02.結紐
辰伶はほたるに背を向けると、ほんの僅かな未練さえも見せずに歩き出した。ただの一度として振り返ることなく、唇に微かな笑みさえ湛えて……ほたるからは辰伶の顔など見える筈もないのだが、奇妙なことにほたるには辰伶が微笑んだことが判った。
「****っ!」
喉が裂けるくらいに叫んでいるのに声にならない。堪らず、ほたるは辰伶の後姿に取り縋った。しかしその手は虚しく空を切り、ほたるの眼前に銀糸が広がった。それに目を奪われた一瞬後に、扉が音をたてて閉まり、辰伶の姿はその向こうへ消えていた。
…―― 嘘
辰伶の銀色の髪を括っていた赤い結紐。それだけがほたるの手に残されていた。たったこれだけが、辰伶がここに存在していた証だなんて。
…―― 嘘
こんなのは嘘だ。本当である筈が無い。
「うそ…」
堅く閉ざされた扉を力任せに殴りつける。
「うそっ! うそっ! うそっ!…」
力の限り扉を叩き、声の限りに叫ぶ。何て性質の悪い冗談だろう。冗談にしても性質が悪すぎる。酷い嘘。何て酷い嘘。 …ねえ、嘘でしょう? 嘘なんでしょう…
異母兄を求めて扉を叩き続けるほたるの手首を、背後から何者かの手が掴んで止めさせた。行為を止められたことで、ほたるの頭に血が昇る。激情のままに振りほどき、背後の人物に向き直りざまに怒鳴った。
「返してっ!」
扉の代わりに、その人物の胸板を打ち据えて叫ぶ。
「返してっ、返してっ、返してっ、返してっ…」
その人の両手がほたるの両肩に置かれる。ほたるの慟哭を全て受け止めて、冷たい手が限りない優しさでほたるを労わっていた。
◇
◇
◇
「やな夢みちゃった…」
まだぼんやりと夢の余韻が残る。ほたるは目覚めたままのベッドの上で、少々長くなった前髪を梳き上げた。ほたるの見る夢はただの夢ではない。一種の予知夢で、どんな些細な夢でも例外なく、これから起こる出来事を暗示しているのだ。ただし、夢と全く同じことが起こるわけでないので、多くは後になって夢が訴えていた内容を理解することとなる。…予知としては全く役に立っていない。
嫌な夢。異母兄である辰伶が、ほたるを残して去ってしまう夢。勿論、このままこの通りのことが起こる訳ではないが、良い夢で無いことは確かだ。
ほたるはごそごそとベッドを降り、だらだらと着替えをした。普段はもっと寝ているのだが、今朝はそんな気分になれない。
ほたるは私室を出ると素足のままペタペタと廊下を歩いた。廊下の突き当たりのドアを出ると渡り廊下で、それはほたるの暮らす離れ屋と異母兄である辰伶の居る母屋を繋いでいる。母屋と離れ屋は庭池によって隔てられているので、渡り廊下は正しく架け橋だ。大体においてほたるも辰伶もこれを通って互いを行き来している。
離れ屋にはバス、トイレ、洗面所や簡単な給湯スペースもあったが、炊事をするところがない。食事は母屋で辰伶と共に摂ることとなっていた。ただし、ほたるの生活が不規則なので、特に朝は顔をつき合わせて食事をとることは滅多に無い。
「珍しいな、ほたる。こんな時間にお前が自分から起きてくるとは」
母屋の廊下をダイニングへ向かって歩いている途中で声を掛けられた。振り返ってほたるは無感動に応えた。
「お前、誰?」
「…貴様は兄の顔まで忘れるのか」
「俺、妖魔の兄なんていないから」
ほたるの異母兄の顔をしたモノはニヤリと笑みを浮かべた。
「見破られたか。結構、上手く化けたつもりだったんだが。何故判った?」
「見れば判るよ。辰伶はそんな不細工じゃないから」
ほたるは無視してさっさと歩き出した。正体を見破られたにも関らず、妖魔は辰伶の姿をしたまま悪びれる様子も無く後をついてきた。ダイニングルームの扉に手を掛けたところで今度は本物の異母兄に会った。ほたるを挟んで同じ顔が2つ。異様な光景だ。
「お早う、ほたる。…スリッパくらい履いたらどうだ」
「なるほど。先ずは挨拶、続けて小言か。次に化けるときの参考にしよう」
ほたるの背後の妖魔が感心したように言った。辰伶にはこの妖魔の姿も視えなければ声も聞こえない。もし視えていたなら、自分そっくりな外見をした存在に驚いて、のんびりと異母弟に挨拶などしていられなかっただろう。
ほたるは辰伶の左手を見た。そこには包帯が巻かれている。
「でかけるの?」
「吹雪様のところへな。帰るのは夕方になる」
「ふうん」
包帯の白さが酷くよそよそしい。ほたるの視線を受けて、辰伶も己の左手の甲を見る。決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。
「あのさ、俺、今からメシなんだけど」
「え? ああ…」
