20. 読経
綺麗な人だった。
「辰伶…」
整った面立ち。
銀糸の髪。
真っ直ぐに伸びた背中の線。
直線的な歩調。
すんなりと指の長い、形の良い手。
明瞭な声。
物堅い語り口調。
ほたるが一番好きだったのは、多分、彼の瞳。ほたると同じ琥珀色の、しかしほたるとは違う輝き。日の当たる世界を、正面だけを向いて歩いて行ける漢。光に愛され、光の中が良く似合う。ほたるの愛する異母兄はそんな漢だった。
穏やかな顔。まるで眠っているような。しかしその蒼白い瞼が開かれることは無い。彼の瞳が光を映すことは、2度と無い。
彼は決して聖人君子というわけではなかったけれど、ほたるに対してはどこまでも優しく、底が見えないくらいに情が深く、哀しいくらいに強い人だった。
綺麗な、あの綺麗な魂は何処へ行ってしまったのだろう。こんなに綺麗な身体だけを残して、あの白蓮のように純粋な魂は、今は何処に在るのだろうか。
若すぎる人の死に、弔問客の表情は重かった。故人が生を全うした大往生であれば、涙の間にも思い出を語り合う人々の談笑が時折は混じるものであるが、亡くなったのが余にも若く、また突然であった為に、命の果敢なさと無常感をただ哀しみ惜しむ以外になかった。
「ありがとうございます。生前はこの上ないご厚情を賜りまして、故人に代わり御礼申し上げます」
通夜に訪れた人々に、ほたるは教えられた挨拶を機械的に繰り返していた。そのどこか虚ろで乾いた対応が、人々の目には却って痛ましく映っていた。気丈と呼ぶには、彼の声には芯が無く頼りなげであった。
「この度はご愁傷様です」
耳慣れた声に、ほたるは伏目がちであった視線を上げた。そこには彼の師匠である遊庵と、その弟妹たちが立っていた。
「ありがとうございます。生前は…」
ほたるの声が途切れた。唇が震えて言葉が出て来ない。その様子を見て、遊庵はほたるの頭を強く抱き寄せた。彼の妹の庵奈がほたるの肩を優しく抱きしめる。あまり面識の無い親類や縁者たちに囲まれて張り詰めていたほたるの気が、彼が最も心を許している者たちの顔を見て、一気に緩んだのだ。遊庵の手が、まるで赤ん坊をあやすように、ほたるの頭を優しく叩いた。
「無理するな、螢惑」
「無理しなくていいんだよ」
庵奈の手の中で、ほたるの肩が小刻みに震えた。遊庵の弟妹たちがほたるを囲み、痛ましさに啜り泣いた。
遊庵はやりきれない思いだ。愛弟子のこんな姿だけは見たくないと思っていたのに、何一つ有効な助言をしてやれなかったことが悔やまれてならない。
辰伶の死を遊庵に連絡したのは、辰伶の家の使用人だった。もっとも彼が遊庵に告げたのは主人の死のことではなく、ほたるのことだったのだが。辰伶が死んでほたるが大変なことになっているからすぐに来て欲しいという内容だった。
連絡を受けた遊庵は取るもの取り合えず駆けつけた。そして、離れ屋の前の庭で辰伶の遺体を抱きしめて茫然としているほたるを目にすることとなったのだ。
辰伶が死んだ、どうしたらいい。魂が抜けたような顔で、ほたるは遊庵にそう訊ねた。どうしたらいいか。遊庵は答えに詰まった。どうしたら…どうしてこんなことに…
庭は嘗ての面影は無く酷い有様で、ここで激しい戦闘があったことを物語っていた。生々しく残る火と水の爪痕。火はほたるの能力だ。そして水は辰伶の能力。
辰伶の左手には妖魔の幼生が寄生していた。その幼生は宿主の力を喰って成長し、成体となった妖魔は宿主の心臓を食い破って出てくる。その為、辰伶は己の壬生一族としての能力を全て封印していた。
何故、辰伶は封印を解いたのか。何故、死ぬと解かっていて、その能力を使ったのか。そう問い質すことは、ほたるにとって酷く残酷なことであると、遊庵は直感した。遊庵はほたるに何一つ訊ねることが出来なかった。
遊庵にできたのは、ごく散文的なことだった。惨状に集まったはよいが、なす術もなくうろたえるばかりの使用人たちに指示を出し、辰伶の遺体を母屋に運ばせた。そして同僚であり辰伶の師である吹雪に連絡を取り相談をしたところ、親類縁者への連絡から葬儀の手配など、後はすべて吹雪が引き受けてくれることになった。
ほたるには身支度を調えるよう言いつけた。かなり不安があったのだが、ほたるは意外なくらい素直にそれに従って動いた。それでもその顔には生気が無かった。
