18.天然


 出掛けになって辰伶は気付いた。大切なものが無い。胸元に手を当て、慌てて周囲を見回すが、その辺りには落ちていなかった。どこで失くしてしまったのだろうか。暫く未練がましく後ろを振り返っていたが、もう時間が無かったので、辰伶は諦めてそのまま家を出た。

 昨晩までは身に付けていた覚えがあるのだから、家の中のどこかにあることは確かだ。見合いが終わって、家に帰ってから探せばいいと、自分に言い聞かせた。外で失くしたのではないのだから、もう自分の手に戻ってこないということはないはずだ。この世から消滅してしまったのではないのだから。


 ペットボトルからミネラルウォーターを呷る。喉の渇きを癒したほたるは、再びベッドに潜り込んだ。まだアルコールの気配を感じる。もう2度と酒など飲まないと、ほたるは固く誓う。

「…って、前にも思ったことあったような…」

 凡そ酒飲みが二日酔いの苦しさゆえに酒を断ったという話は聞かない。結局、喉もと過ぎれば…だ。

 2時半。辰伶の見合いは確か3時からであったと、そんなことをほたるは思った。彼のことだから大真面目にスーツなんて着ていっただろう。たかが見合いで…

「たかが見合いじゃない…」

 妨害してやろうと思わなかったとは言わない。ほたるの頭の中では、何回も何回も、色々な手段を講じてぶち壊してやった。女装して乗り込んで、辰伶の恋人だって言ってやろうか。いや、男のままの方が効果が高いかもしれない。それよりも一層のこと、見合い会場に火をつけてやろうか…などなど。

 しかしそれは想像だけで、現実には何もしなかった。二日酔いで、気分が悪くて、それどころじゃないから…

「辰伶…」

 異母弟が恋慕して見合いをぶち壊したなんて、ヘンな噂がたったら辰伶がかわいそうだから。辰伶は壬生一族としての能力とか未来とか家族とか、大事なものを失って、それでも真面目に生きる道を模索して、正しく生きていこうとしているのに、邪魔なんてしたらかわいそうだ。そう思うくらいには、ほたるは辰伶のことが好きだった。真剣に本気で好きだった。

 辰伶に対する自分の想いを、ほたるは間違っているとは思わないし、卑下してもいない。しかし、それと世間一般の評価は一致しないことも承知していた。同性同士であることの不自然さと、血の繋がった兄弟であることの不道徳さ。2つの背徳は、辰伶のような綺麗で正しい人間には酷く不似合いだと、ほたるは思う。

「そーいや、俺って不倫の子じゃない。母子そろって、どーしよーもないね…」

 だからだろうか。背徳の関係から生まれた背徳の子供だから、異母兄に恋するなんて背徳にも平気で染まることができるのだろうか。ほたるは笑いたいような、泣きたいような気持ちになった。母が愛人で、自分が私生児であることを、これまではそれほど引け目には思っていなかった。しかし今、そのことが自分と辰伶の決定的な違いであるとくっきり線引きされたようで、酷くやるせなかった。

「辰伶…」

 それでも、好き。

「辰伶…」

 好きだから、苦しい。苦しいんだよ、辰伶…

「大丈夫か、ほたる」

 え?

 目を開けると、そこにはほたるが恋い求める異母兄の顔があった。夢や幻覚ではない。辰伶が心配そうにほたるを覗き込んでいる。

「なんで…辰伶…見合い…」
「お前が心配で、それどころじゃなかった。全く、あんな無茶な飲み方して…死んでしまうかと思ったじゃないか」

 辰伶の指がほたるの髪を優しく梳る。ほっそりと長く形の良い彼の指が、ほたるはとても好きで…

「やめてよ…」

 ほたるは身を起こし、その手を払い除けた。

「妖魔の癖に、辰伶のフリして俺に触んないでよっ」

 辰伶は、辰伶の顔をした妖魔は、正体を見破られたことには動揺もせず、余裕すら感じさせる笑みを湛えている。それが酷くほたるの気に障った。何故、コイツはこんなタイミングで現れたのだろう。こんな最低な気分の時に、まるで計ったように、何故コイツが…

「辰伶に振られて可哀相だから、慰めに来てやったのに」
「余計なお世話だよ。てゆーか、前に言ったよね。その姿で俺の前に現れたら赦さないって」

 ほたるは刀を抜いた。今日こそは、この妖魔を仕留める。母の為に。辰伶の為に。辰伶の…為に。

「何、笑ってんの?」

 妖魔が、辰伶の顔がほたるを嘲う。

「辰伶のニセモノの癖に、何、笑ってんだよっ」
「辰伶、辰伶って、所詮はお前の気持ちに応えようとしない漢の為に、何をムキになる」
「関係ないよ。俺はお前が嫌いだから。お前なんか大っ嫌い。だから殺す」

 ほたるの剣が真っ直ぐに妖魔へと走った。それは妖魔の心臓をまともに刺し貫いた。しかし次の瞬間、像が崩れて水と化した。

「!?」

 …―― やれやれ。失恋の腹癒せか。要するに八つ当たりじゃないか。

「どこに居るっ」

 …―― こんな狭いところでは、存分に剣を振るえないだろう?

