11.下駄


 闇の中に、妖魔は居た。妖魔の足下、真の闇の中に一部だけぼんやりと光明がある。それを辰伶と同じ姿をした妖魔は見下ろしている。

「あいつの強運には、ほとほと手を焼く」

 光明はまるでスクリーンのように、映像を映している。
 並んで歩くほたると遊庵。
 そして、辰伶。

「思い通りにならんからこそ、ゲームは面白いというが…」

 ゲームの下準備は調っている。ほたるも辰伶も妖魔の用意した盤の上にとっくに乗せられている。それなのに、ゲーム自体が始まらない。

「これではつまらんな。何か退屈凌ぎが欲しいところだ」

 妖魔は一揃いの下駄を手にしていた。片方を光明の中へ放り込む。そして残った片方は、鼻緒をナイフで切って、やはり光明の中へ放り込んだ。

「螢惑…」

 映像のほたるに、妖魔は愛しげに視線を注ぐ。

「知っているか? お前が、俺の運命を握っているんだ」

 辰伶と同じ声で、辰伶のように呟いた。


 乱暴な運転だなあ。そう思いながら、ほたるは前方から走ってくる車をやり過ごす為に路肩に寄った。車は殆どスピードを落とさずにほたると擦れ違い、ついでとばかりに水溜りを派手に跳ね上げた。傘を差してはいたものの、殆ど真横からの水飛沫を防げるものではない。ほぼ全身に水を被ったほたるは、眉間に大きな縦皺を作った。

「…あの車、燃やす」
「てめーが鈍くせえのが悪いんだろが」

 立ち位置の差で難を逃れた遊庵が、ずぶ濡れのほたるを指さして嘲笑う。

 その界隈は、通称「職人横丁」と呼ばれている。古き良き伝統の技を今に伝える数少ない職人達の工房が、そこだけは時間に取り残されたように、今も多く並んでいるからだ。もともと広くもない通りが、買い付けの問屋の車や、その道を知る通人達、或いはガイドブックの軽薄な紹介から興味を抱いた観光客などで、雑多な印象がある。

 その日は雨だったので、休日の割りに人出は多くなかった。人々は傘を差し、少し急ぎ足だ。ほたるとその師匠である遊庵も、その褪せたアスファルトの道を傘を差しながら、並んで歩いていた。

「あの、良かったらどうぞ」

 見知らぬ少女がほたるにハンカチを差し出した。たまたまそこに居合わせた数人の高校生の少女達の内の1人だ。

「ありがと。これ、どうやって返せばいい?」
「いいです。持ってって。捨てちゃっていいです」

 それだけ言うと、少女は仲間達と行ってしまった。少女達独特の甲高い談笑の声は雨の中にあっても賑やかだ。

 髪や顔から落ちる雫を拭き取ると、ハンカチはもう水を吸ってぐっしょりだ。それを服のポケットにしまうのは嫌だったので、傘の柄に縛りつけた。傘の柄でピンクの布切れがゆらゆらと揺れて可愛らしい。

「雨はやだなあ」

 炎を召喚する特殊能力を持つせいか、ほたるは水が嫌いだ。髪も服も湿気で重くなるような気がするし、靴もじめじめして不快でしょうがない。

「全くだ。こんな日に外出なんてするもんじゃねえ」

 ほたるの呟きに、遊庵も同意した。

「ゆんゆんが誘ったんじゃない」
「あーそーだけどよ、雨降ってんのは俺の所為じゃねえ」
「そう? 日頃の行いのせいじゃないの?」
「バカ言え。俺ほど行いの正しい、心の澄んだ立派な人格者はこの世に居ねえぞ」
「ゆんゆんが「人格者」の基準なら、確かに居ないね」
「あ? 喧嘩売ってんのかよ」
「売ってもいいけど、買うだけのお金あるの? ご飯、ちゃんと食べてる?」
「悪かったな! どーせ、給料日前だよ! つか、てめーが真面目に仕事しねーから、監督不行き届きって、減棒くらっちまったんだ! 畜生! ひしぎの野郎、経費削減が目的なんだろうが、何かと口実つけちゃ俺の給料差っ引いてんじゃねえよ!」

 どうやら同格であるはずの太四老の中でも、微妙な力関係は存在するらしい。恐らくこの師匠は太四老の中では、戦闘能力においてはともかく、立場的に下っ端なのだろうと、ほたるは冷ややかに分析していた。実際のところ、太四老の長である村正をはじめ吹雪やひしぎに比べ遊庵は幾分か年若く、年長組には実務上の駆け引きの点で敵わなかった。

