22.擦違えば
猫という生物は、ある日突然に姿を消すことがあるという。きっと大好きだった主人を探しに行ったのだ。そんな噂話をしている使用人達の横を通り過ぎて、ほたるは辰伶の部屋に通う。
主人を失くした部屋は、しかし亡き人の印象そのままに、いつも整然とほたるを迎える。いつもほたるに「整理整頓!」と口煩く言っていただけのことはあって、例えば本棚1つを見ても、本がきちんと解かりやすく分類されて並べられている。
辰伶は裏表の無い真っ直ぐな人柄であったから、本当に見たままの人間だった。意外性に乏しく、つまりは単純ということなのだが、それでもしかし多くの人が彼を誤解していたことを、ほたるは知っている。例えば辰伶は多趣味で多芸な人物と、周囲の人間から思われていた。またそれがすべて高水準であったから、非常に器用な人間であると目されていた。しかし、ほたるから見れば、それは勘違い以外の何物でもない。
壬生一族としての力を失った辰伶は、新たな人生の目標を、ある時期、必死に模索していた。彼の多趣味はその結果であったから、半ばヤケクソの産物だ。それはつまりは何物も真に彼の心を捉えることはできなかったということに他ならない。ほたるが見たところ、辰伶は器用でも何でもない。基本に忠実で、手間暇を惜しまない努力家であったのだ。
その上、融通の利かない頑固な完璧主義者だった。ほたるの依頼人たちは、辰伶の淹れる茶を非常に褒めていたが、それについても厭きれる様なエピソードがある。
随分昔の話になるが、ほたるがふと見ると、給湯スペースで辰伶が淹れたばかりの茶を手もつけずに捨てていた。何故そんなことをしているのか尋ねたところ、辰伶は茶の淹れ方を間違えたから捨てていると答えた。
折角淹れた茶を捨てなければならないような、どんな酷い間違え方をしたのだろうか。ほたるが重ねて訊くと、湯の温度を間違えたのだという。見れば茶葉は玉露であった。玉露は低温で淹れるものだから、煎茶のように熱湯で淹れてしまったということだろうと思ったが、そうでは無かった。
辰伶が参考にしていた茶の入れ方の本には『玉露は50℃ぐらいで淹れる』と書かれていた。それを辰伶は49℃で淹れてしまったと、そう言って最高級の玉露で淹れた茶を惜しげもなく捨ててしまっていたのだ。勿体無くもあり、厭きれ返る話である。
茶の淹れ方の上手い下手は、手抜きをせずに、淹れ方をどこまで忠実に守れるかに尽きる。辰伶の場合は手を抜く以前に、マニュアルに書かれている淹れ方以外は全て間違いだと思い込んでいるし、また、たった1℃の違いを許容できない融通のきかない性格だったから、不味い茶を淹れることなど不可能なのだ。これが『茶を淹れるのが上手い辰伶』の、本当の正体だ。
辰伶が心底打ち込んでその才能を真に開花させていたのは、結局のところ舞踊だけだろうと、ほたるは思う。
辰伶の部屋に入り浸って、彼の遺した日記を読むのが、最近のほたるの日課だった。他人の日記を勝手に読むのはマナー違反だということは、礼儀に頓着の無いほたるでも弁えている。ところでそのルールは故人の日記に対しても当て填まるのだろうか。ほたるはよく知らない。
「ま、どっちでもいいけど。辰伶の物は俺の物だし」
ほたるのこの言葉を辰伶が聞いたら何と思うだろうか。怒るだろうか。苦笑するだろうか。辰伶が応えてくれるなら、どんな反応だって構わないと、ほたるは溜息をつく。日記を読まれるのが厭なら、今すぐ帰ってくればいい。
「そしたら、こんなの読まなくったって、直接訊けるのに…ね」
常識に照らし合わせてマナー違反であろうがなかろうが、どちらにしてもほたるは辰伶の日記を読むことを止める気は無かった。ほたるはどうしても知りたかった。生前の辰伶が何を考え、何を思っていたのか。ほたるのことを、辰伶はどのように見ていたのか。