 ほたるは部屋を飛び出すと、母屋と離れ屋を繋ぐ廊橋へ出た。辰伶の姿をした妖魔は庭池の上、水面に波紋も描かず立っていた。その両手に、ほたるがこれまで見たことのない形の刀を携えている。

「お前は初めて目にしただろう。これが辰伶の刀、舞曲水だ。先ほどの水分身も辰伶の技だ。折角この姿なのだから、辰伶の技で相手してやる。お前の愛する者の技で、な」
「…それが何だっていうの」

 ほたるは裸足のまま、渡り廊下から庭へ飛び降りた。そのまま足を止めずに、妖魔に切りかかる。妖魔の口元が笑いの形に歪んだ。

「水破七封龍」

 舞曲水が華麗に舞い、その軌跡から水が龍となってほたるに襲い掛かった。これが辰伶の力。水派の頂点たる太四老・吹雪を師とする漢の技。

 違うと、ほたるは即座に否定する。ほたるが戦っているのは辰伶ではない。そこにいるのは、ただ辰伶の姿をしただけの妖魔だ。

「ニセモノのくせにっ」

 ほたるの顔に真紅の刺青のようなものが浮かび上がった。顔だけではない。ほたるは血管内の血を燃焼させることによって、全身に血化粧を纏う。これを施したほたるは、その戦闘能力が極限にまで高められる。螢惑たるほたるの、焔血化粧と呼ばれる最大の技だ。

「魔皇焔」

 ほたるが召喚した炎が、一瞬にして水龍を消滅させた。水龍も庭池の水もただの水蒸気と化して辺りに立ち込める。その中を突ききって、ほたるは妖魔と剣を合わせた。剣と剣とが激しくぶつかり合う。

 ほたるは一旦後ろへ跳び退り、その反動のまま地を蹴って大きく上段から剣を打ち下ろした。単純な動きだが、その分最大の破壊力を生み出す。ほたるの斬撃を妖魔は2振りの舞曲水で受け止めた。しかしその力を受け止めきれず、双剣は粉々に砕けた。

「何それ。随分ヤワいけど、なまくら?」

 妖魔の(辰伶の)舞曲水は、辰伶自身が考案した特殊な剣である。辰伶の剣技の特徴であるスピードと反射速度を最大限に生かすために、切れ味と軽量さのみが追究されている。それゆえに重量感のある攻撃には弱い。この剣は剣を受け止めるようにはできていないのだ。

 守りを捨てた、攻撃のみの剣。それが舞曲水である。それでもこれの本当の使い手である辰伶は、その技量によってどんな剛剣も受け止めることができるのだが。

「…所詮は人真似に過ぎんということか」

 妖魔は忌々しく呟いた。

「覚悟はいい?」

 ほたるの琥珀の瞳が獲物を射竦める。戦いで上気した肌に血化粧が美しい。

 妖魔は今のほたるの攻撃によって受けた傷から流れ出る血から、再び舞曲水を生み出した。水星晶という、これも辰伶の特殊能力だ。

「そんなの、いくら作っても一緒だよ」
「そうかな」

 妖魔のその態度には奇妙な余裕があり、強がりばかりではないようだった。

「今のような攻撃を繰り返されたら、確かに俺は終わりだ。だが、螢惑。それは今ほどの攻撃であればの話だ」
「……」
「ただでさえ、お前は化け猫なんぞに力を喰わせてやっている。その血化粧は、さて、どれくらい保つ?」

 焔血化粧によってほたるは高い攻撃力を得ることが出来るが、その代償も大きい。身体に掛かる負担は極度に大きく、短時間しか保たない上に、その後は行動不能に陥ってしまう。術者の命を縮める禁忌の技なのだ。

「別に。術が切れる前に、お前を殺ればいいだけのことだよ」
「…強がりを」

 ほたるが動いた。鋭い斬撃が妖魔に振り下ろされたが、真っ二つにされたのは水分身だった。背後に妖魔の気配。ほたるは剣の勢いを殺さずに、そのまま回転した。その時、ほたるの視界を、無視しえぬものが横切った。

 それは…

 銀の指輪にチェーンが通されたペンダント。それは辰伶のリングだ。清らかな光を放つジルコニアを天使の翼が抱いている。辰伶に天使の加護あることを祈って、ほたるが辰伶に贈ったもの。あれは、あれはどうしたのだろう。今朝、床に落ちていたのを拾って、それから…それから…

 戦いのさ中に、ほたるは他所事に気をとられた。妖魔は笑みを漏らした。集中力を切らしたその瞬間が、ほたるの限界だった。


 見合いといってもそんな格式張ったものでなく、事前に写真や釣り書などは交わしていなかった。辰伶は何の前情報も無くその場に臨むこととなったのだが、紹介された相手の顔を見て驚きの余り言葉に詰まった。

「芙美代と申します」

 彼女は辰伶の母にどこか似ていた。顔立ちや背格好だけではない。何よりもその仕草や声が亡き人の面影を思い起こさせる。かつて、世界中の誰よりも幸せしてあげたいと辰伶が願っていた人。それを拒絶して去っていってしまった、辰伶に命を与え、辰伶をこの世に送り出した、辰伶に最も近い肉親でありながら、今も昔も遥かに遠い人。

「どうかなさいましたか?」
「…いいえ」

 過日の幻がそこに居た。


『優』に続きます。お兄ちゃん!ほたるが大変だよっ!ほろ苦くなってる場合じゃないってば…!

これのどこが「天然」なのかと思うかもしれませんが、ほたるが飲んでいたミネラルウォーターが天然水……ごめんなさい

先日掲示板にて募集した辰伶の見合い相手の名前は抽選の結果、「ふみよ」に決定いたしました。沢山のご応募ありがとうございました。

(05/12/13)