17.胸奥
最悪の朝だった。いや、朝というには日が高く、もう昼に近い時刻だった。
「うー・・・」
昨夜、泥酔して帰宅したほたるは、当然の結果として二日酔いという清々しさとは程遠い目覚めを迎えた。酩酊から醒めれば、後に残るのは痛む頭とむかつく胃。そして、全身に打ち身やすり傷があり、片頬が少し腫れていた。何故だろうと記憶を手繰ってみると、居酒屋で大暴れするブチ切れた灯の像が浮かんできた。
「あー・・・灯ちゃん、ゲロ塗れにしちゃったなあ・・・ま、いーか」
ほたるはノロノロと身体を起こし、気怠げに髪を掻き揚げた。スッキリしない頭が忌々しいので、シャワーを浴びようと思いつく。ベッドを降りて床に足を着けた瞬間、素足に痛みが走った。
「いっ…たあ…」
床に銀製のペンダントが落ちていて、それを踏んでしまったのだ。ただでさえ二日酔いで気分が悪いというのに、これによってほたるの機嫌は最低最悪になった。ペンダントを拾って物置台に放り投げた。ペンダントはうまく乗らずに、跳ね返ってまた床に落ちてしまった。ほたるは余計にムカついた。苛々しながら拾い上げて、台の上に置いた。
適当に着替えを見繕って抱え、寝室を出た。ふと、昨夜はどうやってこの部屋に帰ってきたのだろうと思う。
裸足のまま自室を出て、廊下をペタペタと歩いて行った。木の廊下は素足には冷たい。何か踏んだら危険だし寒々しいからスリッパを履けといつも辰伶に言われるが、ほたるはなんとなく裸足が好きなのだ。もっとも、そのせいで先ほどは少し痛い目をみてしまったのだが。
「あれ?…そーいえば、あれって…」
ふと、何かに気付きかけたのだが、二日酔いの頭が思考の邪魔をする。考えるのが億劫で、ほたるはとにかくシャワーを浴びようと思った。脱衣籠に着替えを放り込み、パジャマのボタンを外す。さっさと脱ぎ捨てて浴室に入るとシャワーのコックを捻った。途端に冷たい水が吹き出て全身を叩いたので、慌てて温度を調節した。
一番快適な温度で降り注ぐシャワーを、ほたるは顔面から受け止めた。シャワーを浴びて少しはっきりとした頭で、昨夜のことを思い出す。
昨夜は、かつて四聖天と呼ばれた仲間達と酒を酌み交わし…などと穏やかな雰囲気ではなかった。ほたるは失恋の痛手から滅茶苦茶にヤケ酒をあおり、自己のアルコール許容量を遥かにオーバーしてしまったのだ。
「それなのに、灯ちゃんが思いっきり締め付けるから、ゲロっちゃったじゃない」
この場に灯がいないのをいいことに、ほたるは全責任を転嫁した。
「で…なんか歩けなくなっちゃったから、梵が家まで背負ってくれて…それから…」
それから、そう、辰伶が居たのだ。吐瀉物や砂埃で汚れた服を脱がせて、全身をシャワーで洗ってくれた。それから記憶がないが、恐らく辰伶がほたるにパジャマを着せて、寝室まで運び、きちんとベッドに寝かせてくれたのだろう。
「あー・・・辰伶にハダカ見られちゃったなあ。別にいーけど」
何を言っているのだろうと、自分でも思う。
「すごいよね。お風呂で抱き合っちゃった。辰伶は半裸で、俺なんか全裸だよ。すごいねー・・・」
そしてまた、「あれ?」と思う。次第に蘇る記憶の中で、ほたるは辰伶に覆いかぶさるようにして、その胸に頬を埋めていた。辰伶の濡れたシャツの感触が気持ち悪くて、それを肌蹴させて彼の素肌を求めた。その手触りは残念ながら覚えていないが、規則正しい心臓の音が記憶に残っている。
「…じゃ、なくて。ほら、あの時…」
また、何かを思い出しかけたのだが、またもやそれを掴まえることが出来ず、ほたるは不確かな思考の端緒を取り留めなく探った。しかし二日酔いの頭痛に妨害されて考えるのが嫌になってしまい、結局中途半端に放り出した。大事なことなら、また思い出すだろう。
シャワーのお陰で多少はさっぱりしたが、二日酔いそのものが消えるわけではないので、気分爽快とまではいかなかった。髪を乾かすことさえ面倒で、ほたるはとにかく今日は1日中寝ていたいと思った。途中、給湯スペースの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを持って部屋に戻った。
ペットボトルをベッドの近くの台の上に置いて、ふとみれば銀製のペンダントが無造作に置かれていた。そういえば、先ほど床に落ちていたのを、寝室を出る時に踏んでしまって、その時にここへ置いたのだった。
「これって、…辰伶のじゃない?」
ほたるはそれを手にして、ベッドに身を投げ出した。仰向けになって、眼前にペンダントのチェーンを揺らす。それは確かに辰伶のもので、ペンダントトップには見覚えがあるどころではなかった。天使の翼がジルコニアを抱いた意匠のそれは、ほたるの持つリングと対で、ほたるが辰伶に贈ったリングだ。恐らく昨夜、ほたるを寝室に運んだ時に落としていったのだろう。
ほたるが辰伶に対する想いを打ち明けた時から、このリングは辰伶の指から外されてしまっていた。それにチェーンが通されてペンダントにしてあったのだ。これは何を意味しているのだろうか。
チェーンの金具が壊れてバカになっていた。そういえば昨夜、浴場で辰伶の服を肌蹴させた時に、その胸にこれがあったような気がする。リングをペンダントに変えて、服の中に身に着けていたということは…
「俺とペアのリングなんてつけてるとこ、皆に見られたくないってこと? …だったら最初から付けなきゃいいし…」
ほたるはもう少しで何かが解かりそうな気がした。しかし、頭が痛い。
「見られたくないけど……身に付けていたかったってこと?……何か…それって……うーん…」
辰伶の胸の奥に深く隠されたものが、もう少しで覗けそうな気がする。
「もしかして……ねえ、自惚れかもしれないけどさ、もしかしたら本当は…」
もしかして、辰伶の本心は…
ほたるはそこで思考を打ち切った。思い出した。今日は辰伶の見合いの日だったのだ。ペンダントを床へ放り出し、ほたるは頭から布団を被った。
おわり
最初に申し上げるべきだったかもしれませんが、このシリーズは容赦なくシリアスです。暗い話がお嫌いな方は今回までで読むのをやめるか、最終回まで読み通すかのどちらかをお勧めします。ここから先は途中で読むのをやめると、おそらく一番不幸な結末になってしまうと思います。
(05/12/6)