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五 絃


 必ずだよ、狂…

 それが、四聖天・ほたるの最後の言葉だった。ほたるの視界から鬼目の狂の背中が消えてしまうと同時に四聖天・ほたるも消滅し、後には任務を終えた間者が一人残るのみだった。

 還らねばならない。壬生の地へ。

 ほたるは歩き出した。五曜星・螢惑が還る場所は、壬生の里しかない。あれほど嫌った壬生の地だが、他に行く当てもないし、帰るところといえば結局そこしかないのだ。

 それでも、と、ほたるは思う。

 それでも、壬生の里に入るまでは、まだ五曜星・螢惑ではない。もちろん、既に四聖天・ほたるでもない。今の自分は唯の『ほたる』。いっそのこと、単なる名無しでも構わない。

 壬生の地に一歩踏み入れるまでは、自分は唯の自分。

 そんな風に、ほたるは自分に猶予期間を作った。それほどほたるにとって、四聖天として狂たちと5人で過ごした時間は手放し難いものだったのだが、ほたるはそんな単純な事にさえ気づかず、ただ壬生が嫌いだからと理由づけて、のんびりと歩いた。


 ほたるは谷を見下ろす崖の中腹に、何か光るものを見た。ほたるは特に好奇心に乏しい漢であったから、普段の彼であったなら、何を思うでもなく通り過ぎたことだろう。

 この時のほたるは、壬生の里への行程を伸ばしたいという無意識の働きで、足止めすべきものを探し歩いているようなものだったから、それは絶好の獲物であった。ほたるは光るものの正体を確かめに、足場も不確かな崖を、鹿のように軽々と跳ねながら下りていった。

 ほたるを喚んだ光は、一面の琵琶だった。琵琶には蝶の模様が螺鈿で装飾されており、それが太陽の光を反射したのだ。

 琵琶は5本の絃のうち、1本が切れていた。それを除けば、多少傷があるものの胴も柱も無事だった。ほたるが絃を爪で弾くと、張り詰めた音が谷に響いた。

 ほたるは繰り返し絃を爪弾いて、音の幽けく震える余韻を味わった。


 壬生の里には紅の王から五曜星・螢惑に下賜された公的な屋敷がある。しかし螢惑(ほたる)は、この屋敷には一歩も踏み入れず、勝手に住居と定めた庵に寝起きしていた。

 壬生の地に還った螢惑は、まっすぐその庵に向かった。棘の険しい茨に半分塞がれた径を分け入って行くのだから、螢惑の手足は瞬く間に掻き傷だらけになってしまったが、螢惑はそんなことは気にも留めずに進んで行く。

 漸く辿りついた庵は、主の無いままにすっかり荒んでいた。螢惑は大きく戸を開け放ち、塵や埃に噎せる空気を追い出した。

 螢惑は縁の端に腰掛け、谷で拾った胡蝶の琵琶を抱えた。

 ほたるが壬生の地を踏んだ時、絃が一本切れて、残りは3本となっていた。

 螢惑は3本の絃を1本ずつ順番に爪で弾いた。もう3本しかないのだから、大事に弾こうと思った。


 絃が、また1本切れた。

 螢惑には『彼』の気持ちがよく解かった。いや、およそ力を求めるものなら、『彼』の行動には賛同こそすれ、過ちと非難したり、愚行と嘲ったりはしないだろう。

 その漢が、自らの限界を知っているなら。

 その限界がどうにもならないことであるなら。

 そのどうにもならないことが、どうにかなるのなら。

 躊躇うものなど何も無い。譬えそれが僅かな可能性でしかなく、失敗すれば全てを失うのだとしても。最強を目指すものにとっては、『全て』か『無』かであり、2番以下はありえない。

 『彼』は最強の漢の背中を追って、追って、追い続けて、…その結果、『彼』は自ら『それ』を選んだのだ。螢惑は『それ』を馬鹿げたこととは思わなかった。ある意味、当然の事とも思った。

 しかし、ほたるは『彼』の瞳が好きだった。キロキロとよく動く黒目がちなその瞳は、純粋な野心の光を真っ直ぐに放ち、どんな凄まじい修羅場に遭っても、それは曇ることも濁ることも無かった。
 それは壬生では見たことの無い輝きで、そう、人間たちの中にも、あれほど活き活きと輝く瞳の持ち主は滅多にいなかった。

 螢惑は、2本の絃の琵琶を掻き鳴らした。

 封じられたアキラの目は、2度と開かれることはない。


 螢惑は苛立っていた。五曜星としての日々は甚だつまらないもので、このままでは生きたまま腐ってしまう。

 不貞腐れて寝転がっている螢惑は、そんな倦怠を晴らすための道具を無意識に手探りするが、その度に空を掴んで苛立ちを深くした。

 数日前に、琵琶を失くした。

 螢惑が庵を空けていた1刻ばかりの時の間に、琵琶はさっぱりと消え失せていた。板の間の真ん中に放り出されていたのだから、どこかにしまって忘れたということはない。誰かがこの庵から持ち出したとしか考えられない。

