如何にするかというのが発端であり、旧大典寮の存在を前提とする計画だった。

 そこで吹雪が目をつけたのが、辰伶と螢惑である。この2人は共に五曜星でありながら全く反りが合わないことは、壬生では知らぬものは無い。小競り合いなどはいつものことで、派手な戦闘になることも度々である。
 老朽化した旧大典寮で五曜星が双方全力で激しく戦えば必ずや破壊を免れない。それを計算して2人を噛み合わせたのだ。

 そして見事に目論見に嵌り、吹雪のバカ弟子と遊庵のバカ弟子のバカな諍いで旧大典寮は跡形も無く消し飛んでしまった。吹雪の思惑通り、旧大典寮が失われたことで第3薬学研究所設立計画は白紙となったのである。

「3つ目の薬学研究所など不要だったのだ。…育毛剤の研究所など」

 無敵の毛髪力を誇る吹雪の髪がワサワサとさざめいた。


〔後日談の裏事情〕

 今回の一件で浮いた費用は、以下の通りである。

 研究所増設予算
 旧大典寮解体費
 陰陽殿清掃費

 そして、これらが全て吹雪の髪のトリートメント代へと流用されたことは、遊庵の心眼をもってしても見抜けなかった事実である。


 …終わってもいいですか?

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