「にしても、多すぎ…」
日記は辰伶がまだ小学生であった頃から、余程の事が無い限り毎日欠かさずつけられていた。辰伶が例の手術をした頃からだ。入院生活の退屈さから、日記を書くことを始めたらしい。それが死ぬまで続いていたのだから、彼のまめさと継続力には畏れ入る。凄いとは思うが、ほたるは真似しようとは思わない。
ほたるに対する辰伶の気持ちを知りたいのなら、2人が出会った頃から読み始めればいいのだが、ほたるは敢て一番最初から読んでいた。折角読むのなら、ほたるが知らない辰伶の過去が知りたい。昔の辰伶がどんな人間だったか、それが知りたい。
「大体、ムカつくんだよね…」
世界で一番辰伶のことを愛していると自負するほたるである。あの妖魔のほうが辰伶と付き合いが長く、過去のことを良く知っているというのは許せない。いくら辰伶の双子の兄弟でもズルイとほたるは思うのである。
「あ、コレ」
1枚の写真が日記帳に挟み込まれていた。幼い頃の辰伶と、隣は彼の師匠の吹雪だ。写真は少なくとも10年以上は前と思われるが、吹雪は年齢的な変化は余り無い。またその雰囲気も変わらない。しかしどこか優しげな印象がある。それは一緒に映っている弟子に対するものか、それともこの写真を撮るためにカメラを構えていた者に対するものだろうか。
「すごい…。辰伶が可愛い」
写真の中の辰伶は少し取り澄ました印象はあるが、しかしその微笑みは子供らしく真っ直ぐで僅かな陰りも無い。疑うことを知らない素直な笑顔に、ほたるは暫し見入った。
「…辰伶って、昔はこうだったの? それとも、吹雪と一緒だから?」
辰伶の吹雪に対する信頼と親愛の深さを思い知らされる。何だか悔しいような気がした。ほたるの真の敵は、あの妖魔ではなく実はこの漢かもしれない。ほたるはつと立ち上がると、辰伶の机の引き出しを探り、舌打ちをした。
「ちぇっ……ハサミ、ないや」
ほたるは写真を元のページに戻した。日記を読み終わったら、今度はアルバムを探そうと思った。
ほたるは辰伶の過去を辿る。吹雪への憧憬。将来の夢。父親からのプレッシャー。母親への同情と、行き場の無い愛情。飼猫であるアンバーの存在の大きさ。
日記から受ける辰伶の印象は、ほたるが知っているものと殆ど変わらない。何事にも前向きな姿勢で、物事を率直に受けとめる人。純粋で、それ故に傷つきやすい人。その傷すらも真っ直ぐに受けとめる強靭さを持つ人。そして強いが故に、いつも両手に透明な寂しさを抱えている孤独な人。それは彼の本質なのだろう。どの時代の日記にも、そこには確かに辰伶が存在している。
しかし、全く何も変わらないわけじゃない。子供時代の日記は屈託の無い明るさが感じられた。そして年を経るにつれて、その年齢に見合った思慮が備わり、文章もページを繰るごとに大人びていく。変わらないものと、変わっていくもの。ほたるは、そのどちらをも愛しく思った。
やがて、日記にほたるが登場するようになった。自分のことが書かれている部分を読むのは少し嬉しい。辰伶の視線が自分に確かに注がれていたという証拠だから。ただ傍に居ただけの無意味な存在では、決してなかったと、そう思えるから。
けれどもその内容自体は、ほたるにとって余り嬉しいものではなかった。
「そう……。辰伶、そんな風に思ってたんだ…」
俺は彼の母親の命を奪ってしまった。父と母と俺と、それぞれがほたると彼の母親に不幸を齎してしまった。恨まれて当然だと思う。
それなのに、ほたるは俺を責めることなく、異母兄として慕ってくれる。その心の広さ、温かさには、言葉に尽くせないほど感謝している。
辰伶がほたるに対して負い目を感じていることは、ほたるも気付いていた。しかし、こんなにも繰り返し繰り返し日記に綴るほど、深く悔悟しているとは思っていなかった。ほたるに対する贖罪と、そして感謝。そのどちらも誤解であると、ほたるは辰伶に言ってやりたい。
