21. 海月


 水の嫌いなところ、その1。
 高きから低きへ流れる運命に逆らわない、従順さ。

 水の嫌いなところ、その2。
 容器に合わせて形を変える、物分かりの良さ。

 水の嫌いなところ、その3。
 自らを与えて他者を育む、献身的な愛。

 愛…だったのだろうか、あれは。

 でも…


 自分のことは自分が一番良く知っているのが道理だ。しかし、己の立場というものは、しばしば他人を介して知らされるものである。辰伶が居なくなったことで、ほたるはこの家に於ける自分の立場について、幾つもの事実を知ることとなった。

 辰伶が居た頃には頭をよぎることもなかったし、辰伶が居なくなってからも全くそのことに思い至らなかったのだが、ほたるはこの家の財産を相続する権利を持っていた。その事実はほたるを大いに驚かせた。

 庶子として正式に認知されていなかったほたるは、父親が死んだ時には何も受け取ることはなかった。元々ほたるはそういうことに頓着が無かったし、財産に対する執着も無かったので、それに憤りもしなかった。

 辰伶が亡くなった時も、遺された財産がどうなるかなど、ほたるは全く思い至らなかった。自分にその権利があるとは思っていなかったし、相続問題に興味はなかった。ほたるにとっての現実問題は「辰伶が死んだ」という一点に尽き、「辰伶がこの世に存在しない」ということ以外、何も考えられなかった。

 この家が辰伶のものでなくなった時に、己の処遇がどうなるのかを、ほたるが初めて眼前に突きつけられたのは、辰伶の葬式の前日の親族会議だった。誰が喪主になるのかという問題は、誰がこの家(財産)を相続するのかという問題に発展し、言葉ばかりは上品に醜く揉めていた。

 ほたるはそれをぼんやりと見ていた。その場で話し合われていることが、自分の処遇に係わる事であっても、どうでもよく感じた。その結果、この屋敷を出て行くことになったとしても、ほたるは構わなかった。波間に漂うクラゲのように、ただ成り行きに任せていた。

 紛糾した事態を一刀両断に裁いたのは、辰伶の師であった吹雪であり、吹雪がその場に提示した辰伶の正式な遺言書だった。それにはほたるに全財産を譲る旨が書かれており、ご丁寧にほたると父親と辰伶の血縁関係を科学的に証明する書類が添えられていた。故人の意志がどこにあるか明白だった。

 辰伶のこの用意周到さは、しかし、ほたるを喜ばせはしなかった。ただ戸惑い、より深い混迷の淵へと投げ込まれた。


 遺言書に添えられて、生前の彼らしい細かい指示書があった。相続の際の税金対策。資産運用における信用できるアドバイザー、会計士、顧問弁護士などの連絡先。他にも他にも…

 23歳といえば立派な大人である。だが、同時にまだ若者と言って差し支えない年齢だ。そんな年齢でこんなにしっかり遺言書を遺していた辰伶について、ほたるは確信を強めた。辰伶は自身が長くないことを予感、或いは予測していたのだ。

 莫大な遺産を受け継ぐこととなったほたるを、世間の人々は幸運だと思うだろうか。少なくともほたるは、大して幸運だとは思わなかった。この屋敷が誰の手に渡ろうと知ったことではない。どうでもいいことだと思った。だから、喪主の立場も相続人の立場も放棄したってよかった。

 その考えを改めたのは、吹雪の説得によるところが大きかった。ここは辰伶が生まれ育った屋敷であり、彼を偲ぶ品物や場所が多く遺されている。それが他人の手に渡って、心無く処分されても良いのか。そんなことを、吹雪は至極簡潔な言葉でほたるに言った。それを受けて、ほたるは遺産の相続を受諾した。

 辰伶が居なくなってから、ほたるは連日のように辰伶の部屋に入り浸っていた。何をする訳でもない。ただ、ぼんやりと時間の波間に揺られて漂っていた。

 いっそ離れ屋から母屋に移ってはどうかという意見もあったが、ほたるはそれを拒否した。この家に来た時、辰伶のものだった離れ屋を、ほたるは譲り受けた。そして今、ほたるがこの母屋に住居を移してしまったら、まるで自分が辰伶の居場所をどんどん奪ってしまうようで、嫌だった。

