05.紅蓮


 まだ夜も明けきらぬ早朝から辰伶は出かけていたらしい。それも全てはこの花の為というのだから、感心というか、物好きというか…

 東廊下から北廊下へのコーナーに設置されている花卓には、大抵は観葉植物の鉢が置かれているのだが、時折、ほたるの異母兄の趣向によって生花に替えられる。今回は土の肌も荒々しく焼き上げられた花器に純白の蓮の花が活けられていた。

「どうだ、ほたる。今回はなかなか良い出来だろう」
「どう…っていわれてもさ…」

 花などに興味の無いほたるは、辰伶に感想を聞かれて困惑した。どこが良くてどこが悪いかなんてさっぱり解からない。

「…おかしいか?」

 辰伶は1歩下がって花のバランスを確認する。何度か首を傾げながら微妙に花の角度を変えてみたりして修正を加える。

「こんな感じか?」
「いいんじゃない?」

 適当に返事をしておく。いいんじゃない?の「いい」は、どうでもいいの「いい」だ。その微妙なニュアンスに辰伶は気づくことなく、満足げに笑みを浮かべた。

「蓮は水揚げが難しいんだ。うまく揚がってくれると良いのだが」

 その為に辰伶は早朝に蓮の花を採集しに行き、水揚げ用のポンプまで使ったのだという。花器に注がれている水も、この蓮の花が咲いていた池の水だ。そういう苦労話を嬉々として語る異母兄をほたるは呆れの混じった目で見つめる。よくよく面倒なことをしたがる奴だと思う。

「せっかく苦労したわりにはさ、どうしてこんなとこに飾るの? 誰も見ないじゃない」

 離れ屋の、しかも殆ど身内しか行き来しない廊下の一角である。見るのはせいぜいほたると掃除に来る使用人くらいだ。

「どうせならもっと目立つところに飾れば? そっち(母屋)の玄関とかさ」
「恥ずかしいじゃないか。あそこには…」
「あ、そうか。たしか何とか流の何とかってセンセイのが飾ってあったね」

 母屋にはそこだけでなく、床の間など数箇所に某流派の家元の作が飾られている。といっても本人が直接立てに来るのは正月など特別な慶事のときだけで、普段は家元が考案したものをその弟子が代理で立てに来る。辰伶も多少は華道の心得があり師範の免許も持っているが、そんな華道の大家の作と並べて競う度胸は無い。

「師範と言っても、俺の場合はただ長く続けて金を使っただけという気がするしな。お前が見てくれればいいさ」
「せっかくだけどさ、俺には鑑賞能力なんてないよ」
「それでもいい。ただ見てくれるだけで」

 ほたるは白蓮に視線を移す。蓮は泥土に育ちながら、汚れに染まらず清廉な花を咲かせる。それはまるで奇跡のように美しい。

 白蓮のような漢だと、ほたるは辰伶のことを思う。純粋な、とても純粋な人。辰伶は決して聖人君子というわけではない。些細なことで怒ることもあるし、たまには他人の悪口くらいは言うし、まるで欲が無いわけでもない。ただ、時々は優しく、意外に情が深く、哀しいくらいに潔い。

 純粋故に一途。
 一途故に強靭。
 強靭故に美しい。

 そして、美しいが故に…

「花のことなんてよくわかんないけどさ、ここ(離れ屋)の玄関に飾るくらいの価値はあると思うよ。多分」
「そこではお前が見ないじゃないか」
「俺に見せたいの? なんで?」

 辰伶はただ曖昧に笑った。彼自身にも明確な理由などないのだろう。

「ところでほたる。いや、螢惑と呼ぼうか。お前に頼みがある」

 螢惑とはほたるの二つ名である。その名で呼ぶということは、妖魔に関することだ。

「何? また辰伶のケータイに依頼があったの?」
「この白蓮は太白の家の庭から貰ってきたのだが、実はその時に頼まれた。太白はお前も良く知っているだろう」
「ああ」

 太白という漢もまた壬生一族の者だ。ほたるも少なからず面識があるが、辰伶の方が親交が深い。優れた武人であり、その人柄も信頼のできる人物だ。

「太白の知人の子供が妖魔に憑かれたらしい。太白の家で預かっているそうだが、お前の力を借りたいと言っていた」
「太白ほどの奴が? なんで?」
「詳しくは聴いて来なかった。俺は、まあこんな状態だからな」

 辰伶はちらりと左手の痣を見て、無理に笑顔をつくった。ほたるはそんな笑い方をする辰伶が苦手だ。胸が締め付けられたように苦しくなる。

 この痣1つの為に、辰伶は壬生一族としての力を封じている。妖魔を見る力も妖魔の声を聞く力も全てだ。妖魔を倒す力が無い以上は、中途半端にそれを見たり聞いたりしてしまう方が危険が多い。迂闊に係わらないように、極力妖魔の話題には触れないようにしている。だから依頼の仲介をするときも、彼がその内容を聞くことは殆ど無い。

「それ、また大きくなった?」
「少しな。だがこの間、吹雪様に施術して頂いたばかりだから、見た目ほど進行していない。おとなしいものだ」

 何でもないかのように坦々と語るから、却ってほたるは辰伶が哀しい。

「依頼受けるよ。今から行けばいい?」
「そうだな。おそらく早いほうが良いだろうと思う。ああ、でも朝食くらいは食べて行け」
「うん」

 辰伶は強い。その強さは彼の脆さを包み隠してしまう。でも、そんな強さは美しいけれど哀しい。

 ほたるは辰伶の能力を見たことは無かった。しかし彼が相当な能力者であったことは想像に難くない。聞くところによれば、辰伶の師は太四老の吹雪であるということだ。それだけでも辰伶が優秀な壬生の戦士であったことは容易に解かる。