そして吹雪の到着を待って、遊庵は一旦家に帰った。弟妹たちに事の次第を話し、彼らの支度を庵奈に任せた。それから歳子とアキラに頼んで、それぞれ辰伶やほたるの友人知人たちに連絡させた。遊庵が出来たのは、それだけだった。
「螢惑…」
元気出せ、とは言えない。しっかりしろ、とも言えない。凡そ彼の辰伶に対する想いを知る者ならば、気休めに慰めや励ましの言葉など掛けられるはずもない。
やがて落ち着いたのか、ほたるは遊庵から身を離した。驚いたことに、ほたるの顔には涙の痕跡は無かった。泣けていなかったのだ。
ほたるは無言のまま、親族達の輪の中に入っていった。もう通夜が始まるのだ。その危うげな背中を、遊庵は締め付けられるような思いで見送った。
通夜が終わって、客の殆どは帰ってしまった。今、この場に残っているのは一握りの親戚だけである。明日の葬儀の段取りについて話し合っているのだ。それは時間の話であり、場所の話であり、席次の話であり、人数の話であり、金額の話であった。故人への情を何処かへ置き去りにしたような事務的な話題が、しかし今のほたるには、却ってありがたかった。自己と感情の間に距離を作ることで、自己を冷静にコントロールすることができた。
この場には辰伶の師である吹雪も同席していた。吹雪とこの家の繋がりは、かなり前の代まで遡らねばならない遠縁らしいが、この家に対する吹雪の発言力は相当強いものであるようだった。成人前にこの家を継ぐこととなった辰伶の後見もしていたらしい。その吹雪の後押しで、ほたるが喪主を務めることとなった。
多少の揉め事もあったが、どうにか話し合いも済んで、ほたるは漸く1人になることができた。白木の棺の傍らに座り込み、無心に辰伶の死に顔を見つめる。
『ほたる。俺は、ずっと…』
最期に辰伶は、何を言おうとしていたのだろう。ほたるに何を伝えたかったのだろうか。
「ずっと…何なの?」
答えの無いまま、ほたるの腕の中で辰伶の命の火は消えた。抱きしめた身体は温かくて、彼が死んだとは、とても信じることができなかった。しかしそれも無情に冷えてゆき、ほたるの手は辰伶の身体がただの物体へと変わっていくプロセスを虚しく味わったのだ。
「ほたる様」
呼ばれて振り返る。使用人が畏まって立っていた。
「どうかもうお休み下さい。火の番は私どもが致します」
「……」
「ほたる様は、明日、喪主を務められる身ですから」
「…そうだね」
ふと、これも吹雪のはからいではないかとほたるは思った。そうであったとしても、なかったとしても、別に不都合は無いので問い質しはしなかった。ただ、こういう目配り良さという点で、吹雪と辰伶は似ていると思った。
後のことは使用人たちに任せて、ほたるは離れ屋に戻った。風呂を浴びて寝支度を調える。そして寝室のドアを開けたほたるは、大きく眼を見張った。
「この度はご愁傷様だな」
笑顔でほたるを迎えたのは、死んだはずの辰伶だった。ほたるのベッドに腰掛け、尊大に足を組みなおした。
「言っただろう。辰伶の姿で、辰伶の声で、辰伶の仕草で、辰伶のようにお前を愛してやると」
辰伶は挑発的な視線をほたるに向けたまま、ゆっくりと胸を肌蹴て見せた。そこには無残な傷跡があった。
「まさか…」
「そうだ。これは本物の辰伶の身体だ」
辰伶は、いや、辰伶の死体に入り込んだ妖魔は、艶然と笑った。
「お前が悪いんだぞ、螢惑。きちんと兄の言うことをきかないから。辰伶はお前にこう言ったはずだ。葬式なんてしなくていいから、すぐに遺体を燃やせと」
その言葉は、確かにほたるの記憶にあった。しかし、それをいつ何処で辰伶から聞いたのか思い出せない。まるで夢の中で聞いたかのようだ。
はっきり言える事は、辰伶はこの事態を予測していたということだ。その上で己の身体の抹消を、ほたるへ頼んだのだろう。
「通常、人の身体に妖魔が宿ることには無理がある。その負担に耐え切れず、人は命を落とす。死体でさえもそうだ。お前が餌付けしている化け猫を見ても判る通り、死んだ肉体を維持していくのに膨大なエネルギーが要る。ところが、」
妖魔は辰伶の左手の甲をほたるの眼前に曝した。その手には辰伶を長年苦しめた赤い痣は無かった。
