12.刀
水も滴るイイ漢…といえば聞こえが良いのだが。
つまりはずぶ濡れの3人組である。その内訳といえば、1人は車に泥水を跳ねられ、1人は喫茶店で傘を盗まれ、1人は遊庵であるというのだから、全く恰好がつかないことこの上ない。
「…何か腑に落ちねえナレーションが聞こえなかったか」
「え? 何か聞こえた?」
遊庵は隣の傘を横目で見て、溜息と共に目を逸らす。水を跳ねられた異母弟・ほたると、傘を盗まれた異母兄・辰伶。弟は兄へと傘を差しかけ、1つの傘に身を寄せ合っている。
「螢惑、あんまり浮かれて、水溜りに填まるんじゃねえぞ」
見た目には判りにくいが、ほたるは明らかに浮かれていた。兄弟で相合傘して何かいいことあるのかと言おうとしてやめた。辰伶に恋心を抱くほたるには至福の時間に違いない。遊庵は再び溜息をついた。
「てめーがそれでいいなら、いいけどな」
遊庵の呟きを耳にして、辰伶はふと心づいた。
「ああ。気付きませんでした」
辰伶はほたるの手から傘を取った。
「俺が持つべきだったな。俺の方が身長があるから」
そういう意味ではないのだが。弟子が天然であることは知っていたが、その異母兄にも確かに同じ血が流れていることを、遊庵は(別に確認したくはなかったが)確認してしまった。
傘は心持ちほたるの側に傾けられている。後ろから見れば、まるっきり仲睦まじい恋人同士だ。処置なしである。
辰伶はほたるのことをどう思っているのだろうか。辰伶がほたるを大事にしているのは明らかだが、それはどのような想いに根ざしたものだろうか。ほたるが傷つくようなものでなければいいと、遊庵は願った。
妖魔退治の結果、ずぶ濡れになってしまった3人である。ほたると遊庵は当初の目的を果たせず、辰伶は当初の予定とは多少違ったものの用件は済んだので、帰途に着いた。風邪をひいてはいけないからと、辰伶は遊庵に風呂と着替えを勧めた。遊庵には母屋の浴室を貸し、ほたるは離れ屋のを使って身体を温めた。現在は離れ屋のリビングで、辰伶が風呂から出るのを2人は待っている。
ふと、ほたるは気付いた。遊庵は単衣の着物を着ていたが、それに見覚えがあるような気がする。
「ゆんゆん、その着物…」
「おう、服が乾くまでって、辰伶が貸してくれたんだけどよ。中々粋な柄だな。結構、似合うだろ」
「……」
「何だ? 俺に惚れたか?」
「オヤジ発言は聞きたくない。それに、辰伶の方が似合ってた」
「へえ、やっぱりあいつのか。さすが、日本舞踊やってるだけあって、着付けが上手いよな」
ほたるは片眉をピクリと動かした。
「辰伶が着せ付けたの? 着物」
「着物の着方なんて知らねえもん。帯の締め方も知らねえし。テキトーに着たら即行で直されたぜ。…おい、何か機嫌悪くねえか?」
ほたるはソファの上で片膝を立てると、それに肘をついて遊庵を見据えた。
「別に。ゆんゆんが辰伶の着物着てることとか、ゆんゆんの着替えを辰伶が手伝ったとか、全然気にしてないから」
「めちゃめちゃ気にしてるじゃねえか」
「ゆんゆんなんかの世話焼いて、辰伶はゆんゆんの奥さんじゃないのにとか、全然思ってないから」
「んな、トチ狂ったこと、しっかり思ってんじゃねえか」
「辰伶とゆんゆんの仲を勘繰るなんて、俺、そこまで落ちぶれてないから」
「…って、言ってることと、態度が全然違うじゃねえか! おい、ヤメロ!」
◇
◇
◇
風呂から上がり、リビングの扉を開けた辰伶は、目の前の光景に立ち尽くした。
「一体、何をしているんだ」
