03.血


 冴えない朝。雲は太陽を隠して重々しく垂れ込め、雨の気配を漂わせながら、しかし一向に降る様子も無い。

 空の所為ではないが、ほたるは心を燻らせていた。珍しく早くに起きてまともに朝食を摂ったはいいが、仕事の予定は無かったし、辰伶も出かけてしまって、無為な時間をただ持て余している。

 ペタペタと渡り廊下を歩いて、母屋から離れの私室へ戻る。ほたるの私室は2間続きになっていて、奥が寝室、その前室が勉強部屋だ。勉強部屋といっても本当にそこで勉強をしているわけでなく、呼称の為の便宜上のことだ。高校生時代にそう呼んでいたのがそのまま定着してしまった。ちなみに、高校生時代もそこでろくに勉強などしていなかった。

 離れ屋には主に3つの部屋がある。一番東にほたるの私室、隣にリビング兼応接室、廊下を挟んで一番西の部屋は客間としている。その他にバス、トイレ、洗面所があり、リビングに食い込むような形で給湯スペースがある。
 南に面した玄関から入ってすぐ目の前のドアがリビング兼応接室。玄関口から南北に伸びた廊下(西廊下と呼んでいる)の西側の壁にあるドアが客間で、この部屋はほたるの知人や時には依頼人を宿泊させるのに使っている。客間を通り過ぎて突き当たりの左手にはバス、トイレ、洗面所。右手に折れると更に廊下が続き、この北廊下側からもリビングに出入りが可能である。北廊下は突き当たりでさらに右に折れ、東廊下の南端に母屋への渡り廊下に出られる扉がある。
 ほたるの私室には東廊下に面したドアしかないので、すぐ隣のリビングへは廊下を東から北へ回っていくこととなる。

 私室は一旦素通りして洗面所に向かう。ぼんやりと歯を磨きながら、さて、これから何をしようかと考える。洗顔を済ませてさっぱりしたところで、名案が浮かんだ。

「もっかい寝よ」

 結局、それしか無いらしい。

 廊下の床はワックスで艶やかに磨かれており、その冷たい木板の感触をひんやりと素足に親しみながら歩いて行く。コーナーの隅に設えられた花卓の上の観葉植物の鉢をチラリと見たが、特に何とも思わずに通り過ぎる。この鉢は時々季節の花を生けた花瓶と取り換えられているが、こういうマメなことするのは辰伶だ。

 私室のドアを開けると、そこには見知った人物がほたるの勉強机の椅子に座っていた。

「よ、螢惑」

 片手を挙げてほたるに挨拶をしたその人物は遊庵といって、ほたるの師匠だ。何の師かといえば、壬生一族としてのだ。ほたるは壬生一族の中では「螢惑」という二つ名で通っているが、ほたるにその名をつけたのがこの遊庵だ。

 壬生一族は「一族」と謂っているが、血縁集団ではない。血の繋がりなど全く関係なしに、通常の人間は持ち合わせない特殊な能力を持つ者が、一族として迎え入れられる。特殊な能力とは、この世の薄闇に存在する諸々の妖しのモノ…壬生一族はそれらを総じて「妖魔」という呼称で呼んでいるが、それらに作用する超常の力だ。その力で妖魔を封じたり退散させたりするのが壬生一族である。

 ほたるの師である遊庵は、一族の中でも抜きん出て強力な力を持っている。一族の者から畏敬の念を込めて「太四老」と呼ばれる者の1人だ。…一応は。

「何しに来たの、ゆんゆん」
「遊庵師匠と呼べ」

 太四老という重々しい肩書きに似合わず、遊庵はフットワークの軽い漢だ。巷間の若者のようにぞんざいに振る舞い、馬鹿なことを平気でやる。いつも飄然としていて、親近感を漂わせながらもどこか掴みきれない。そういう漢だ。

 ほたるの起居する離れ屋は、過日の真田幸村の例でも判るように、少し知った人物なら無断で出入りするのが当たり前になっている。離れ屋の主人であるほたるの頓着しない性格によるものだ。しかし、それでもそれはリビングから西側だけの話で、このほたるの私室は別だ。この部屋にほたるの許可無く自由に出入りすることが許されているのは異母兄の辰伶と、後はこの遊庵だけだ。

