01.愛


「ほたる、キサマに仕事の依頼があったぞ。幸村の紹介だ。明日の午後2時に依頼人を連れてくるそうだから忘れるなよ。…ったく、俺はキサマの電話番じゃないぞ」
「仕事……めんどくさいなぁ……」



 その探偵事務所は全くの普通の家屋に見えた。いや、普通のと言ってしまっては聊か語弊があるだろう。椎名ゆやはここへ到るまでの行程を思い返した。

 白い塀を穿つ片開きの木戸。椎名ゆやをここに連れてきた漢、真田幸村はそれを慣れた様子で開けて、その先へと誘った。竹垣に挟まれた小径を抜けると、大きな庭池のある美しい日本庭園が椎名ゆやを圧倒した。そんな家屋が、ごく一般の民家であろうはずがない。屋敷という呼称こそが似つかわしい。池の向こう側の植え込みの間から屋根が見えたが、あれは隣家だろうか。そちらも結構なお屋敷のようだった。

 普通の、というのは普通に人が生活している場所であるという意味でのことだ。椎名ゆやは探偵事務所を紹介して貰う筈だったのだが、案内されたのがこの屋敷だった。尚且つここが事務所などという散文的な場所でなく、人が生活している居住空間であることは、彼女が座っているソファの居心地の良さが雄弁に語っている。

「あの、幸村さん。勝手に上がり込んじゃって良かったんですか?」
「いいの、いいの。ここはいつもそうだから」

 これから紹介される探偵は幸村の知人であるようだ。家主の許可を得ることなしにさっさと上がり込むずうずうしさは、相当親しい間柄と思って良いのだろう…と、思うのだが、この幸村という漢は育ちが良いのか誰に対しても遠慮というものがないので、その保証はない。椎名ゆやは少し不安になった。

「…約束の時間、過ぎてますね」

 時計の針は既に3時半を回っていた。

「あれ、本当だ。じゃあ、今日は辰伶さん、居ないのかな?」
「探偵さんは辰伶さんと仰るんですか?」
「彼は違うよ。彼は…」

 奥の扉が開いた。幸村は破顔して声を掛けた。

「ヤッホー、ほたるさん」

 幸村がヒラヒラと手を振る。ほたると呼ばれた漢は表情も変えず、客達をジッと見つめた。

「え…っと、お前は…」
「真田幸村だよ。いい加減、覚えて欲しいなあ」
「…何しに来たの?」
「嫌だなあ。昨日、言っといたじゃない。依頼人を連れて行くよって」
「俺に言ってもムダだよ。どうせ忘れるから」

 少しぼんやりとした口調。まるで今の今まで眠っていたかのようだ。ほたるはゆや達の向かいに座った。口調とは裏腹に鋭い視線がゆやと幸村と交互に向けられる。表情の無いほたるの顔にその瞳は、見る人に冷酷な印象を与える。ゆやはほたるの視線を怖いと思った。

「辰伶さん、居ないの?」
「…出かけてるけど。あのさ、あいつに用なら母屋に行けば?」

 庭池の向こう側の植え込みの間から見えた屋根を、ゆやは思い出した。あれは隣家ではなく母屋だったのだ。するとここは離れということになる。ゆや達が入ってきたのも正門ではなく通用門か裏門だったのだろう。どうりで屋敷の立派さに比べて門扉が簡素だった訳だ。それにしても、そんな資産家が探偵なんてちょっと信じられない。

「あの、あなたが探偵さんですか?」

 躊躇いがちに訊ねると、ほたるは即答した。

「違うよ」
「え? …それじゃあ…」
「俺、探し物って苦手なんだよね。失くすのはしょっちゅうだけど。それから調べ物も嫌い。面倒だから。誰かの後を付け回したり覗き見したりするのってストーカーみたいでウザイし…」