 辰伶の部屋は辰伶が居なくなった時のまま…というわけにはいかなかった。本当はそのまま誰の手にも触れさせたくはなかったのだが、このまま放置して埃が積もってしまったら、几帳面だった辰伶が嫌がるだろう。そう思って、これまでの通り使用人に掃除をしてくれるよう頼んだ。だからいつでも清潔に整然と保たれていた。それでこそ辰伶の部屋に相応しい。

 塵1つ無い部屋で、ほたるは四肢を伸ばして寝転んでいた。辰伶が居た頃は、あまりこの部屋に入ったことは無かった。何故だろうと思って、すぐにそれが何でもないことに気付いた。いつも辰伶の方から離れ屋に出向いて来てくれていたからだ。他愛の無い、事実。

 ふと、ほたるは指先にくすぐったいような感触を覚えた。何かと見てみれば、辰伶の飼猫のジェットがほたるの指を舐めていた。

「メシ?」

 ジェットは普通の猫ではない。身体はとっくの昔に死骸となった猫で、その中身は以前辰伶が飼っていたアンバーである。所謂半妖だ。ジェットはほたるの能力を食べて、その身を保っていた。

 …―― いや、いらない。

「え? でも、前にやったのって、いつだっけ。すごく前だと思うけど、こんなに長いの初めてじゃない?」

 ほたるは身を起こした。するとジェットはその膝の上に乗り上げて、飼い主だった辰伶に対してするように、ほたるの膝の上で身体を丸めた。

「辰伶が居なくて寂しいの? それで食欲が無いの?」

 ジェットの尻尾が、ほたるの手の甲を撫でた。

 …―― 俺よりお前だろ。

「あ、それは大丈夫。俺って結構、ショックに強いから。何があってもメシだけは食べるよ」

 ほたるはジェットの背中を撫でた。この部屋に流れる時間のようにゆっくりと。ジェットが目を閉じる。

「あのさ…」

 …―― ん…

 普段の彼らしくなく躊躇いがちに話しかけるのを、ジェットは何気ない素振りで受ける。

「なんか辰伶って、俺のこと、大事に思ってたみたいなんだけど…」

 …―― 思ってたな。

「うん。それは間違い無いと思うんだよね。でもさ、それって……何でだろう」

 …―― お前のことが好きだったんだろう?

「そこなんだけど…よく解からないんだよね」

 …―― 嫌いだったら、わざわざお前に全財産が渡るようにはしないだろう。

 ほたるは手を止めて、溜息を漏らした。

「それが問題なんだよ。辰伶ってさ、すごく家を大事にしてたじゃない? 俺が辰伶のこと好きだって言った時、あいつ、何て言ったと思う。子供が出来ないからダメだって。その上、さっさと見合いなんてしちゃうし。だから…」

 …―― だから?

「この家を存続させる為に、俺を相続人に仕立て上げたんじゃないのかなあ。家を守るために、俺を大事にしてたんじゃないの?って、思う」

 …―― 本気でそう思ってるのか?