 吹雪という人物をほたるは何回か見たことがある。ほたるの師と同じ太四老というが、遊庵とは全く違う印象だった。冗談も言わなければ、にこりともしないような、隙のない人物だ。一目見て「エラソーな奴だ」とほたるは思った。こんなのと一緒に居たら息が詰まる。

 ほたるには徹底して苦手な人物なのだが、辰伶にとっては尊敬し憧れてやまない師匠だ。吹雪も辰伶を特に目を掛けていたということだから、その指導は非常に厳しいものだったはずだ。辰伶のことだから、サボるとか手を抜くなどということはなく、真面目に吹雪の教えを受けてきたことだろう。吹雪の愛弟子と呼ばれることが、辰伶にとっては何よりも嬉しい評価だったというのだから。

 そこまでして得た力を封じて、これまでの努力を無にしてしまうことが、辰伶にとってどれほど悔しいことであっただろう。それまでの人生を否定するのと同じなのだ。そして自分が諦めざるを得なかった妖魔退治の道を悠然とゆく異母弟の傍らにあって、どれほど歯がゆい思いをしていることだろう。

 辰伶はそれらの葛藤を全て胸にしまい込み、穏やかだけど無味乾燥な日常に埋没していこうとしている。そんな異母兄の姿は見ていて辛い。酷くやるせない。

 こんなに近くにいる辰伶が、ほたるには言い知れなく遠くに感じられた。


 夏だというのにその部屋はファンヒーターが焚かれ、異常な熱気になっていた。普通の人間なら1分と耐えられない環境だ。その子供はその中で何枚もの布団や毛布に包まって、身を小さくして凍えていた。目は虚ろで歯はカチカチと始終小さく鳴っている。まるで八寒地獄の亡者のようだ。

「この子、寒いの?」

 ほたるは隣の太白に訊ねた。

「そうだ。これだけ温めても、この子の身体は凍えきっている。この子の感覚がおかしくなっているのではないのだ。見ろ」

 太白は子供が被っている布団や毛布を掻き分け、その子の腕をほたるに見せた。痛々しく皮肉が裂けて赤く血が滲んでいる。これは凍気によるものだ。

「原因は解かってるの?」
「この子供の身体の中に妖魔が居る。体内の妖魔が極寒を好むため、この子の身体を自分の居心地良くしているのではないかと思う」
「俺は何をすればいいの?」
「お前の炎でこの子の身体を温めて欲しい。勿論、子供を傷つけないようにだ」
「あっさり難しいこと言うね」

 子供の身体ごと燃やさないように、数千度の炎を召喚しろという。出来ない事ではないが、細心のコントロールが必要だ。

「熱して居心地を悪くすれば、この子の身体から出てくるかもしれない」
「出てきたところを、太白が斬るって寸法だね。解かった」

 ほたるは炎を召喚した。少し離れて太白が鋼の太刀を構える。

 子供が被っていた布団や毛布が一瞬にして燃え尽きる。炎は子供の身体を包んで赤から青へ、青から白へとその熱を高めていく。ファンヒーターもひん曲がって粗大ゴミと化す。

「……っ」

 思う以上に難しい。子供に怪我を負わせてはならないし、窒息しないように酸素を確保しなければならない。フラストレーションが溜まる。ちらりと太白を見る。

「螢惑、もっとだ」

 簡単に言ってくれる。ほたるは唇に笑みを刷いた。面白い。

「わが元に集いし火霊の精たちよ、汝の身をもちてすべてを開放し、わが前に地獄の扉を発現させよ…」

 最も高温といわれる白い炎。それを上回る異界の炎を、ほたるは喚んだ。

「悪魔の王よ、われに従え…黒き炎デモンズ・ブレス

 それは黒い炎、この世にあってはならぬ地獄の業火だ。その渦中から何かが飛び出した。

「太白!」

 妖魔が飛び出した瞬間にほたるは炎を消した。隣室に控えていた太白の部下達が手際よく子供の身体を運び出し手当てをする。太白は冷静だった。飛び出した妖魔を正確に捉え、太刀を振り下ろした。しかしその刀身は妖魔の身を真っ二つにすることなく、寸前で止められた。

「太白、何で?」
「これは、妖魔の幼生だ」

 子供の中にいたのは妖魔でなく、妖魔の卵だったのだ。この妖魔は冷気を好むのではなく、孵化するのに非常に高温の熱が必要な為に、子供は体温を奪われて凍えていたのだ。

 太白は妖魔の幼生をその手に乗せた。妖魔の幼生は小さく、彼の掌に満たない。

「それ、どうするの?」
「子供なら母が欲しかろう」

 太白は縁側から庭に降りる。庭には池があり、純白の蓮の花が咲いていた。

「母に抱かれて、別のものになれ」

 そう言って太白は妖魔の幼生を一輪の白蓮の花の上に置いた。



 3日後、白蓮は花弁を散らし、後には花托が残った。
 花托は果托となって実を結び、次世代への命を育んでいた。



 そして数年後、発芽した種が美しい花を咲かせたと、太白から連絡があった。
 それは見事な紅色で、まるで炎のような蓮の花だったという。


 おわり

 ほたるのお題だというのに、どうやら私は辰伶が書きたくて堪らないらしいです。次週はほたるの誕生日の話(←今から考えます。間に合うか?)です。

(05/9/13)