「ったく、誰の為にこうして雨の中歩いてると思ってんだ。螢惑、てめーが化猫なんぞに力を食わせて、半分も実力が出せねえからじゃねえか。そのせいでろくに仕事もこなせねえとは、情けねえったらありゃしねえ」

 ほたるがろくに仕事をしないのは、単に怠け者だからなのだが。

「その状態だってな、もうちっとマシな技を使える方法はあるんだ。いいか。知らねえってことは、それだけで弱いんだよ。強くなりてえなら、周りにあるもの全部利用しろ。もっと必死に、我武者羅になれよ。遊んでんじゃねえぞ」

 一気に捲くし立てると、遊庵は溜息をついた。

「何で一言相談しねえんだよ」
「……」
「それが、一番情けねえんだ」
「…ごめん」

 いつになく殊勝な様子をみせるほたるに、遊庵はもう1つ溜息をついた。ほたるは困ったことがあっても他人に助けを求めないところがある。弟子のそういう強情な性癖のことは把握していたが、それでも今更ながらに思い知らされた気分だ。

 遊庵は辰伶に飼われている猫が只者でないことは知っていた。しかしほたるが長年、それに餌として己の力を与えていたとは、昨日まで全く知らなかった。あの妖魔のことについてもだ。ほたるが何か厄介ごとを抱えているらしいことは気付いていたが、ほたるが何か言ってくるまで傍観を決め込んでいた。結局、ほたるは最後まで相談1つ持ちかけようとしなかった。

 昨夜対面した妖魔を、遊庵は思い出す。その妖魔は強力であり、またそれ以上にその性格に危険なものを感じた。辰伶とも関わりがあるらしいというのが、また良くない。

 遊庵はほたるの辰伶に対する気持ちを知っていた。社会的に、道徳的にどうかと思わないでもなかったが、その程度の常識はとっくに飛び越えて、一途に異母兄を恋慕する姿に、遊庵は応援こそしないものの、頭ごなしに否定もしなかった。言って翻す程度の気持ちなら、むしろそれをネタにからかってやるところだ。

 しかし、その辰伶に対する想いの強さが、この妖魔と対峙するのにマイナスに働いているのだとしたら、黙って見過ごすわけにはいかない。こうみえても遊庵は、長年面倒見てきた弟子が可愛かった。

「…つってもよお、馬には蹴られたくねえしなあ…」


 雨の中、ダークグリーンの傘を差して歩く辰伶を、既知の声が呼び止めた。

「辰伶ではないか」

 雨音を貫いて届いた声に振り返る。

「歳世」

 地下鉄の出入り口の屋根の下、ネイビー・ブルーに白い縁取りの傘が開いた。その中から顔を覗かせた歳世は親しげな笑みを浮かべ、真っ直ぐ辰伶に向かって歩道に踏み出した。

 歳世は辰伶の友人で、かつては同じ高校に通っていた。学年は1つ上だが、辰伶は留年しているので年齢的には同年である。壬生一族同士として辰伶が幼い頃から見知っていた歳子の、彼女は親友だ。そういう縁で知り合った。歳世も壬生一族の1人だ。

「こんなところで逢うとは、奇遇だな」

 歳世のきびきびとした口調は、辰伶の耳に好ましく響く。歳子と歳世は親友だが、性格は全く似ていない。軽薄で騒々しい歳子には少々辟易している辰伶だが、歳世とは気が合う。辰伶と歳世は並んで歩き出した。

「雨続きで家にばかり居たから、気分転換に外に出てみたが、やはり雨の日に外出などするものではないな」
「そうだな。私も買い物に出てみたはいいが、どこへ行っても傘が邪魔で。ゆっくり商品を見る気になれなくなって、結局何も買わずに帰ってきてしまった」

 歳世は傘の下からそっと辰伶を伺った。辰伶の眼差しは正面だけを見つめて歳世と会話を続けている。時々、足元の水溜りに注意が向けられるだけだ。歳世は小さく苦笑した。

「辰伶、もし時間があるなら、お茶でもどうだ?」
「そうだな。別に急いでいるわけでもないし」


 遊庵は1軒の工房の奥へと遠慮なく踏み込んでいった。ほたるは表で傘をさしたまま、路上にしゃがみ込んでカエルと睨みあっていた。カエルはくるりと背中を向け、道の反対側の端へと跳ねていった。それを目で追っていくと、人の足が視界に入った。片足には下駄を履き、片足は裸足である。視線を上げると着物姿の女が、この雨の中を傘もささずに佇んでいた。