ほたるが遊庵をソファに押し付けて、遊庵から辰伶の着物を引き剥がそうとしていた。
「ゆんゆんの背中にゴキブリが入っちゃったみたいだから」
しれっと嘘をつく。力いっぱい抵抗していた遊庵だったが、愛弟子の言葉の前に撃沈した。
「…もう、どーにでもして」
勿論、ゴキブリは発見されなかった。
腹が減ったと呟いたのが遊庵で、それに呼応したのがほたるで、その時、辰伶はピザの気分だった。そういうわけで、3人でデリバリのピザを囲んでいる。辰伶はビールを手に、遊庵に訊いた。
「遊庵様、お注ぎしましょうか?」
「そう気ぃつかうなって。勝手にやるからよ」
てめえにそういうことさせると、こえー目で睨む奴がいるんだよなあ。遊庵はチラリとほたるを見る。
『坊主憎けりゃ袈裟まで…』なんて言葉もあるが、ほたるの場合は『異母兄恋しければ着物まで恋しい』らしい。もう少しで遊庵は身包みを剥がされるところだった。ほたるの暴挙によって着物は滅茶苦茶に着崩れてしまったので、辰伶は改めて遊庵の着物を直すこととなった。遊庵の言った通り、辰伶は本当に人に着せ付けるのが上手かった。立ち膝でかいがいしく遊庵の帯を締める辰伶を、ほたるは恨めしく見つめていたのだった。
どうかしている。ほたるは内心で自嘲した。遊庵と辰伶の間には色めいた関係など何もないことは解かっている。仮にあったとしても、辰伶の恋人でもなんでもない自分には何を言う権利も無い。そんなことは、ほたるも承知していた。…解かっていた筈だった。
辰伶が歳世の傘の下にいるのを見た時にも、ほたるは言い知れない痛みを胸に感じた。それは全く制御不可能な心の動きだった。その想いの強さは、もう少しで辰伶に危害を加えるところだったのだ。
解かっていると思っていたのに、何も解かっていなかった。恋の苦しみなんて、時間が経てば、いつか慣れてしまうと思っていた。それが全く浅はかな考えであったことを、ほたるは知った。時を重ねれば重ねるほどに想いは募り、最近では気持ちを抑えることに自信がなくなってきた。
「ところで、ほたる。今日は遊庵様と何処へ行っていたんだ?」
「ええと…」
辰伶の問いに、ほたるは詰まった。そういえば何しに行ったのだろう。ジェットに力を喰わせている為に、能力を十分に発揮できないほたるの助けとなる何かを、遊庵が紹介してくれるはずだったのだ。ほたるには説明できなかった。何故なら、結局目的を果たせなかったし、ジェットのことは辰伶には秘密だったから。
「俺の弟子にしちゃあ出来の悪いこいつに、武器の1つでも持たせてやろうと思ってな」
横から遊庵が答えた。
「俺にはロクデナシのオヤジがいるんだけどよ、鍼師の傍ら刀匠なんてしてる変わりもんで、…いや、刀匠の傍ら鍼師か? まあ、どっちが本業かしらねえが、一応、どっちの腕も一流だ。自称だけどな。そんで今日、オヤジの工房に訪ねてみたんだがよ、あの野郎、腰を痛めて入院中で留守だったのさ。鍼師なら、自分の腰痛くらい治してみやがれっつんだ」
「そうだったんだ」
なるほど。武器の存在によって、ほたるの戦闘能力を補助し、強化しようという訳だ。この師にしてはまともなことを考えていたのだと、弟子のほたるは珍しく感心した。
「刀ですか…」
辰伶は少し考え込むような仕草をした。
「もしかしたら、あれはほたるの為のものかも…」
「あれって?」
「蔵の中に、刀が一振りある。父上の父上、つまり俺たちの祖父が購入したものだと聞いた。…現物を見てみないことには始まらんな。取って来よう」
