24.昼寝
春は俺が一番好きな季節。一番気持ちよく眠れるから。
「本当に君は、どこでも寝るね」
誰? 変なことに感心して、俺を覗き込むのは。気になって、昼寝できないじゃない。あ、辰伶だ。あれ、なんかちっちゃい。
「ほたる、ケガしてる」
あ、ホントだ。左手の中指から血が出てる。いつやったんだろ。
辰伶は自分の髪を結っていた紐を解いて、ケガした俺の指に包帯みたいに巻いてくれた。ありがと。お礼しなきゃね。花がいっぱい咲いてるから、首飾りつくってあげる。赤い花がいいよね。俺は赤い花が好き。辰伶が巻いてくれた紐も赤だし。
ほら、できた。ちょっとかがんでよ。首に掛けてあげるから。
「きれいだね。ありがとう」
あ、辰伶。どこ行くの?
「もう帰らなきゃ。日が暮れるし」
何で? 辰伶は俺と一緒に帰るんでしょ。だって俺たち、一緒の家に住んでるじゃない。ちょっと強引に手を繋いだら、辰伶はにっこり笑った。
「うん。一緒に帰ろう」
辰伶は振り返って、遠くの友達に手を振った。
「さようなら」
俺も同じように手を振って、辰伶と並んで歩き出した。
「ケイコク!」
立ち止まって振り向くと、遠くにもう1人辰伶がいて、その大きな瞳いっぱいに涙を溜めて、俺たちを見詰めていた。ごめんね。俺はこっちの辰伶の方が大切だから。俺が好きなのはこいつだから。
でも、ほら。お前の母さんが迎えに来たよ。良かったね。だから、もう泣かないで。
「人の話は最後まで聞け!」
意味不明な叱責を耳にして、ほたるは夢から覚めた。おかしな夢だった。夢の中では辰伶が幼い子供だった。辰伶の日記に挟まれていた写真のままの、ほたるが逢ったことのない昔の辰伶の姿だった。
「ちょっと、てゆーか、すごく、かわいかったかも…」
何だかとても得をしたような気分になった。
「起き抜けに、ニヤけてんじゃねーよ」
その声に、ほたるは初めてそこに人がいたことに気付いた。面倒くさそうに身を起こして胡坐をかくと、ほたるは大きく伸びをした。
「なんで庵曽新がいるの?」
「何でっつうか…それよりも、ここが何処だかってことのが気にならねーのかよ」
「何処って、辰伶の部屋でしょ。…何で庵曽新が辰伶の部屋にいるの?」
「凄んでんじゃねえよ、この、ブラコン。本当に気にならねえのか? 螢惑、さっきまで何してたよ」
「寝てた」
「寝る前は?」
「起きてた」
「そん時、てめえが何してたかって、聞いてんだよ!」
そういえば何をしていたのだろう。ほたるはぼんやりと記憶の糸を手繰り寄せた。
「あ、そーいえば、妖魔と戦ってた。吹雪んちで」
「そうだよ。そしたら疑問に思うだろ。何で今、自分がここに居るのか」
「あ、ホントだ。凄く気になる。何で俺、ここに居るの?」
天然相手の会話は疲れる。庵曽新は溜息をついた。
「全部吹雪の指図さ。やっぱ太四老って、すげーよな。何か、空間を一気に跳んだみてーなんだけど、俺も気がついたらここに放り出されてた」
「俺たちが真剣に戦ってる最中に、なんか楽しそうに喋ってると思ったら、こんなこと打ち合わせしてたの?」
「楽しく喋ってねえ!」
「そうなの? ずっと2人で話してたから、庵曽新は吹雪と気が合うのかなあと思った。俺は吹雪って苦手だけどね」
「俺だって苦手だっ」
あの激戦の中で、よくそんなこと観察する余裕があったと、庵曽新は半分感心し、半分厭きれた。
「それから、悪かったな。戦いの途中で、勝手に間に入って」
庵曽新は父親の寿里庵から伝授された鍼の技によって妖魔の動きを止め、また、ほたるにも鍼を用いて意識を眠らせて、その凶刃の下からを救い出した。そのことを庵曽新は謝った。ほたるの意思を完全に無視した行動であったが、しかし、それがなければ恐らくほたるは、もうこの世にはいなかっただろう。
「…俺、負けた?」
「勝っちゃいねえな。ま、端的に言って、負けだろ」
「辰伶の仇、討てなかったってこと?」
「……」
「てゆーか、辰伶の仇って……俺なんじゃないの?」