 付け加えると、奥の寝室へは辰伶しか立ち入らせたことは無い。離れ屋の清掃にくる使用人も例外ではない。オープンに見えるのは表面のみで、他人を一線から中へは簡単には踏み込ませない。ほたるは基本的には閉鎖的な人間なのだ。

 本当に遊庵は何しに来たのかと、ほたるが再び訊ねようとしたところで、ドアがノックされた。

「お、来た来た。入れよ」
「失礼します」

 遊庵の呼びかけに対して、機械的な丁寧さで辰伶の家の使用人がワゴンを押して入室してきた。軽食というには多すぎる量のサンドイッチ。サラダ、スープなどが遊庵の前のテーブルに置かれる。

「何、コレ?」
「朝飯、まだだったんでね。ルームサービス頼んどいたんだ」
「ここ、ホテルじゃないんだけど」
「細けえことは気にすんな。俺は気にしねえ」

 ほたるが居ない間に、遊庵は内線電話で母屋にいる辰伶の使用人に頼んで用意させたのだ。遊庵もこの家によく出入りしているので、使用人たちも遊庵のことはよく知っていた。加えて、遊庵はほたるの師であり太四老という身分なので、くれぐれも失礼のないようにと、辰伶が使用人達に周知していたので、このようなことが可能なのだ。

 コーヒーカップにコーヒーを注ぎ、残りはポットごとその場に置いて、使用人は退室していった。遊庵は無造作にサンドイッチを掴みとって頬張った。

「何で俺の知り合いって、ずうずうしい奴ばっかなんだろ」
「そりゃ、類は…って奴じゃねえの?」
「絶対に違うと思う」

 ほたるもクラブハウスサンドを1つ手にした。腹が減っていたわけではないが、何となくその場の雰囲気で食べたくなったのだ。自分のカップを出してきて、ポットのコーヒーを注ぐ。

「朝飯たかりに来るのはいいけどさ、前もって言ってよ。俺が辰伶に怒られるんだから」
「何で?」
「うーん…、よくわかんないんだけどさ、ちゃんとしたおもてなしができないとか何とか…」
「相変わらず固え野郎だな、てめえの兄貴は」
「うん。特技に近いよね」

 というよりは、寧ろ遊庵とほたるが異端者なのだ。太四老とは、壬生一族に名を連ねるものにとっては雲の上の身分だ。その上、辰伶にとって太四老のイメージは第一に己の師である吹雪が基準となっている。吹雪は威厳と格式に満ちた為人で、人々の畏怖と尊敬の念を集めている。

 同じ太四老といえども吹雪と遊庵が全く違うことを、辰伶としても理解しているのだが、それでも礼節を重んじるのが感覚的に身についてしまっているので、仰々しくしたつもりはなくても、遊庵やほたるには少々窮屈なことになるのだ。

「ま、1ついいこともあるけどな」
「何?」
「俺の周りで『遊庵様』って呼んでくれるの、あいつだけなんだよな」
「変わってるよね」
「弟子は可愛くねえし」
「うんうん」
「弟や妹どもには粗大ゴミ扱いされるし」
「…ゆんゆんって、ホントに太四老? そーいえば、何で俺のとこに飯たかりに来るの? 太四老って高給取りじゃないの?」
「それがよお…」

 遊庵は沈痛な面持ちで、深く溜息をついた。

「オヤジが帰って来やがった」

 ほたるは驚いた。遊庵の事は昔からの知っているが、今まで彼の父親にあったことが無かった。とっくに死んでしまっていて、もう居ないのだと、てっきり思っていた。

「鍼の修行に行ってくるって家出たまま何年も消息不明だったんだがよ、生きてやがったんだな。んで、帰ってくるなり今度はオフクロ連れてハネムーンに行っちまいやがった。あの野郎、何回ハネムーンに行ったら気が済むんだ」
「仲良くていいんじゃない?」
「仲がいいのは結構だけどよ、庵奈や庵曽新たちもそう言って、餞別にって今月の生活費全額を2人の旅行資金にポンと渡しちまいやがった。そりゃ、俺の稼ぎだっつーのっ! 給料日まであと何日あると思ってんだよ。庵里兄貴が出て行っちまったのも、絶対にあのロクデナシに愛想尽きたからに違えねえぜ」

