04.繁栄


 隣の部屋からヒソヒソと話し声が聞こえてくる。8畳の和室の真ん中に敷かれた布団の中で、ほたるは寝た振りをしながらそれを聞いていた。

 ほたるは依頼を受けて、今夜この家のこの部屋に寝泊りしていた。ここで起きる怪異の原因を突き止めて欲しいということだった。

 この依頼をほたるへ持ち込んだのは、彼の師である遊庵だった。ほたるは妖魔を「なんとかする」ことを生業にしていた。 当然、この依頼も妖魔の関係である。

(めんどくさいなあ。ゆんゆんがやればいいのに…)

 ほたるは金欠をかこっていた己の師のことを思い浮かべた。そんなにお金に困っているなら、この依頼は遊庵が引き受ければいいじゃないかと思った。遊庵にそう言ってみたところ、アルバイトは禁止されているとのことだった。遊庵の持つ太四老という肩書きには、なんだかよくわからない規則があるらしい。

 勤労意欲などという言葉はほたるの語彙録には存在しない。ほたるは睡眠をこよなく愛し、怠惰を無二の親友としていた。しかし、働かなければ金を稼ぐことはできないし、金がなければ家賃も払えない。

 ほたるは異母兄の屋敷の離れに住んでいる。家賃が払えないからといって、住処を追い出されるということは無い。そもそも異母兄は家賃など請求はしなかったが、ほたるは二十歳の頃に自ら決意してそれを申し出た。とはいえ、あれだけの物件で家賃3万円は破格といえるだろう。しかも、食事も専ら異母兄の世話になっている。経済的に自立しているとは言い難いが、それでも何から何まで世話になっているのでは格好悪いと思うのだ。

 おそらく、ほたるが一生遊び暮らしていたとしても、彼の異母兄は「困った奴だ」と少し肩をすくめて、ほたるの面倒をみてくれただろう。致命的に異母弟に甘過ぎるというのが、異母兄である辰伶の最大の欠点だと、ほたるは思う。

 怠けることが大好きなほたるは、ふとするとその甘さに頭の先まで浸かってしまいたくなる。その誘惑を振り払う為にどれほど努力を必要とするか、生来勤勉な辰伶には解からないだろう。

 素直に甘えてしまえばいいと言う人もいるかもしれない。だが、それではほたるは一生を「辰伶の弟」で終わってしまう。ほたるを弟として可愛がりたくて堪らないらしい辰伶には好都合だろうが、そうはさせないと思う。

 それは辰伶が嫌いだということではない。寧ろその逆で、ほたるは辰伶が好きだった。その感情は血の繋がり以上のものを求めていた。だからこそ、ほたるは辰伶に認められたかった。その為には、どんなに心身が怠けたがっていても、我慢して仕事をする必要があった。

(でも、めんどくさいなあ…)

 大体、寝たふりというのが良くない。本当に眠ってしまいそうだ。それを我慢して怪異が起こるの待っていたところ、漸くそれらしき気配がしてきた。今夜、この家にはほたるしか居ない筈だが、隣の部屋から複数の人の話し声が聞こえてき出したのだ。

 …―― 肴が足りぬな
 …―― おう、酒は足りておるが、肴が不足しておるぞ。
 …―― どうれ、探してくるか…

 ほたるの足元の方の襖がスルスルと開いた。酒に酔っているのか不規則な足音と、微かな衣擦れの音がほたるの方に近づいてくる。それはほたるの枕元で止まった。じっと見下ろしてくるのを、ほたるは気配で感じた。