「辰伶に寄生していた妖魔の幼生には、面白い習性がある。幼生のまま何年も宿主の体内にあると、その身体を自分の住みやすいように作り変えてしまう。つまり、この身体は妖魔そのものになったのだ」
「返せ…」
低い声が、ほたるの口から流れる。
「返せっ」
「お陰で着心地の良い身体になった」
「返せっ。その身体から出て行けっ」
ほたるは辰伶の身体に掴みかかった。
「辰伶は妖魔なんかじゃない。この身体は俺の辰伶だっ」
そのままベッドに倒れこみ、ほたるは馬乗りになって締め上げた。その眼には狂気じみた光がある。
「熱烈だな」
妖魔は辰伶の手でほたるの二の腕を掴んだ。力任せに引き寄せられ、ほたるは辰伶の身体の上に倒れこんだ。その勢いのままに口づけられる。冷たい唇。音のしない心臓。深く貪られて混乱の中にある内に体勢は入れ換えられていて、気付いた時にはほたるは組み敷かれる形となっていた。
「放せっ」
ほたるは身を捩って暴れた。しかし不利な体勢が彼の抵抗を虚しくした。辰伶の身体の下から逃れることができない。
「何故暴れる。お前が望んだことだろう」
「俺はっ」
「辰伶が欲しかったのだろう?」
「おまえは辰伶じゃないっ」
「俺が辰伶だ」
「違う! 偽物なんか要らないっ」
怒りを叩きつけるように、ほたるは怒鳴った。それまで余裕げに薄く笑みを刷いていた辰伶の顔が険しくなった。彼の指が荒々しくほたるの顎を掴み、骨を砕かんばかりの力で固定した。
「何故、俺が辰伶ではいけないんだ?」
無理矢理合わせられた瞳を、ほたるは息を呑む思いで見つめた。辰伶と同じ琥珀色の瞳。当たり前だ。これは辰伶の身体なのだから。しかしそれだけではない。どこか辰伶と同じ色の光を放つ瞳に、ほたるは魅入られたかのように目が離せなかった。
「俺が辰伶だったかもしれんのに…な」
「どういうこと?」
辰伶の身体を奪った妖魔は、そのままの姿勢で言い募った。
「俺と辰伶は、双子で生まれるはずだった。本来なら」
「ふた…ご」
「ところが、俺は出来損ないだった。五体どころか、脳だってまともに有りはしなかった。神経と、内臓の一部だけ。ゴミと変わらん状態で、この辰伶の身体の中に居たんだ。腫瘍としてな」
ほたるは以前に辰伶の口から聞いた話を思い出した。辰伶は体内に生まれつき腫瘍か何かがあったらしくて、それを除去する手術を受けたと言っていた。その為に学校を1年近く休学し、本来1学年上であったはずの辰伶は、ほたると同学年として高校に通っていた。
「辰伶の体内に在ったあのころが、思えば一番平和だったのかもな。何も知らず、何も考えず、意識のひとかけらもない、ただ『在る』だけの存在。辰伶から切り離されて、冷たい金属製の皿に放り出された瞬間に、俺の意識は生まれた。死ぬことで、俺は生まれたんだ」
「辰伶は、手術後にやたらと妖魔の攻撃を受けるようになったって言ってた」
妖魔は辰伶の顔で、懐かしそうに目を眇めた。
「もと居た場所に帰りたかっただけだ。あの頃は生まれたばかりで、まだよく解かっていなかったからな」
いつしかほたるを捕らえていた指から力が抜けていた。緩んだ辰伶の手をそっと払いのけ、ほたるは身を起こした。それに合わせて辰伶の身体もほたるの上からどいた。
「だから、辰伶を憎んだの? 辰伶の身体を奪ってやろうと思ったの?」
「憎む? 心外だな。俺は辰伶を愛している。どちらが兄で、どちらが弟か知らんが、同じ血を分けた兄弟だからな。俺はあいつを心底愛しているから、あいつの全てを頂いたんだ」
「何それ…」
「父も愛していたし、取り分け、俺は母を愛していた。実際、彼女ほど出来た母親はいない。俺と辰伶の、兄弟どちらかを贔屓することもなく、公平に、平等に無視してくれていたのだからな」
辰伶の母親が辰伶に対してどのような接し方をしていたか、ほたるは思い出した。他人と変わらない、いや、いっそ他人に対する方がまだ温かいのではないかと思うほど、それは味気なく乾いたものだった。彼女にとって、辰伶は居ても居なくても同じだった。眼中に無いという点で、確かに彼女は2人の息子に対してえこひいきは無かった。
「だから、俺は彼女の望みを叶えてやった。彼女を幸せにしてやりたかった」
奇しくも妖魔は辰伶と同じことを言った。人間の愛と妖魔の愛は違うのだということを、ほたるは実感した。妖魔の言うことは、ほたるにはいちいち理解しにくかった。