辰伶は立ち上がり、リビングを出て行った。ドアを閉める音を最後に、部屋はシンとする。しばしの静寂。それを遊庵が破った。
「あいつ、強えな」
「え?」
「今日のことで確信した。辰伶は、ありゃ、相当の強運の持ち主だぜ。あいつの意識とは関係なしに、凶事から身を守る力が働く。妖魔の攻撃を受けた時に、たまたま愛用の扇子を持っていて、それが身代わりになって助かるなんて、世の中そんなに巧くできちゃいねえんだよ。あいつが今日、扇子を持っていたのは、あいつの防衛本能みたいなもんさ。それから、気をつけるんだな。てめーはあいつの…」
その時ドアが開いて、遊庵の話は中断された。辰伶が刀を持って戻ってきた。
「ほたる、この刀だ」
錦の刀袋の紐を解く。刀は白鞘に収められていた。通常、刀の保管時には白鞘を用いる。拵えの鞘では刀が錆び易いし、また刀の錆び防止に塗られた油が鞘の塗装の漆を損なってしまうからだ。そして拵えの方にはツナギの竹光を収めて保管するのである。
白鞘を払うと豪壮な刀身が姿を現した。遊庵は唸り声を上げた。
「こりゃあ…いい刀だな」
「現代刀ですが、試し斬りで大業物の評価を得ています。拵えも合わせて誂えてあります」
拵えを披露する。拵えは半太刀で、装飾は少なくシンプルだ。鑑賞よりも実戦を思わせる刀装だ。
辰伶は拭い紙で刀身の古い油を拭き取る作業を始めた。その手馴れた様子に、ほたるは辰伶に訊ねた。
「この刀、辰伶が使ってたの?」
「いや、定期的に手入れをしているだけだ。俺とこの刀は相性が悪いからな」
「相性?」
「この刀は火の気を帯びている。俺は水を操る水派の行者だったから、互いに力を殺ぎ合ってしまう」
ならば、火を召喚するほたるにはうってつけの刀だ。
「これを打ったのは、その頃はまだあまり名の知られていなかった刀工で、しかし祖父はまだ年若いその刀工の腕に惚れこんで、彼の作品を手に入れる為に何年も通いつめたと聞いた」
辰伶はハバキも取り外し、中心(なかご)とハバキ下の部分の油も丁寧に拭いた。
「その刀工は少し変わった基準で、客に刀を売るか売らないか決めるらしい。彼の刀は、刀に選択権があるのだそうだ」
「意味が解かんないんだけど」
「刀自身が持ち主を決めるそうだ。だから祖父が何度通っても、どれだけ高額の代金を示そうとも、頑として首を縦に振らなかった」
遊庵は口笛を吹いた。
「うちのオヤジ並みの頑固ヤロウだな」
刀を一たん白鞘に戻し、中心を見て辰伶は言った。
「銘は…『寿里庵』ですね。知った名ですか?」
「……」
遊庵は無言で中心に刻まれた父親の名を見詰めた。
「それがある日、刀工の方から祖父を訪ねてきて、この刀を祖父に引き渡したそうだ。これが祖父の家、つまりこの家に行きたがったというのだ。しかし先にも言った通り、これは火の属性をもつ刀だ。家は代々、水の技を伝える家系だから誰も使えない。不思議なことと思いながら、今日まで大切に仕舞われていたのだ」
拵えを完全にして、辰伶はほたるに刀を差し出した。
「この刀は、お前の手に渡るために、この家に来たのかもしれない」
ほたるは刀を受け取った。初めて手にした刀は、想像よりも重かった。静かに鞘を払うと、勇壮な白刃に冴え冴えと光が走った。
日本刀は刃物の究極に完成された形と言われる。機能としての優秀さのみならず、その姿形の美しさは芸術の域である。精神性を備えた武器。それが刀だ。
普段より少し低い調子で、遊庵が言った。
「刀は美術品じゃねえ。大切なものを守る為だの、武人の魂だの、そこにどんな価値観があろうと、本質は人殺しの為に作られた道具だ」
