13.泣き顔


 辰伶は我に返った。いけない。またぼんやりしてしまった。食事中だというのに、その手は辰伶の散漫な意識を反映して、気付くと止まってしまっている。

 彼の心はある疑念に捉えられていた。彼の異母弟であるほたるに、近頃避けられているような気がしてならない。もう1週間近く、いや、ひょっとするとそれ以上、ほたるの顔を見ていない。彼らは母屋と離れ屋に分かれて暮らしているが、しかし頻繁に行き来しているので、姿を全く見ないなどという日は殆ど無かった。それなのにこんなに長期間に渡って会うことがないという事に、辰伶は作為的なものを感じるのだ。

「俺は、何かほたるを怒らせるようなことをしただろうか…」

 ほたるは剣の修行に夢中なのだ。そう思いたい。そう、思えたら…


 俺…もうダメかも…

 ほたるは膝をつき倒れそうになる身体を、地面に剣を突き立てて支えた。息が上がり、汗が伝って雫となって落ちる。

「この程度でへばってんのかよ。螢惑」
「……」
「てめえが焦る気持ちは解かるけどよ、今は剣に集中しろ。妖魔への憎しみは原動力にはなるだろうが、過ぎれば雑念になる」
「……」
「おい、さっきから何をブツブツ言ってやがんだ?」
「…れいの………たい」
「ああ?」

 遊庵は耳を寄せ、抑揚無く垂れ流され続ける呟きを拾う。それを聞き取った遊庵はがっくりと頭を垂れて脱力した。

「辰伶の顔が見たい…辰伶の顔が見たい…辰伶の顔が見たい…」
「雑念だらけじゃねえかっ! やる気あんのかぁっ」
「辰伶の顔が見たいっ!」

 もう1週間も、ほたるは辰伶と顔を合わせていない。辰伶が感じた通り、ほたるは辰伶を避けていた。勿論、嫌いだから避けているわけではない。先日、遊庵に言われたことが、ほたるの心で蟠りとなっていたからだ。

「そんなに見たけりゃ…」

 遊庵は真剣をほたるに振り下ろした。

「見てくりゃいいだろっ」

 ほたるは顔もあげずに遊庵の剣を弾く。跳び退って対峙する。

「辰伶の…」

 大振りなほたるの攻撃を、遊庵は最小限の動作でかわす。

「顔が見たいっ」

 かわされた剣の勢いを止めない。そのまま身を1回転させる…と見せてその軌跡を捻じ曲げた。

「辰伶のっ」

 直線に突く。

「声が聴きたいっ」

 打ち下ろす。

「どーせなら…」

 薙ぎ払う。型も何もあったものではない。しかしその動きは不思議に無駄が無い。

「どーせならっ、触りたいっ」
「バカくせえ掛け声はやめろっ。こっちの気が抜ける!」

 弟子の攻撃をかわしながら遊庵は思った。こいつより先に、自分の方がダメになりそうだ。

「辰伶の顔がっ…」
「雑念を捨てろっつってんだろっ。師匠の言うことを聞けえっ。このクソ弟子がーっ」

 ああ…修行にならない。


 こんなに雑念だらけでは修行の意味が無いと、ほたるは早々に遊庵に追い返された。掛け声がエスカレートして十八歳未満が聞いてはいけない単語を叫ばれたらやばいというのが遊庵の本音だ。

 午後3時。ここのところ、辰伶に会わないために夜遅くに帰っていたから、こんな時間では早すぎてしまって、ほたるは途方に暮れた。街の中を特にあてもなくうろついていようか。ほたるは溜息をついた。そんなのは疲れるだけだ。気が進まない。何もしたくない。家に帰って寝たい。眠ってしまいたい。

 ほたるは裏門から帰宅し、離れ屋の自室へと戻った。ほたるはいつも裏門を使っているから、今日もいつも通りにしただけだ。別にコソコソしているわけではないと、自分に言い聞かせる。