ほたるは押し黙り、深く項垂れた。暫くそのまま沈黙が時を支配するのに任せていたが、やがて庵曽新が、ほたるを気遣うでもない口調で言った。
「正直言って、俺はお前達の事情って殆ど知らねえから、誰がどう悪かったのかなんて全然解からねえ。俺が知りてえのは、螢惑がもう1度あいつと戦う気があるのかどうかってことだ」
「もう1度…」
「さっきの場所に、もう一度跳ばしてやる。勿論、俺の力じゃなくて、吹雪の力だけどな。その気があるなら来いよ。離れ屋で待ってる」
庵曽新は辰伶の部屋を出て行こうとして、ふと立ち止まった。
「忘れてたぜ。吹雪がお前に訊きたいことがあるって。『辰伶はどこに居る』だってさ」
奇妙な問い掛けである。死者となった辰伶がどこに居るかなんて、生者であるほたるに知る術はない。
「ボケた…って、ことはないよね」
「そりゃ、失礼だろ。てゆーか、天然ボケのお前が言っていいセリフじゃねえな」
ほたるは深く考え込んだ。問い掛けというよりは、まるで謎掛けである。ほたると妖魔の戦いを傍観するかと思いきや、中途半端に中断させたり、吹雪の行動は謎だらけだ。
「話は全然変わるけど、庵曽新、俺が寝てるときに何か言った?」
「何か?」
「話を聞けとか何とか」
「寝てる奴に話しかける趣味はねーよ」
「ないの?」
「フツーはな」
再びほたるは思考の淵に沈んだ。物事に対して余り頓着がなく、考え事が嫌いなほたるだが、辰伶に係わる事となれば話は別だ。ほたるは卒然として気付いたのだ。夢から覚める瞬間に聞いた声は、期待感がそう思わせたのかもしれないが、殆ど間違いなく辰伶のものだったと思う。確か、『人の話は最後まで聞け!』だった。
「夢の中まで小言って、辰伶らしいっていえば、そうなんだけどさあ…」
もう少し色気のある言葉が聞きたかったと思っても罰は当たるまい…じゃなくて、ほたるは脱線しかけた思考を正した。ほたるの夢は特殊である。どんな些細な内容の夢も、例外なく未来を暗示している一種の予知夢だ。ただし、夢の内容そのままの事が起こるわけではないので、大抵は後になってどの夢が何を指していたか気付くことになる。予知としては役にたっていない。
それでも特殊な霊夢であることは間違いない。その中で聞いたのなら、あれは辰伶からのメッセージではないだろうか。辰伶がほたるに何かを伝えたいのではないだろうか。
それに吹雪の問いが重なる。辰伶は今、どこにいるのか。何をほたるに伝えたいのか。
「あのさ…」
「あれ。庵曽新、まだ居たの?」
「この部屋から離れ屋へって、どうやって行くんだ?」
ほたるは辰伶の日記を開いた。少し乱雑な動作でページを次々に捲っていく。ほたるは辰伶の最後の日記を読んではいなかった。それを読んでしまったら、その後に延々と続く真っ白なページを見てしまったら、本当に辰伶がこの世から消えてしまったことを実感させられそうで、それ故に読み残してしまったのだ。その最後の日記を、ほたるはようやく探し出した。
ほたるが泥酔して帰宅した。酷く呻き声をあげていたので、救急車を呼ぼうかと一時は真剣に思ったが、幸いにしてそこまで重症ではなかった。今は落ち着いているので、安心して日記を書いている。
ほたるがこんな飲み方をしたのは、俺の知る限りでは初めてのことだ。その原因が俺にあると思うと、堪らなく申し訳ない。否、日記に嘘を書いても仕方が無い。申し訳ないと思ったのも確かだが、同時にあれは喜びというのだろうか、少し優越感に似たような昂揚を感じた。俺は卑劣な人間だ。苦しい呼吸の下に喘ぐ異母弟を目前にして、彼の苦しみが自分の為であることを嬉しいと思ってしまうなんて。ほたるがこんなになるほど、俺は愛されていた。少し後ろ暗い思いではあるが、正直に言って、俺は嬉しかった。