 …―― ほう、ここに…

 ほたるは布団を跳ね除け、隠し持っていたナイフで斬りつけた。布団が床に落ちる。その音を最後に辺りは闇と静寂に包まれた。

 ほたるナイフの刃を見遣る。血糊による曇りは無い。斬りつけた時には、確かに手ごたえがあったのだが…

 隣の部屋にも誰も居なかった。酒の樽が3つ置いてあるだけだ。

「なんだかヤバそうな展開だなあ…」

 そう呟くと、掛け布団を直して再び寝床に横になった。今夜はもう何も起こらないだろう。今度こそほたるは本当に寝てしまった。


 翌朝、光の中で検めてみたが、床にも血痕など何も無かった。ぼんやりと頭を掻いていると電話が鳴った。依頼人からであった。ほたるは昨夜のことを簡単に報告した。

『そうですか。今夜も宜しくお願いします』

 愛想に欠ける依頼人は、それだけ言ったのみだった。

「…自分の家のことなのに。普通さ、もっと気にならないかなあ…」

 最初から何だか気に入らない依頼だった。依頼内容もはっきりしないし、依頼人は姿を見せないし、依頼を持ってきたのは遊庵だし…

「今夜もお願いって、要するに今日も一日辰伶の顔が見れないってことじゃない」

 ムカつく依頼だ。

 夜までどうしたものだろう。昼間には怪異は何も起こらないのだ。一度家に帰ろうか。

「そーだよ。朝メシ無いじゃない」

 徹底してムカつく依頼だ。

 ほたるは外に出た。ここに来るときに、近くにコーヒースタンドがあったことを思い出したのだ。そこでシナモン入りのアイス・カフェ・ラテとチキンのベーグルサンドをテイクアウトし、道路を挟んだ向かいの緑地公園へと向かった。

 公園には池があった。人工なのか、或いは自然の沼を整備したのか知らない。池の畔には柳の木がしなやかな枝を緩慢に揺らしている。夜なら効果抜群だ。お誂え向きに柳の根元には1匹の低級な妖魔が居る。

 妖魔は豆腐が辛うじて五体を形成しているような容貌で、膝を抱えるような格好で座り込み、何やらブツブツと独り言を言っている。特に害があるわけではない。ほたるは柳の下の木製のベンチに腰を下ろした。

 良い天気だ。ほたるはベーグルサンドの包みを開けて齧り付いた。丹念に咀嚼して呑み込む。

「…ツナにすれば良かった」

 小さく不満を漏らす。不味くはないが、期待したほど美味しくなかった。シナモン入りのカフェ・ラテは結構気に入った。

 ふと視線を感じて横目で窺うと、妖魔がほたるの方を見ていた。

「食べる?」

 妖魔は無言でゆっくりと頷いた。ほたるはベーグルサンドを妖魔にやった。妖魔の指があるのか解からない手が受け取り、どこに口があるのか解からない顔に運ばれる。

「もっと食べる?」

 妖魔はまた頷いた。ほたるは先ほどのコーヒースタンドに行って、ツナのベーグルサンドを2つ買って戻った。1つを妖魔に渡し、2人は並んで朝食を楽しんだ。ツナはチキンよりもマシだった。食べ終わったほたるは世間話でもするように妖魔に話しかけた。

「ねえ、二丁目に大きな家があるでしょ。何人住んでる?」

 ほたるから貰ったベーグルサンドを食べ尽くした妖魔は呟きを再開した。

「…今、いない……」
「前は何人居た?」
「……2人……夫婦………」
「大事な物はどこにある?」
「………仏壇の中……」
「それは何?」
「…狗…3匹…」
「ふうん。ありがとね」

 それきり妖魔はほたるの存在など忘れてしまったかのように、ぶつぶつと意味不明な独り言を呟くのみだ。ほたるも気にせずにベンチに仰向けに横になった。柳の奏でる葉擦れの音を聞きながら眠りに落ちた。


「あ、辰伶。今日は家で晩飯食べるからね。ちなみに何? ……その呪文みたいなの、料理名なの? ふうん、じゃあね」

 ほたるは携帯電話をきった。少し機嫌が良さげだ。

 公園の妖魔(オトーフ君と命名)に教えられた通り依頼人の家の仏壇の中を検めたところ、両手に少し余るくらいの大きさの陶製の甕が出てきた。甕の口には封印がされていたが、それは破られた跡があった。