ほたるが何を言いたいのか解からず、辰伶は不意を突かれたコメンテーターのように言葉に詰まった。ほたるの背後の妖魔がクスクス笑いながら言った。
「要するに、俺の顔を見ながら朝食を摂りたかったんだろう?」
「別にお前の顔が見たいって訳じゃないけど…」
妖魔の声が聞けない辰伶に聞こえるのはほたるの言葉だけだ。辰伶はその言葉を「一緒に朝食を摂りたかった」のだと解釈した。実際のところ、それは正しかった。今朝方、嫌な夢を見たほたるは辰伶の顔が見たくて、まだ寝足りないと訴える意識に叛逆して朝食を摂りに来たのだ。
「ああ、すまん。俺はもう済ませてしまったが、コーヒーくらいなら付き合うぞ」
「出かけるんでしょ」
「急ぎではない」
辰伶とほたるは向かい合ってダイニングテーブルについた。妖魔は相変わらずほたるの背後にいる。程なくして使用人によってほたるの前には朝食が調えられ、辰伶の前にはコーヒーが置かれた。
特に会話をするでもない。ほたるは味わっているのかいないのか、着々と機械的に食物を胃に収めていく。辰伶は新聞を眺めながら、時折所在無げに庭を見てコーヒーを啜る。穏やかな沈黙が続いていたが、不意に辰伶がそれを破った。
「今日は仕事の予定は?」
「ないよ」
「そうか」
短く、そして他愛の無いやりとりの後にまた沈黙する。気まずくはないが退屈な時間。しかしほたるはこの退屈が嫌いではない。辰伶も特に話題を探している感じはない。
ほたるの背後の妖魔も同意見…というわけではなかった。無為に厭いたのか、辰伶の顔をした妖魔はその手でほたるの肩越しに顎を捉える。ほたるは眉間に厳しく縦皺を作った。
「…人が食べてるときにウザイんだけど」
「え? あ、すまん」
ほたるの妖魔に対する台詞を、辰伶は己に対するものと勘違いして、新聞を畳んでテーブルに置いた。辰伶には妖魔の姿が視えないのだから仕方が無い。ほたるは訂正しようと思ったが、説明が面倒だったのでやめた。
妖魔は益々図に乗って、辰伶と同じく形の良い手でほたるの頬から顎へと撫で下ろした。ほたるの背筋を怖気が走る。
その瞬間、妖魔の顔面目掛けてソーサーが飛んできた。間一髪で妖魔はそれをかわし、ソーサーは壁にぶち当たって砕けた。
ほたるは驚いて瞠目していた。妖魔にソーサーを投げつけたのは辰伶だった。
「大丈夫か?」
「うん…」
「蜂が飛んでいたんだ。刺されたら危ないと思って、咄嗟に皿を投げてしまった」
「…絶妙。視えたのかと思った」
辰伶に妖魔が視えるはずはないのだ。視えないように、彼は能力を封じているのだから。壬生一族としての能力を。辰伶の力がどんなものか、ほたるも見たことが無い。辰伶自身は何も語らないが、ほたるが己の師匠から聞いた話だと非常に高い能力の持ち主だったらしい。
「人に物を投げつけるとは、大した礼儀だな」
腹立たしげに妖魔が言った。つかつかと辰伶の側に回り込み、彼のカップに半分ほど残っていたコーヒーを、彼の包帯を巻かれた左手にぶちまけた。真っ白な包帯が一瞬にして濃い茶色に染まった。
「しまった」
辰伶は自分が粗相をしてコーヒーを溢してしまったのだと思った。ニヤニヤと笑っている妖魔をほたるは睨みつけた。
辰伶は汚れてしまった包帯を解いた。その下から現れた手には、甲全面を覆い尽くすように真っ赤な痣があった。まるで怪我をして血を流しているような赤。辰伶は溜息をついた。
「冬なら手袋をすればいいんだが、夏は少々困りものだな。俺自身は大して気にしてはいないんだが、他人から見てあまり気持ちの良いものではないだろうからな」
この痣を隠す為に、辰伶は外出するときは冬季には手袋を、それ以外は包帯を巻いている。
「ごめん…」
小さな呟きに、辰伶は痣からほたるへと視線を変えた。
「ほたる、あれは俺が自ら選んでしたことだ。お前が気に病む必要は無い。…むしろ、俺こそお前の母のことをお前にどう償ったら良いのかわからん」
胸が締め付けられる。辰伶のせいではない。ほたるは心の中で叫んだ。辰伶は被害者なのだ。ほたるの母と同じように。
「吹雪のとこ、行くんでしょ」
「ああ、そろそろ行くか」
ほたるは粗方食事を終えていたし、辰伶のカップは空になってしまった。辰伶は席を立って出て行った。ほたるもさっさと残りを片付けてダイニングルームを出た。ふと思い立ち、そのまま離れ屋へは戻らず書斎へ行く。
「…目障りだから、もう消えてよ」
執拗に後をついてくる妖魔に、振り返りもせずに言い捨てる。
「せっかくお前の最愛の者の姿で出てきてやったというのに」
「腹立つだけだよ。似てないし」
ほたるは一冊の書籍を手にすると、ちらりとデスクに視線をやったが、そちらへ行かず、カウチに寝そべった。