 自室の扉を開けて、ほたるは立ち尽くした。ほたるの部屋の、ほたるの勉強机に凭れ伏して、辰伶が眠っていた。

「何で…辰伶が」

 辰伶の睫が微かに震え、その瞼がゆっくりと開いた。気怠げに前髪を書き上げながら顔をあげた。そして入口で立っているほたるに気付いた。

「ほたるがいる…」

 辰伶には珍しい芯の無い声。まだ寝ぼけているのだろうか。ほたるは辰伶の傍らに立ち、辰伶の顔を覗き込むように机に手を突いた。

「何してるの。俺の部屋で」
「お前の部屋…?」

 のんびりとした動作で周囲を見回す。卒然として覚醒し、辰伶は慌てて椅子を立った。

「すまない。勝手したな」
「いいけど。何か用?」
「特に用というわけでは…」

 途中で口篭り、決まり悪そうに視線をそこここへと泳がす。ほたるは目を眇めた。

「そう。だったら出てってよ。俺、これから昼寝するから、邪魔しないでよね」
「…悪かった」

 辰伶はほたるの横をすり抜け、出口の扉の前まで行くと、そこで足を止めた。搾り出すような声で呟く。

「何故だ…」

 振り向いて叫ぶ。

「何故、俺を避ける。お前は俺の何が気に入らないんだ」
「別に避けてなんて…」

 ほたるを真っ直ぐに、辰伶の瞳が見据える。その真摯な光に、ほたるは言葉を繋げなくなる。

「自惚れを承知で聞くが、俺の為か?」
「え…?」
「俺の強運がお前を守り、その為に俺が危機に曝されることになると、遊庵様が仰ったせいか?」

 驚愕にほたるの目が大きく見開かれる。

「聴いてたの?」
「偶然、扉の外でな」

 ストンと垂直に落ちるように、ほたるは椅子に腰を下ろした。ほたるは一度視線を床に落とし、次に顔を上げた時にはその瞳に感情の色は無かった。

「あんな話、信じたの? 根拠なんて何にも無いのに。ゆんゆんが勝手に想像しただけの…」
「この話を聞かされたのは、この間が初めてじゃない。吹雪様からも同じようなことをご忠告頂いた。もう、何年も前に」

 ほたるが辰伶と共に吹雪と会い見えたのは過去に1度だけ。ほたるが初めてこの屋敷に来た時のことだ。あのたった1度で、吹雪には見抜かれていた。そして、そんな何年も前から承知で、辰伶はほたるの傍にいたのだ。

「それで、お前に災難が降りかからないように、俺が敢て避けてるって? おめでたいね。俺はゆんゆんとの修行が面白くて、最近はそれに夢中だっただけだよ。辰伶のことなんて、思い出しもしなかった」

 殊更冷たく突き放した口調で、ほたるは言った。それに対して辰伶は、ほたるの予想外の反応を示した。雲間から太陽が覗くように明るく、彼は微笑んだのだ。

「ならば良い」

 辰伶の瞳は真っ直ぐにほたるを見つめる。そして声は幸福感が溢れて、ほたるを柔らかく虜にする。

「俺の強運がお前を守るというなら、これはもともとお前と分け合うために、俺に与えられたものだと思う。それはつまり、俺とお前と、2人で困難を乗り越えてゆけということじゃないだろうか」
「……」
「俺はその為に生まれてきたような気さえする」

 辰伶の言葉が、微笑みが、ほたるの心を激しく震わせる。

「…そんな優しいこと、言わないでよ」
「俺たちは、たった2人きりの兄弟だろう?」
「言わないでよっ。俺は、お前のこと兄弟だなんて、1度だって思ったことないよっ」
「…っ」

 息を呑む音。ほたるは我に返った。辰伶の顔が見る見る蒼白になっていく。

「あ…」

 辰伶はよろめくようにして、開けっ放しのドアに凭れかかり項垂れた。

「そうだったな。お前が俺を兄と認めなければならない義理はない。お前が何も言わないのをいいことに、俺の父母がお前達母子にしたことを忘れて、俺がお前の母を死なせてしまったことさえ忘れて、ただお前の優しさに甘えていた」
「ちがっ…」

 それは違う。誤解だ。ほたるが辰伶を兄弟と思えなかったのは、思いたくなかったのはそんな理由ではない。

「それでもいい。俺のことを憎んでいるなら、それならいっその事、俺を利用してくれ。罪滅ぼしと思ってくれてもいい。お前になら、何でもやる。俺にお前を守らせて欲し…」

 ほたるは力いっぱい机を殴りつけた。その音に驚いて、辰伶は沈黙した。

「辰伶…知ってた? 俺がお前のこと、どう思ってるか」

 ふらりと立ち上がる。天井から糸に吊られた人形のように、ほたるはゆらりゆらりと辰伶に近づいて行く。その様子に、辰伶は恐怖に似たものを感じて身動ぎ1つできなかった。

「何でもやるなんて、そんなこと気安く言うんじゃないよ。俺がお前から何を欲しがってるか解かってる? 解かってないでしょ。解かってないからそんなこと言えるんだよ」

 辰伶の胸倉を掴み、強引に引き寄せる。不意の行動に驚いて薄く開いた辰伶の唇に、口付け深く貪る。長い口付け。息苦しさに辰伶が眉根を寄せる。酸素が足りない。頭に血が昇る。

「知らないでしょ、俺のこんな気持ち」

 解放したほたるも、解放された辰伶も呼吸が荒かった。

「俺がお前のこと、どんな風に好きかなんて、考えたこともないんでしょ」

 先に冷静さを取り戻したのは辰伶だった。いや、冷静に戻ったように見えただけかもしれない。辰伶はほたるから視線を外さぬまま後退り、静かにドアを閉めた。

 ほたるはぼんやりとした風情でドアから離れ、椅子に力なく腰を下ろした。窓の外を見ると、日が傾きかけていた。

「あーあ、言っちゃった…」

 悲しくはない。苦しくもない。心は痛みなんて全然感じていないのに、何故だろうか、窓ガラスに写った顔は、虚ろな涙を流していた。


 おわり

 やっと真ん中。まだ先は長いです。後半は坂道を転がるようにシリアスが続きます。

(05/11/8)