「愛していて、死に追いやったっていうの? そんなのって…」
「そして、螢惑。お前を一番、愛している」
再び口づけられた。軽くではあったが、ほたるはそれを顔を捩って拒否し、不躾な相手を睨みつけた。
「辰伶に対する俺の仕掛けはどれ1つとして功をなさなかった。あいつの強運には、ほとほと手を焼かされたな。その流れを変えたのが、螢惑、お前だ。お前は辰伶の強運を月蝕のように削ぐ。お前が俺の未来を開いてくれたんだ」
ほたるの心は凍りついた。副音声で『お前が辰伶の未来を閉ざしたのだ』と宣告されたようだった。妖魔は辰伶の身体で、辰伶の顔で、辰伶の声で、ほたるをじわじわと傷つけていく。
「違う…」
「辰伶はお前の為に存在していた。お前は俺の為に存在している」
「違うっ」
ほたるの頭に血が昇った。逆上し、怒りの衝動のままに、相手に殴りかかった。しかしそれを逆手に取られ、ほたるは妖魔が動かす辰伶の腕の中に囚われた。
「約束したな。お前が俺のものになるなら、辰伶をお前にやってもいいと」
辰伶の指がほたるの首筋に触れる。その冷たい感触にほたるの肌は震えた。首筋から肩へと撫で下ろし、白い肌を冷たい空気の中へ露出させる。指が辿った道筋を、冷たい唇がなぞる。
「…っ」
変な形に腕が捻られている為に、ほたるはそれから逃れることができなかった。言い知れぬ悔しさが込み上げる。ほたるにとって最愛の者である辰伶の命と身体を奪った憎い相手に好き勝手されることは、肉体よりも精神に酷い苦痛を感じた。辰伶の顔をしているが、辰伶ではない。辰伶の身体だが、ほたるの愛する辰伶ではない。仇である漢の行為は屈辱だった。ほたるを蹂躙しようと這い回る指と唇に、ほたるは激しく憎悪した。
「い…かげんに、してよっ」
耐え切れず、ほたるは炎を召喚しようとした。その瞬間、ドアが予告無く開け放たれ、疾風のような蹴りがほたると辰伶の間を割った。捩じ上げられていた為に痛みを訴える腕を庇いながら見ると、そこには見慣れた背中があった。
「ゆんゆん…」
「大丈夫か、螢惑。…って、何だ? 何で辰伶がここに?」
「太四老・遊庵か。…分が悪いな」
辰伶の身体がゆらりと傾いだ。瞬時に水の像に変わり、その場に崩れ落ちた。水分身だ。遊庵の登場に不利を悟り、妖魔はさっさと見切りを付けて退散してしまったのだ。
「おい、今のは…」
「…辰伶、だったもの」
かつて、ほたるが愛した人の魂が在った器。
「ゆんゆん、帰ったんじゃなかったの?」
「ここの西の部屋に泊まってたんだよ。吹雪の計らいでな」
「ふーん…」
本当に目配りが利くというか、辰伶の師匠だっただけあるというか、ほたるは吹雪を再認識した。
「まあ、吹雪に言われんでも、もともとそうする気だったけどな」
「そうなの?」
「一応、てめーの師匠だし?」
「…うん」
ほたるの髪を遊庵がクシャクシャに掻き回す。鬱陶しいなあと思いながら、不思議にほたるはそれを跳ね除ける気になれなかった。
「あーあ。床、水浸し…。サイアク…」
辰伶の身体が消えた地点を、ほたるは凝視つづける。まだ、泣けなかった。
◇
棺は空のまま、葬儀は執り行われた。誰の為か解からない読経の声が流れる中、人々の啜り泣きが、ほたるの耳には奇妙に白々しかった。
空はよそよそしく晴れ、乾いた雲は水の戦士の為に一粒の涙も降らせてはくれなかった。白い鳥が一羽、果てしなく飛んでいく。
辰伶の魂は、どこに在るのだろう。遥か遠くへと羽ばたいていく鳥の姿を、ほたるの瞳はいつまでも追っていた。
おわり
兄さんが黒くなった途端、辰ほたっぽい展開になったなあ。いや、見ようによっては遊ほたっぽくもあるような。つーか、西の部屋にいた割には、ゆんゆん遅かったな。寝てたんか?
Q:今回の黒い兄さんのほたるに対する暴挙について、皆さんはどう思われますか。
A:
1.いいぞ。もっとやれ。
2.生温い。もっとやれ。
3.やり過ぎだ。もっとやれ。
4.黒兄×白兄は無いんですか?(←ありません。マニアック過ぎです)
…あれ、もしかしてこれが今年最後のほた誕か? 皆様、良いお年を! …って、こんな暗い展開で良い年もクソもあるかぁって声が聞こえそう…
(05/12/27)