「ほう。辰伶がお前の最愛の者だというのは否定しないんだな。半分とはいえ血の繋がった実の兄だというのに」
「悪い?」
「気の毒に。辰伶はお前のことを弟としか思っていないぞ」
書籍の陰から妖魔を睨みつける。
「お前が望むなら、辰伶の姿で、辰伶の声で、辰伶の仕草で、辰伶のようにお前を愛してやる。そうだな、お前が俺のものになるなら、辰伶をお前にやってもいい。辰伶は俺のものだからな。ずっと昔から」
「黙れ…」
「あいつとの付き合いは、お前よりも俺の方が長い。俺はあいつがこんな…」
妖魔は10歳くらいの子供に変化した。はっきりと辰伶の面影がある。
「…こんな小さな頃から知ってるんだから」
子供の姿の辰伶の笑顔で妖魔が微笑みかけた。
「見たでしょう、あの痣。あれは辰伶が僕のものだっていう印だよ」
ほたるはカウチから身を起こすと、煙草を咥えて火をつけた。深く吸って、その煙を妖魔の顔に吹きかけた。妖魔は渋面をつくって一瞬後に消えた。
…―― 酷いよ。その煙草の臭い、嫌いなのに…
「今度辰伶の姿で出てきたら燃やすから」
妖魔の気配が消えた。ほたるは煙草の火を消そうとしたが灰皿が無かった。書斎は禁煙だと辰伶に厳しく言われていたことを思い出した。少し考えた挙句に、ほたるは煙草を自らの手の中で握り潰して火を消した。ゴミ箱に捨てるとばれるのでポケットにしまう。そんな暴挙にも拘らずほたるの手には火傷の痕跡も無かった。炎を召喚するほたるにはどうということもない。
普段は絶対にこんな面倒なことはしないのだが…ほたるは今朝見た夢の意味を探っていた。
辰伶がほたるの元から去っていく夢。冗談ではない。そんなことは許さない。
カウチに寝そべった姿勢ではどうにも緊張感を欠くが、見た目に反してほたるは真剣だった。今朝見た夢を読み解くべく、棚から引っ張り出してきた『シンボル辞典』を丹念に調べる。夢で見たものが象徴する事象を調べて、それで読み解けるという確信があってのことではない。何か切れ端でも掴めないかという淡い期待だけが、ほたるにあった。
最も気になるのは、ほたるの手に残された赤い結紐。色は関係ないかもしれない。辰伶がいつも使っているのが赤い紐だから。紐は生命の緒。紐を結ぶのは契約であり、絆であり、宿命である。
束ねられた髪は服従を意味する。或いは社会的な制度に縛られている状態。また、髪は生命力や精神力を意味する。解かれる髪。封じられた力の解放。現在辰伶は壬生一族としての力を封じられた状態にある。それを解放する時が来るのだろうか。
扉は異世界への入口であり出口である。或いは悪しきモノの進入を防ぐもの。隔たりであり、壁でもある。夢の中で扉は辰伶にとって入口(或いは出口)だった。ほたるにとっては壁だった。扉は閉められ、ほたるは辰伶を失った。一本の結紐だけをほたるの手に残して。
別れても2人は強い絆で結ばれていると言いたいのか。いや、別れによって絆を断たれることを意味しているのかもしれない。
夢の意味を考えれば考えるほどに、ほたるはそこに見え隠れする「死」の不吉な影を読み取ってしまう。死の啓示が忌まわしく纏わりついて、ほたるはゾクリとした。夢の中でほたるの手に残された赤い結紐が強く印象に残る。
「俺が、辰伶の運命を握ってるの?」
いや、強い絆が存在すると見做すべきか。
ほたるは仰向けにカウチに沈んだ。右腕が力なく床に垂れ下がり、その手にあったシンボル辞典が床に投げ出された。左腕で両の目を覆う。解からない。夢なんかで未来が解かる筈が無いと、ほたるは強く自分に言い聞かせる。
ほたるは辰伶のことを兄だと思ったことは一度も無い。一緒に暮らしだしたのは中学3年が終わる頃で、その頃から母屋と離れ屋に別れて住んでいた。誕生日は半年しか違わないし、また辰伶は事情によって一年近く休学していたことがあったので、高校では同学年であった。それらのことから余計に兄としての印象を薄くしている。家族としての情はあるけれど、兄弟という気がしない。
しかし辰伶はほたるのことを弟とはっきり認識しているらしく、煩いくらいに世話を焼こうとする。ほたるの心境など、少し鈍感なところのある辰伶には感知できないだろう。ほたるの想いなど、一生気づきもしないだろう。
そのことをほたるは別段不幸に思ってはいない。それ程苦痛に思っているわけでもない。母を亡くしてから、ほたるにとって辰伶は最も愛する者だが、別に肉欲を満たしたいわけではないし、独占したいと思っているわけでもない。ただ、好きだから傍に居たい。それだけだ。
ずっと傍に居て欲しい。それだけで構わない。
…望めるなら、もっと強くて、深くて、確かな絆が欲しいけれど。
おわり。来週はゆんゆん登場!(の予定)
(05/8/23)