 幸村が笑ってそれに答えた。

「ほたるさんは探偵じゃないよ」
「じゃあ、先程からお二人が言っている辰伶さんという方が…」
「彼も違うっていうか…ゴメンね。説明不足だったよ。ゆやさんに紹介したいのは、このほたるさんなんだけど、彼は探偵とはちょっと……というか、全然違うんだよね」
「だって、幸村さん…」

 ゆやは人を探していた。それなら専門家に相談するといいと幸村が勧めてくれたから、てっきり探偵を紹介してくれるのだと思っていたのだ。見たところ、ほたるは警察関係の人間にも見えない。

「…もしかして、占い師とか霊能者とかですか?」
「うん……まあ、そういう系統かな…」
「え? 俺ってそうなの?」

 ほたるの反応に、ゆやはますます不信感を募らせた。

「そういえば、まだお互いに紹介もしていなかったね。ごめんね。なんだかタイミングがずれちゃって。ほたるさん、こちらは依頼人の椎名ゆやさん。ゆやさん、こちらはほたるさんって言うんだけど…ゆやさんは壬生一族って知ってるかな?」

 その名はゆやも一度ならず耳にしたことがあった。ただし、余り良い噂ではない。壬生一族というのは超能力者の集団で、妖魔を退治すると称して多額の報酬を要求するのだとか…

「ほたるさんは、その壬生一族なんですか?」
「うん」

 ゆやの眉目がキリキリッと引き締まった。

「失礼ですけど、私、帰ります。私は別に妖魔退治なんて依頼するつもりはありませんし、インチキ占いに高額のお布施を払うなんて、冗談じゃないです!」

 幸村は苦笑しながらゆやに説明した。

「ちょっと誤解があるみたいだね。壬生一族もピンキリで、ゆやさんの言うようなお高いヒトもいるし、中には偽者もいるみたいだけど、でも、このほたるさんは本物の壬生一族で、料金も…まあ、きちんとはしてないけど、ちゃんと依頼に見合った分しか要求しないから安心していいよ」
「でも…」
「僕がそんな胡散臭い輩をゆやさんに紹介するわけないじゃないか」
「そうですね。幸村さんが紹介して下さるなら…」

 ほたるはチラリと幸村を見遣った。

「俺よりもお前の方がよっぽど胡散臭いと思うけど」
「ひどいなあ、ほたるさん」

 幸村は人好きのする笑顔を振り巻いた。それでも雰囲気は全く和みはしなかったが、幸村はマイペースな性質らしく気にしていない。

「因みに、依頼料のことなんですけど、料金表とかないんですか? 幸村さんが『きちんとはしていないけど…』と仰ったのが凄く気になるんですけど」
「あっはっは。ゆやさんは本当にそういうところはしっかりしてるね」
「お金は大事ですから」

 ほたるは少し困ったように髪を掻き揚げた。

「俺、お金のことって、あんま良くわかんないんだよね。いつもテキトーだから」
「ゆやさん、チャンスだよ。この際だから値切り倒しちゃおう。辰伶さんが居るとそうはいかないけどね」
「さっきは辰伶が居なくて残念そうだったくせに」
「だってココ、辰伶さんが居ないとお茶が出てこないから」

 先程から幸村やほたるの口に上っている辰伶という名前は、ほたるの助手か何かだろうかと、ゆやは思った。…それにしては、助手の方が母屋に居るというのは何か変ではないだろうか。目の前のほたるという人物と、名前だけ耳にした辰伶という人物の関係が、今ひとつ理解できない。