「おばさん、何してんの?」

 話しかけて、ほたるは「しまった」と後悔した。まともな人間であるはずがない。こういう手合いには不用意に係わるべきではないのだ。女はほたるに微笑みかけた。

「歩かれんようになってしまいましてなあ…」

 女は足に怪我でもしているのだろうか。見た目には判らない。

「ねえ、君。頼まれてくれんかしらね。この下駄を、この先の履物屋で直してもらってきて欲しいのよ」

 下駄は鼻緒が切れていた。だから歩けないのかと、ほたるは納得した。

「やだ。めんどくさい」
「そう。じゃあ…」

 女はほたるの傘の柄に縛り付けられているハンカチを指して言った。

「その布切れをおくれでないか?」
「あんたにあげるものなんて…」

 あげるものなどないと言おうとしたところで、結び目が緩かったのだろうか、ハンカチが解けて女の足元に落ちた。女はさっと拾い上げると、それを使って鼻緒を直してしまった。

「ありがとう、君。何かお礼をしなくちゃね」

 ああ、ヘンなのに見込まれてしまった。ほたるは憂鬱になった。それもこれも、みんな雨の所為だ。雨が悪い。

 ゆんゆんの日頃の行いが悪いのが悪い!


 外が雨のせいか時間的にか、喫茶店の中は客で賑わっていた。窓際のテーブルで辰伶と歳世はコーヒーを傍らに置いて、静かに談笑していた。

「稽古用に長年愛用していたものだから、寺で供養して貰おうと思ってな」

 辰伶は歳世に1面の舞扇を見せた。よく使い込まれたらしく、破れてしまっている箇所もある。辰伶は幼い頃から舞を嗜み、それは個人的な趣味を超えて名手と賞賛されるほどだった。何度か舞台に立ったこともあったが、手に痣を負ってからは、人前で舞うことは無くなった。

「舞は続けているのか?」
「観客を前にして舞台に立つことはできんが、稽古だけは続けている。…これだけはやめられそうにない」
「好きなのだな。舞うことが」
「ああ」
「続けていてくれて嬉しい。私は貴方の舞が好きだから」

 私は貴方が好きだから。歳世は秘めた想いを言葉の内に隠す。届かなくてもいい。気付かれなくてもいい。辰伶の想人が自分でなくても、辰伶が幸せならいい。

「螢惑とは…うまくいっているか?」
「うまく?…そうだな。うまくやれていると思う。最初は異母兄弟なんて、どう接したものかと思ったが、あいつと一緒に暮らしだしてもう何年になるだろうか。ほたるは、ああみえて思いやりのある、優しい奴だ」

 異母弟のことを語る辰伶は仄温かい微笑を浮かべていた。それならいいと、歳世は思った。


 ほたるは仏頂面で、遊庵は浮かない顔で、並んで歩いている。遊庵が訪ねた工房の主が留守だったので、当初の目的を果たせぬまま、虚しく帰路に着いた2人だった。天気は悪く、2人の機嫌も悪い。

「ハネムーンから帰ってきたと思いきや、ぎっくり腰で入院だと。鍼師が聞いて呆れるぜ。つくづく役に立たねえオヤジだな」
「やっぱりゆんゆんの日頃の行いが悪いんじゃない?」
「誰の為だと思ってやがる。それに、あっちはどーみても、てめーが招いた災厄じゃねえか」

 遊庵は振り向くことなく、親指で背後を指した。二人の後ろを、着物姿の女がついてくる。ほたるがハンカチをやった(ことになってしまった)女は、そのお礼をすると言って、それからずっとほたるの後をついてきているのだ。