 年寄りの愚痴は長い。ほたるは心の中で欠伸をした。

「てめえ、今、すごく失礼なこと思っただろ」
「別に」
「ふん。…ま、しょうがねえから、俺は口減らししてんだよ。実際、泣けてくるぜ。弟子や同僚に『飯喰わせてくれ』なんてさ」

 そうは言うが、あまり嘆いている感じもない。嬉々としてサンドイッチの山を低くしていく。実際、こんな事情が有る無し関係なく、遊庵はしょっちゅう弟子のほたるや同僚のひしぎ達に飯をたかっていた。恐らく、タダ飯を喰うのが趣味なのだ。

「ねえ、朝飯おごってあげたんだから、1つ教えてよ」
「てめえが奢ったんじゃねえだろ。まあいいや。何だよ」
「辰伶の能力って、どんなだった?」

 遊庵は口の中のサンドイッチをコーヒーで流し込んだ。食事の手が、一旦止まる。

「俺も詳しくは知らねえ。だが、水系の力だって聞いた。火を操るおめえとは反対だな。水派の頂点である吹雪の愛弟子だってことだから、相当の使い手な筈だ。多分、てめえと互角くらいじゃねえかな」
「……」
「奴のこと、天才って呼ぶ奴もいるぜ。ひょっとすると、てめえより上かもな」

 ほたるは目を眇めると、遊庵の顔を見つめた。

「……」
「何だよ。何かついてんのか?」

 突然、予告もなしにほたるは遊庵の両頬を掴み、左右に力いっぱい引っ張った。

「ひてーっ! 何しやがるっ」

 遊庵は力任せにほたるを殴り倒した。

「痛いなあ…」
「痛えのはこっちだ。てめーは自業自得だろっ。ったく、何のつもりだ」
「最近、偽者が多くてさ。ゆんゆんは本物?」
「ったりめえだ」
「本物のゆんゆんだったら、俺におこづかいくれる筈だけど?」
「てめえこそ本物の螢惑だったら、俺のことを遊庵大師匠様と敬って肩揉んでくれる筈だぜ?」
「(ちぇっ)本物か…」
「チェッて何だよ、チェッて。大体、てめえの師匠が本物かどうかくらい、すぐに見抜けよ。マジ教え甲斐のねえ弟子だぜ」
「辰伶ならすぐに判ったのになあ…」

 ほたるに執心している例の妖魔は変化を得意としているらしく、しばしばほたるの知人の姿で現れる。本物と寸分違わぬ外見で、仕草や口調、細かい癖までそっくりなので、本物かどうか見分けるのは極めて困難だ。しかし、何故か辰伶に化けた時だけは、直ぐに見破ることができた。半分とはいえ同じ血を持つが故の、兄弟パワーだろうか。

「…愛の力だもん」
「はぁ?」
「絶対絶対そうだもん」

 年端のいかぬ子供のような呟きを発する弟子に、遊庵は所作なく呆れ帰る。

「そんなに辰伶のことが好きなのかよ。異母兄だぞ?」
「悪い?」
「普通の好きなら悪かねえよ。おめーのは普通じゃねえ」
「うん。普通よりも凄くずっと好き」
「程度じゃなくて質の話をしてるんだがな」
「…解かってるよ」

 解かっている。遊庵が言っていることは。解かっていて、わざとはぐらかした。

「いいでしょ。実際にどうこうしようなんて思ってないし。辰伶にその気はないんだし。どうにもならないよ」
「……」
「どうしようも、ないよ…」

 例えば、ほたるのその身に流れる血を全部入れ換えたところで、ほたると辰伶が異母兄弟であるという事実は変わらない。それは一生変わらない。どうしようもない。

「想ってるだけなんだから、いいでしょ」
「苦しいだけだろ」
「それでもいいじゃない」

 好きなんだから、いいじゃない。軽い口調とは裏腹に、ほたるの瞳の奥には絶望の色をした炎が微かに揺れていた。

 血の繋がりが、ほたると辰伶を結びつけた。
 なのに、血の繋がりが、2人を隔てる。

「…神様ってさ、時々妖魔よりも性質が悪いと思わない?」
「バカだぜ。てめえはよ」

 遊庵はほたるの髪を、子供に対してするようにくしゃりと撫でた。


 おわり。何しに来たんだ、ゆんゆん。

(05/8/30)