 甕は非常に軽かった。ほたるは甕を耳元で振ってみた。中には何も入っていない。

 これはまじないの一種だ。中に妖魔を封じて、繁栄を約束させる。それ程珍しいものではないので、ほたるにもこの甕の意味がすぐに解かった。

「封印が解かれてるってことは、中身が出ちゃったってことだよね」

 妖魔とて縛り付けられれば恨みが溜まる。それを和らげる為に、お供え物をしたり、丁重に持て成したりするものだが、年を経るごとに妖魔の力は大きくなっていく。同じ様に恨みも大きくなっていく。供物など、負担も相応に大きくなっていく。或いは長い年月の間に子孫がその重要性を忘れて疎かにしてしまうなどというのも良くある話だ。

 どんな経過を辿ってのことか、ほたるには知りようのないことだ。ただ解かることは、封印の力よりも、妖魔の恨みの方が大きくなって、破られてしまったのだろう。

 突然、電話が鳴った。ほたるは気負いもなく受話器を取った。

「もしもし、依頼の人?」
『……』
「怪異の原因、解かったから帰ってもいい?」
『……』
「怪異の原因を突き止めればいいんでしょ。原因を消してくれとは、言わなかったよね」
『……』

 依頼人は何も言わない。無反応な相手にも頓着せず、ほたるは一方的に喋り続ける。

「甕の中に封じられいた妖魔は3匹だから、お供え物も当然3匹分要る。でも、この家にはお酒の樽は3つあったけど、酒の肴は2つしか居なかったんだよ。だから、1匹が不満になったんだね」
『……』
「あ、でもさ、この家に住んでた夫婦って、肴として食べられちゃったわけじゃない。そしたら誰がこのことを壬生一族に依頼したのかなあ? それがすごく不思議なんだけど」
『……』
「それについて教えてもらえる? 後ろの人っ!」

 ほたるは振り向きざまにナイフで薙ぎ払った。ほたるを背後から襲おうとしていた妖魔の腹に、ほたるのナイフが深々と突き刺さっている。妖魔の腕には真新しい傷跡が一筋あった。昨夜、ほたるが付けた傷に違いない。

「魔皇焔」

 妖魔の身体が炎に包まれた。ほたるは特殊能力によって炎を召喚する。それは妖魔をも焼く特殊な炎だ。

 妖魔が燃え尽きた跡には、炭のように黒々とした塊が落ちていた。ほたるはそれをポケットにしまった。

「さすが、といいましょうか。ほたる」

 奥の襖が開く。そこには1人の漢が立っていた。

「アキラ…」
「久しぶりですね」

 ほたるの旧知であるらしい漢は親しげに笑みを浮かべる。しかし、どこか裏のありそうな笑顔だ。

「お前が依頼人?」
「そうですよ」
「なんで?」
「私の家、隣なんです。毎晩うるさくて仕方がなかったので」
「…自分でやればいいじゃない」

 このアキラという漢も妖魔を退治する力を持っている。しかし、壬生一族ではない。彼のように力を持っていても壬生一族の傘下に入らず、独自に妖魔退治をしている者は少なくない。

「てゆーか、俺を3人目の肴にして、妖魔を鎮めるつもりだったんでしょ。相変わらず腹黒いなあ」
「あんな下等な妖魔ごときに貴方がやられるわけないじゃないですか。喰われてしまったとしたら、貴方はもう昔の貴方じゃないわけですから、惜しむ価値はないですよ。ねえ、四聖天のほたる」
「懐かしい名前だなあ。狂は元気?」
「ええ」

 狂という漢を中心にして、ほたるとアキラは嘗て仲間だった。他に2人の仲間と狂を囲んで四聖天と呼ばれていた。全員が強大な力を持っていながら壬生一族に属していなかった。

「変わったね、アキラ。昔は壬生一族なんて関係ないって言ってたのに、その壬生一族に依頼するなんてさ」
「変わったのは貴方でしょう。螢惑」

 螢惑というのは壬生一族としてのほたるの名だ。

「俺は変わってないよ」
「な…、俺たちを裏切って壬生一族になったくせにっ」
「俺は四聖天になる前からずっと壬生一族だったけど?」
「それって、俺たちをずっと騙してたってことかよ」
「騙してないよ。言わなかっただけ」
「何で言わなかったんだよ」
「だって誰も聞かなかったし。どうでもいいけど、アキラ、敬語じゃなくなってるよ」