「解からない。辰伶の気持ちって、いまいち解かりにくいんだよ。…俺にはね」

 ジェットはほたるの手の下からスルリと抜け出し、音も無く床へ降りた。

 …―― 実は、別れを言いに来たんだ。

 ほたるは目を見開いた。ジェットの金色の瞳が、ほたるを真っ直ぐ見上げている。

 …―― 本当は黙って行こうかと思ったんだが、お前には色々と世話になったし? やっぱり、義理を欠くのはまずいだろうと思ってな。

「何で? 何処に行くの?」

 …―― 俺は、辰伶のことが大好きだった。

「辰伶が居なくなったら、俺にはもう用無しってこと? まあ、そういえばそうだったよね。お前は最初から、辰伶の為にここに居たんだから」

 …―― 俺は、お前のことも大好きだったさ。辰伶と同じくらい。

「……」

 …―― お前だって、俺のこと大好きだろう。お前の力はとても美味かった。だから、俺はお前が大好きだよ。でも…

「辰伶が死んだこと、責めてるの? 俺のせいで辰伶が死んだことが、やっぱり赦せない?」

 猫の表情は解からない。ジェットは瞬きすら忘れたように、ほたるをじっと見上げている。怒っているのか、哀れんでいるのか、ほたるにはさっぱり解からない。

「ゆんゆんは、何も言わなかった。辰伶の死んだ原因とか経緯とか、俺には何も聞かないんだよ。それってさ、やっぱり俺のせいで辰伶が死んだって思ってるってこと…」

 ジェットがほたるの膝にその鼻面を摺り寄せた。慰めるようなその仕草に、ほたるの言葉は止まり、どこかへ消えてしまった。

 …―― 違うよ。

「猫なんかに同情されたくない。気休めは…」

 …―― 本当に、お前のせいじゃない。俺のせいだ。俺が、お前から力を貰ってたから、お前は全力で戦えなかった。お前があんな奴に後れを取ったのは、俺のせいさ。俺は、いつまでもこんなところに居ちゃいけなかった。

「それは…しょうがないじゃない。俺たち約束したんだから。辰伶を悲しませない為に…」

 …―― 生きてるものは、いずれは死ぬ。それは誰もが避けられないことだ。だから、その悲しみを辰伶に乗り越えて貰わなきゃいけなかった。こんな風に隠蔽したことは、間違いだったんだ。

「でも、あの頃の辰伶は…」

 …―― あの頃は、あれで良かったと思う。でも、辰伶にとってのお前の存在がどんどん大きくなって、とっくの昔に俺なんて必要じゃなくなってた。今なら俺がいなくなったって辰伶は、…そりゃあ、ちょっとは悲しんでくれると思うけど、でもあの時みたいに壊れたりはしなかっただろう。辰伶には、お前が居たから。

「……」

 …―― だけど俺は、辰伶が大好きだった。お前達とずっと一緒に居たかった。俺の我が儘だったんだよ。俺の我が儘が、辰伶を死なせてしまった。

 その時、ほたるは酷く厭な予感がした。とても、とても厭な予感だ。

 …―― 俺はお前のこと大好きだから、お前があんな負け方したことが悔しい。凄く凄く悔しい。お前の本当の実力なら、あんな妖魔に絶対に負けない。そうだろう? だから…

「ねえ、前に力をあげたのって、いつだっけ。お前、いつから食べてない?」

 辰伶が以前に飼っていたアンバーは、辰伶から力を貰わなくなってからも数ヶ月は生きていた。しかし、それはアンバー自身の体であったからだ。このジェットは死んだ仔猫の体にアンバーが乗り移っているに過ぎない。この状態を維持するには非常に大きなエネルギーを要するのだと、以前に聞いたことがあった。あの妖魔も、辰伶の身体を手に入れる為に、辰伶の身体を妖魔に棲みやすく変質させた位だ。

「食欲無いって、嘘でしょ。何で、食べないの?」

 …―― だから、今度は絶対に勝ってくれ。そして、辰伶の仇を…

「ジェット!」

 …―― そうだ。いいこと教えてやる。辰伶はずっと昔から、毎日欠かさず日記を付けていた。ほら、そこの棚に並んでるやつがそうだ。あれを読めば、少しは辰伶の本心が解かると思う。

「待ってよ、ジェット!」

 …―― ほら、いいこと教えてやったんだから、絶対に仇を討ってくれよ。…大好きだからな、ほたる。

「ジェット!」

 ほたるは目の前の黒猫に両手を差し出した。しかしその腕は虚しく空を抱いた。ジェットの身体は一瞬で砂のように崩れ、後には何も残らなかった。

「なんで…」

 ほたるは茫然と呟いた。

「なんで、みんな…おいていくの?」

 随分昔に母が死んだ。ついこの前に異母兄である辰伶を失った。そして今、大切な人を守る為に長年共同戦線を張ってきた戦友が逝った。ほたるは虚ろに左手のリングを見た。蝙蝠の翼がオニキスを抱いたデビルリング。このリングは辰伶が買い、辰伶のリングはほたるが買った。一番幸せだった頃の、今では夢の名残。片割れのエンジェルリングも失われてしまった。

「俺、独りになっちゃった」

 孤独なリングに宿る光は、どこか寂しげだった。


 水は嫌い。水は嫌いなのに、水が無ければ生きられないのが嫌い。

 愛だったのだろうか、あれは。

 ならば…


おわり

(06/1/3)