ほたるから好きだと告白されてからの俺は、かなり気が動転していたようだ。今になって冷静に思い返してみれば、随分と余裕の無い行動の数々に、滑稽ささえ感じる。俺は思い上がっていた。ほたるの俺に対する好意を、神が俺の罪に罰を下すためにほたるを巻き添えにしたのだと、そんな風に思うなんて、それはほたるの人格を無視した傲慢な考えだった。以前、ほたるが俺の母を自己中心的だと罵ったが、それは実に的を得た評価だった。そして俺は確かにあの母の血をひいているのだと実感する。俺は自己中心的な人間だったのだ。
そして、俺を愛したことで、俺の死後、ほたるが不幸になるというのも、かなり自意識過剰だ。冷静になって考えると、これはかなり恥ずかしい。我ながら痛い。
ほたるを幸せにしてやりたいと、心から思っていたが、「幸せにしてやる」という考え自体が、ほたるを見下し、侮る行為だ。俺があれこれお膳立てなどせずとも、ほたるは自分の力で幸せを掴むはずだ。ほたるにはそれだけの力と強さがあるのだから。俺はもっとほたるを信じるべきだった。
先ずは自分自身を幸せにしてしまおうと思う。俺の死後、ほたるがどのような人生を歩むのか、それはとても心配だが、しかし俺はほたるを信じることにする。ほたるなら絶対に幸せな人生を歩んでいくと、そう信じる。
人間なんて死ぬ時は事故や災害でも死ぬ。誰だって先のことは判らない。俺は他人よりも少し条件が悪いというだけのことだ。だから手っ取り早く幸せになってしまおうと思う。人は幸せになる為に生まれてくるのだから、幸せになる為の努力を諦めてはいけない。
明日の見合いを片付けてさっぱりしたら、ほたるに本当の気持ちを打ち明けよう。ずっと前から、ずっと好きだったと、ずっと愛していたと言おう。そして、ずっと傍に居たいし、ずっと傍に居て欲しい。ほたるは俺の馬鹿さ加減を笑うだろうか。呆れるだろうか。いや、ひょっとしたら怒り出すかもしれない。1発ぐらいは殴られるかもしれない。しかし、それも甘んじて受けよう。俺は自分を幸せにすると決めたのだから。
未来にどんな不幸が待ち構えていたとしても、今この瞬間の幸せは、絶対に価値あるものだ。俺はそう信じる。
「辰伶、幸せだったの?」
全てを読み終えて、ほたるは独り呟いた。
「俺の為に命を落として、それでも俺を好きになったこと、俺がお前を好きになったことを、価値があるって言ってくれるの?」
ほたるの顔に微笑みが浮かんだ。心から幸せで、なのに涙が出る。幸せ過ぎて涙が止まらない。
「凄いね。お前って、死んじゃってても、俺を幸せにできるんだ。そんな奴、世界中探したっていないよ」
夢の中で幼い辰伶が赤い結紐を巻いてくれた指を、ほたるは見た。そこにはほたるの誕生日に辰伶が贈ってくれたリングがあった。
「やっと解かったよ、辰伶。お前の気持ち、受け取ったから。俺たちは、ずっと一緒に居たんだね」
リングを填めた指に頬を寄せる。コウモリの羽が抱くオニキスを、ほたるの唇が温めた。
離れ屋のリビングでは、庵曽新がほたるを待っていた。
「行くよな?」
「うん」
「じゃあ、餞別だ」
そう言うや庵曽新は、予告もなくほたるの尻に鍼を刺した。
「…っ」
遠慮も何もあったものではない行為に対してほたるが抗議する前に、庵曽新は説明した。
「今のは人の潜在能力を解放するツボだ。個人差もあるが、以前のお前とは比べ物にならねえほど、感覚が鋭くなるし、力やスピードも増すはずだ」
「……ありがと」
ありがたいが、先に説明して欲しかったと、ほたるは思った。
「また家にメシ食いに来いよ。兄貴もだけど、庵奈とか、他の奴らもお前が来ると喜ぶから」
「うん」
「じゃあな」
「うん。行ってくるね」
ほたるは時空の狭間の道を辿って、最後の決戦場へと赴いた。
水は、高きから低きへ流れる運命に逆らわない。
水は、容器に合わせて形を変える。
水は、母のように生命を育む。
けれど、
水は、時に逆流する。
水は、長き歳月に地形を浸蝕する。
水は、無慈悲に数多の生命を呑み込む。
水は、在るがままに水。人が唯、物思うのみ。
おわり
次回、最終回です。
(06/1/24)