その言葉を、ほたると辰伶は無言で聴いていた。
「だからこそ、刀はてめえの生き様と思え。扱い方は、これから俺が教えてやる」
ほたるは遊庵の眼を真っ直ぐに見つめた。全ての刀はその所持者の心を知るという。しかし人がその所有する刀の心を知るのは稀だという。刀を理解する者に、刀は応える。
「この刀が、俺を選んだ。…俺がこの世に生まれる前から、俺を待っていた」
この想いは到底言葉では説明できない。だからほたるは言葉にせず決意した。自分がこの刀の主たるに相応しいことを、この生き様で証明してみせる、と。
辰伶は母屋へ帰って行った。これから刀の登録証を探して名義変更の為の書類を書くのだそうだ。明日には役所に届けを出すつもりらしい。几帳面な漢である。遊庵と2人だけになったところで、ほたるは訊いた。
「ねえ、さっき、何を言おうとしたの?」
「あ? 何か言ったか?」
「辰伶のことで、何か俺に気をつけろって言ったじゃない」
「あれか…」
遊庵はソファに深く凭れ、心持ち天井を仰いだ。テーブルには空になったピザの箱が放置されていた。
「相性ってのは、あるもんだな…」
「何が言いたいの?」
「てめーと辰伶の相性は、てめーにとっては吉だが、あいつには最悪だ。…おっと、恐い顔して睨むんじゃねえ。冗談とか嫌がらせで言ってんじゃねえんだ。真面目に話してんだから、黙って聴け」
缶の底に少しだけ残っていたビールを、遊庵は乾した。すっかり生温くなって酷い味だ。
「てめーはあいつと居れば、あいつの強運に守られる。だがその分、あいつは危険に曝される。てめーが好む、好まないに係わらず、てめーはあいつの強運を殺いで自分の物にしちまうんだ」
「そんなことって…」
ほたるは愕然とした。信じられないと思ったが、しかしどこかでほたるは心当たりがあるような気がした。辰伶の左手の痣は、本当ならほたるが被っていたはずだった。今日のことも、元はといえばほたるが招いてしまった災厄だった。辰伶が命を落とさなかったのは、たまたま運が良かったからだ。遊庵の言うとおり、強運に守られていたから。
「てめーに付き纏ってる妖魔も、その辺に狙いがあるのかもな」
遊庵の推測が正しいとしたら、それが事実だとしたら…
「俺は…辰伶の傍に居ることさえ、許されないの?」
「そいつはてめーと辰伶で決めな。俺の口出しするこっちゃねえ」
ほたると辰伶を引き離そうなどと、遊庵は思わない。ただ、可愛い弟子が傷ついたり後悔したりする様は見たくないと思う。
その為にしてやれることなど、殆ど何も無いのだという現実を、遊庵は苦々しく噛み潰した。
おわり
念の為に、刀の用語を註釈します。
白鞘=刀の保管用の鞘。朴の木などで作られる。用途、その理由は作中の通り。
拵え(こしらえ)=刀の外装。鞘、柄、鍔など。
半太刀(半太刀拵)=拵えの様式の1つ。
ツナギ=刀を白鞘に入れたときに、拵えの柄と鞘を繋ぐため為の竹光。
竹光=刀の形をした木製の刀。
現代刀=明治(初期を除く)以降に、昔のままの鍛錬法で作成された刀
大業物=試し切りの結果による刀の斬れ味の評価。斬れ味の優れたものを「業物」と呼び、その中でも「最上大業物」、「大業物」など、幾つかの段階に分かれてランクがある。
ハバキ=刀が鞘からうっかり抜けない為に付ける金具。
中心(なかご)=茎とも書く。刀の握りの部分。柄の中に入っている。
銘=製作者の名前。中心に刻まれている。
(05/11/1)