 ほたるの言葉にアキラは脱力した。

「貴方が天然だってこと、忘れてましたよ…」
「何でみんな、俺のこと天然っていうのかなあ…」

 すっかり憤りを逸らされてしまって、アキラは精神的に僅かながらの疲労感を残してはいたが、何だかすっきりしてしまった。

「この件を壬生一族に依頼して、貴方に廻るように差し向けたのは、裏切り者を懲らしめてやろうという気持ちもあったんですが、それよりも貴方の力が昔通りか確かめたかったんですよ」
「何でそんな面倒なことしたがるかなあ…」
「もう一度、昔の仲間に戻りませんか?」

 ほたるは無言でアキラを凝視した。アキラは親和の微笑みでそれを受け止める。

「…何を企んでるの?」
「企むだなんて。ただ、私は昔のように楽しくやりたいだけですよ。四聖天としてね」
「今更じゃない? 仲間だって、昔よりもいっぱい増えたらしいじゃない。たまに噂で聞くよ。『狂とゆかいな御一行様』って」
「その名称で呼ぶのはやめて下さい」
「何で? あ、ひょっとして、そう呼ばれたくないから、四聖天に戻りたいの?」
「……」
「そうなんだ」

 アキラは『ゆかいな御一行様』のどこが気に入らないのか、ほたるには解からなかったが、アキラにはアキラなりに悩みがあるのだろうと思った。そう思えるようになった分だけ、昔よりも成長したなあと、ほたるは自分で自分を褒め称えた。

「そういえばさ、依頼が俺のとこに行くように根回しするなんて、壬生一族に知り合いでもいたの?」
「貴方の師匠に頼みましたら、快く引き受けて下さいましたよ。…牛丼で (クスッ)」
「ゆんゆん、牛丼1杯と引き換えに弟子を売るくらいビンボーなんだ…てゆーか、俺ってそんなに安いの?」
「誰が1杯といいました? 彼の弟妹達全員分、きっちり奢らされましたとも。生卵つき、大盛で」
「てことは、いち、にい、さん…(指折り数える)…9杯と引き換えなら、ま、いいか。生卵ついてるし」
「…いいんですか」


 久しぶりに語り合う為にアキラと連れ立ってコーヒースタンドへ行った。店は時間的にありえない混みようだった。

「この店、いつもこんなに混むの?」
「いいえ。こんなことは初めてです」

 空席などありそうもない。別の店に行こうとして、ふとほたるは店の片隅に妖魔のオトーフ君の姿を見つけた。店員や他の客には彼の姿は見えていない。オトーフ君はベーグルサンドを食べていた。

「こいつのせいか」

 どうやらほたるはオトーフ君にベーグルサンドの味を覚えさせてしまったらしい。オトーフ君はこの店からベーグルサンドを自主的に貰って…平たい話が失敬して、その見返りに店を繁盛させてやっているのだ。

 このままオトーフ君が居つけば、店は益々繁盛し儲かるだろう。しかし大きな富はそれに見合うだけの禍を呼ぶ。禍福は表裏一体なのだ。

 ほたるはオトーフ君の前にしゃがみ込んだ。ポケットから黒い塊となった妖魔を取り出す。

「食べる?」

 オトーフ君はゆっくりとした動作で頷いた。ほたるから黒い塊を受け取り、どこに口があるのか解からない顔が、それを飲み込んだ。オトーフ君は妖魔を食べ終わると、のそりのそりと店を出て行った。

 3匹の妖魔の内の1匹の味を覚えたオトーフ君は、残りの2匹を探しに行ったのだろう。勿論、食べるために。オトーフ君が去ったとたんに、店は急に客の姿が減っていった。

「席が空いて良かった良かった」
「貴方って人は…」

 残り2匹を食べつくしたオトーフ君は、その後はどうするだろうか。この近辺の妖魔を捕食して、強大な妖魔に成長するかもしれない。

 だとしても、それはほたるには関係のないことである。


 おわり。何だかもう…。このテの話を1週間でまとめようというのがムリなんじゃ…と思う今日この頃。

(05/9/6)