「バカだね。俺はお前が思ってるような、優しい人間じゃないのに。優しいからお前を赦して慕ってるなんて、すごい勘違いだよ。俺はただ、お前が…」
ほたるは急に思い立って、ページを次々へと捲っていった。あれは何月何日のことだっただろうか。ほたるが辰伶にその気持ちを打ち明けたのは。ほたるが告白したことを、辰伶がその日の日記にどのように記述したか、それが知りたい。
信じられないことを聴かされて、未だに動揺を抑えきれない。今日の出来事を、上手く書き表せる自信が無い。正直なところ、夢か何かだったのではないだろうかとさえ思う。ほたるが俺のことを好きだったなんて、驚く以外に無い。
「あった…」
ほたるの瞳は忙しなく文字を追った。
ほたるが俺のことを好きだったなんて、驚く以外に無い。何かの間違いではないかと思う。なんて理不尽なことだろう。これ以上の不幸があるだろうか。
ほたるの母親を殺してしまったという、俺の罪の重さから考えれば、将来の夢を失ったことや、この身体が妖魔の幼生に侵蝕されていることなど、罰として当然だ。俺がほたるに対して道ならぬ想いを抱いて苦しんでいることもまた、罰として受け止めている。
「え…っ」
ほたるはもう一度読み直した。『ほたるに対して道ならぬ想いを抱いて苦しんでいる』と、そこには確かに書かれている。
「どういう、こと…?」
食い入るようにして、ほたるは更に読み進めた。
決して打ち明けられない。どんなにほたるのことを想っていても、それを口にすることは出来ない。同性で、あまつさえ血の繋がりのある兄弟なのだから。絶望的だ。
その苦しみを、何故ほたるまでもが背負わねばならないのだろう。俺は決して、ほたるの気持ちには応えられない。俺はほたるを幸せになんて出来はしないのだから。みすみすほたるを不幸にするようなことは絶対に言えない。苦しむのは俺1人で十分だ。
俺という存在は、ほたるから幸せを奪うことしかできないのか。ほたるの幸せを願えば願うほど、それは遥かに遠退いていく。これこそが、俺の罪に対する罰であるかのようだ。ほたるの幸せが俺の幸せだから、それだから、ほたるが幸せになることを、神は許さないのだろうか。だとしたら、俺は神を赦さない。
その言葉の激しさに、ほたるは驚きを隠せない。辰伶の姿勢は基本的に真っ直ぐで前向きだ。そんな彼がこれほどまでに負の感情に囚われているのは、日記を読んできた限りでは初めてではなかっただろうか。
ほたるを不幸にするものは、何者であっても赦さない。だが、ほたるを1番苦しめているのは、俺なのだ。
前から幾つも見合いの話があったが、それを利用させてもらおう。俺には先が無いし、結婚などすべきでない人間だから、勿論、最終的には断るつもりだが、しかしそれでほたるの気持ちが俺から逸れていけば、もっとほたるに相応しい、ほたるを一生幸せにしてくれるような相手を探しにいくだろう。
そうなればなったで、きっと俺は寂しいし、やはり苦しむだろう。それでも、ほたるが幸せになるのなら、こんなことは何でもない。
「バカ過ぎる」
ほたるは茫然と呟いた。
「どこまでバカなんだよ…」
涙が落ちた。辰伶が死んでから、ほたるは初めて泣いた。辰伶の命が消えた時にも、遊庵達の慰めに触れたときにも、ジェットが消滅した時にも流れなかった涙が、堰を切ったように溢れ出て止まらなかった。
そして叶うならば、俺は魂だけになっても、ほたるの傍にあって、ほたるを守りたい。そんな奇跡が起こることをひたすら信じて、吹雪様の仰せられた通りに、俺は己を信じて精一杯生き抜くだけだ。
ほたるは日記を閉じた。とても最後まで読めそうにない。最後の日付の、その先に延々と続いているだろう、真っ白な空白のページを、ほたるは見たくなかった。
おわり
(06/1/10)