「変なのに係わるんじゃねえよ」
「それって、ゆんゆんに係わるなってこと?」
「俺もてめーに係わるのやめてえ」

 ふと、ほたるが歩みを止めた。そのまま呆然と突っ立っている。

「何で… どうして…」
「ああ? 何だよ」

 ほたるが見ているものを、遊庵も見た。ネイビー・ブルーの傘。辰伶と歳世が仲良く1つの傘に入って歩いている。

「何で!? あれって、どーゆーこと!?」
「知らねーよ! 俺に訊くなよ」

 女が嗤った。

 辰伶がほたるに気付いた。歳世も気付いてほたるたちを見た。その時、ほたるの背後から、真っ直ぐ辰伶に向かって邪気が矢のように鋭く飛んだ。

「辰伶!」

 パキンと空気が鳴った。突風が吹き抜け、辰伶の手から傘が飛んだ。

「辰伶っ!」

 ほたるは傘を放り出して駆け寄った。忽ち全身ずぶ濡れになる。

「辰伶、大丈夫?」
「ほたる…」

 少しよろめいたものの、辰伶は何事も無かった。逆にほたるが何を取り乱しているのか解からず戸惑っている。

「辰伶、何ともないの?」
「何って、何かあったのか?」
「辰伶、扇だ」

 歳世の指摘に、未だ状況が飲み込めぬまま辰伶は鞄から舞扇を取り出してみた。辰伶が稽古用に使っていたそれは、親骨が無残に折れていた。

「貴方が長年愛用してきたものだ。身代わりになって、災厄を引き受けてくれたんだ」
「……」

 辰伶は無言で折れた扇を見つめていた。歳世は冷え冷えとするような目で、辰伶に邪気を放った女を睨んだ。

「そんな目で睨まれるのは心外だねえ。あたしはハンカチのお礼に、その子の望みを叶えてあげただけなのよ」

 ほたるは憤りに大きく瞳を見開いた。

「彼を誰にも盗られたくない。そうお思いでないか?」
「……」
「盗られるくらいなら…と、思ったでしょう?」
「俺は…」

 ほたるは否定できなかった。辰伶を独占したい。叶わないからこそ、心の底で強く望んでいた。強すぎた想いが、それを望まなかったと言えるだろうか…

「そんなものは詭弁だ。螢惑、妖魔の言葉になど惑わされるな」

 歳世の声が、ほたるの思考を明瞭にさせた。ほたるは歳世を見た。

「妖魔が良く使う手だ。人の願いに歪んだ解釈を加え、願いを叶える振りをして、人を不幸に陥れて喜ぶという下劣な方法だ。お前は辰伶を殺したいなどとは、少しも思っていない。そうだろう」

 ふと、降りかかる雨が止んだ。辰伶がほたるの傘を拾って、ほたるの頭上に差しかけてくれたのだ。

「近くに妖魔がいるのか?」

 能力を封じている辰伶には妖魔の姿は見えない。声も聞こえない。それでもほたるを守るように妖魔に対峙して立つのは、彼の壬生一族としての本能だろうか。その誇り高い横顔を見て、ほたるは本来の自分を取り戻した。

「辰伶が気にするような奴じゃないよ。ただの低級な妖魔だから」
「少々、性質の悪い性格のな」

 ほたる、そして歳世。優れた能力者達が並ぶのに己の不利を感じたか、妖魔はその場から背を向けた。

「おっと」

 しかし、そこにはもう1人の強力な能力者がいた。遊庵が妖魔を逆手に捩じ上げた。

「辰伶、貰うぞ」

 歳世は辰伶の舞扇の骨を一本抜き取った。歳世が得意とする心霊手術の応用である。それをナイフのように閃かせる。扇骨は妖魔の下駄の鼻緒を断ち切り、妖魔は動けなくなった。遊庵が手を放すと、妖魔はその場に崩れ落ちた。

 ほたるは妖魔を冷たく見下した。

「大体あのハンカチ、俺のじゃないんだよね。あんたにハンカチをあげたのは、どっかの知らない子だよ」
「そう。なら、その子にお礼をしなくちゃあね。その子を探すために、この下駄を直しておくれでないか?」
「いーかげんにしてよ…」

 火柱は一瞬で、妖魔は消滅した。後には焼け焦げた下駄が残った。

「ほたる…いや、螢惑。お前に依頼したい」

 辰伶は折れた舞扇をほたるに差し出した。

「これを、お前の炎で供養して欲しい。それから、あの下駄も一緒に」

 焼け焦げた下駄は打ち捨てられ、雨に打たれて転がっている。

「何だか、可哀そうだ」
「……」

 ほたるは無言でそれを叶えた。雨の中、螢惑の炎が舞扇と下駄を送った。


「私はこれで失礼する」
「ああ、歳世。今日は楽しかった」

 歳世は1人傘を差して去っていった。それを見送る辰伶は、ほたるの傘の下に居る。

「ええと…何で辰伶は俺の傘の中に居るの?」
「喫茶店で傘を盗まれてしまってな。お前と行き会って助かった」
「…鈍臭い奴」

 嬉しいくせに。ほたるの隣で遊庵はニヤニヤ笑っていた。



「ゲーム・クリアー」

 ほたる達とは反対側の歩道の街路樹の下。辰伶の顔をした妖魔は小さく拍手を送ると、3人に背を向けた。

 妖魔はダークグリーンの傘を揺らして、人込みに消えて行った。


 おわり

(05/10/25)