 硬い板の間で寝返りをうった。そこに螢惑は一人の人物が戸口に立つのを見た。

「何しに来たの?」

 自然に声に棘が生じる。

 その漢は、螢惑と同じく五曜星の一人、辰伶だった。螢惑が火を司るのに対し、辰伶は水を司る。その相反する性と同じに、決して交じり合うことのない二人だ。螢惑は辰伶に対し、常に激しい敵愾心を燃やしていた。

 それは、辰伶が螢惑の異母兄であれば尚更のことだった。

「お前はいつも寝ているのだな」
「辰伶には関係ないでしょ」

 螢惑は立ち上がって客を迎え入れる素振りすらしない。腕で頭を支えて、斜めに辰伶を見上げている。

 辰伶は構わず敷居を跨ぎ、螢惑の前にでると、無言で錦の布に覆われたそれを突き出した。辰伶の不可解な行動に、ようやく螢惑は上体を起こしてそれを受け取った。紐を解いて、中身を取り出す。

「オレの…」

 胡蝶の文様。それは螢惑の琵琶だった。ただし、絃は全て新しく張り直され、5絃が並んで走っていた。胴も磨かれたようで、優美な光沢を放っていた。

「差し出がましいとは思ったが、あたら名器がそのような有様では惜しいと思ってな。もっと大事に扱え」
「……」

 螢惑は絃を爪で弾いた。

「そういえば撥も無い様だったが、ひょっとしてお前は弾き方を知らないのか?」
「撥って…」
「やはり知らないようだな。その覆いに入れておいた。琵琶はその撥で弾く物だ」

 螢惑は琵琶を覆っていた錦の布を探った。中には真っ白な象牙の撥が差し込まれていた。

 辰伶は螢惑の背後に回り、琵琶の持ち方、撥の当て方を手ずから教えた。

「そうだ、そのまま撥を絃に当ててみろ」

 張り詰めて、琵琶が鳴った。

「その感覚だ。そうしたら次は…」
「ちがう…」

 ふと、螢惑が洩らした声に、辰伶は手を止めた。螢惑の肩が細かく震えている。

 ちがう。絃がちがう。全部、ちがう…。

 その音は、ほたるの知っている琵琶の音ではなかった。琵琶は琵琶に違いがないのだが、樹海の外で手に入れた音を、もう2度と奏でることはできなかった。

「こんなこと、誰が頼んだの?」

 螢惑は琵琶も撥も乱暴に投げ出した。

「こんなもの要らない!辰伶、持って帰って!!」

 辰伶は事の成り行きに茫然とした。確かに、他人のものに勝手なことをしたかもしれない。しかし、壊れた琵琶の絃を張り直し、調律し、胴を丁寧に磨きあげて修復し、撥を誂えることは、ここまで非難されなければならないようなことだろうか。

 だが、心外に思う気持ちを、辰伶は全て飲み込んだ。辰伶の手の甲を、螢惑からこぼれ落ちた熱い液体が濡らしたからだ。それを前にして、辰伶の労力は全て無効となってしまった。

 辰伶は螢惑の泣き顔を覗くようなことはないように、震えるその肩を抱きしめた。

「俺は、余計な事をしたようだな」

 辰伶の言葉は、螢惑の耳に全く入っていなかった。螢惑は痛む胸を抱えて、声も無く泣きつづけた。


 庵が夕闇に包まれる前に、辰伶は立ち去った。そのころになると、螢惑もすっかり落ち着きを取り戻していた。

「どうかしてる」

 螢惑は琵琶に撥を当てた。本当にどうかしていた。辰伶の腕の中で眠ってしまうなんて。その温もりは冷えた床に熱を奪われて、今はもう無い。

 狂のこと、そして四聖天のことを想うと、螢惑の胸は訳もなく痛んだ。意味も無く苦しくなり、不快な塊となって、胸に痞える。それは溶けて消えることなく、降り積もって重さを増していく。

 螢惑は今こそ理解した。

 自分に刃を向けた螢惑を、先代紅の王は決して赦した訳ではなかったのだ。反逆した螢惑を殺さずに鬼目の狂の元へ監視に遣ったのは、情け心からではない。すべてはこの苦しみのため。この胸の痛みのため。

 そう、理解した。

「酷いイヤガラセだよね」

 この不快な塊を消す方法は、きっと1つだけ。

「狂、約束だ…必ず…」

 必ずだよ、狂…

 琵琶が鳴る。

 張り詰めて、琵琶が鳴り響く。


 終わり

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