「依頼の内容を教えてくれないと、お金の事も何とも言えない」

 ほたるはポケットから煙草を取り出し、一本を咥えて火をつけた。

「そうだね。ゆやさん、話してあげてよ。大丈夫、成功報酬だから、話すだけならタダだよ」

 幸村の「タダ」という言葉が効いた訳ではないが、ゆやは依頼の内容を説明することにした。

「あの…その前に」
「何?」
「すみません、私、火が怖いんです」
「ああ…」

 ほたるは火をつけたばかりの煙草を灰皿へ押し付けた。ゆやは再度謝ると、話し始めた。

「私、背中にキズのある漢を探してるんです。忘れもしない、あの紅十字…」

 意識せず、拳に力が入る。

「4年前、私の目の前で、私のたった1人の兄を殺した漢を探して欲しいんです」
「兄…」

 ぽつりとほたるが呟いた。その目がゆやをじっと見つめる。

「あの…」
「続けて」
「はい。…その日、夜勤の兄様を送り出して、ふとみると、私は兄様の忘れ物に気づきました。今出たばかりだから、走って追いかければすぐに掴まえられると思って、それを届けに兄様を追いました」

 懐かしい風景。そう、その日、兄は夜勤だったから、昼間には珍しく家に居た。近所の神社が縁日だったので、ゆやは兄に連れて行って貰ったのだ。花模様の浴衣を着て、大好きな兄と手を繋いで……ゆやが出店の風車を綺麗だと言うと、兄は優しく笑ってそれを買ってくれた。忘れもしない、12歳の誕生日の…

「すぐに兄様に追いつくことができました。私が呼ぶと兄様は振り返って、少し驚いた顔をして。兄様の忘れ物を高く振りかざして見せたら、兄様はちょっとばつが悪そうに頭を掻いたわ。兄様は私の方に歩み寄ってきて、その背中からその漢はっ…!」

 地平近くに真っ赤な月。突然の凶事にゆやは狂乱した。両親のいないゆやにとって、歳の離れた兄は親代わりでもあった。たった1人の肉親。その兄を、その血を身に浴びるほどの間近で殺された。混乱の中で、ゆやは眼前の光景を否定して絶叫した。何を叫んでいたのか、自分でも覚えていない。

 真っ赤な月の、その禍々しい光を浴びた殺人者の姿。感情の見えない冷酷な瞳がゆやを見下ろした。殺人者はゆやの兄の血に染まった凶器を再び振りかざし、ゆやにまで襲い掛かった。腹部に熱い痛みが走った。その激痛が、ゆやを現実に引き下ろした。そう、これは現実。ゆやに一瞬の理性を取り戻させた激痛は、殺人者に対する憎悪を呼び覚ました。ゆやの中で憎悪と復讐の炎が滾った。

「私はその漢の姿を目に焼き付けた。絶対にこの漢を探すと、心に誓った。背中に紅い十字のキズを持つこの漢を探し出して、兄様の仇を討つと」

 ほたるは依然としてゆやを見つめたまま言った。

「仇を討つって、殺すってこと?」

 ゆやは無言で頷いた。瞳が強い光を放ち、その決意の固さを訴える。

「俺は探すだけでいいの? 代わりに殺してくれってことじゃなくて?」
「兄様の仇は、私のこの手で」

 ほたるは溜息をついた。

「仇討ち、多分ムリだと思う」

 ゆやは憤りに大きく目を見開いた。

「協力してくれないってことですか? 人殺しの片棒を担ぐのは迷惑ということですか? だったらいいです。貴方には依頼しません」
「そういうことじゃなくて…。別にさ、アンタが人殺しになることなんか止めないよ。そんなのその人の勝手だと思うし。あ、でも、こういうこと言うと、辰伶が怒るんだよね。怒られるのヤだから一応言っとくけど、人殺しなんて良くないよ」

 全く誠意を感じさせないほたるの引止めに、ゆやは唖然とした。怒る気にもなれない。さらにほたるは全くやる気のなさそうなことをゆやに言った。

「仕事するの面倒だから、別に他の人のところに依頼に行ったって構わないけどさ、その前に、ちょっと訊きたいんだけど」
「…何ですか?」
「アンタの殺された兄さん、お墓はどこにあるの?」
「お墓…ですか?」
「葬式は? どこでどんな風に? 誰が手伝ってくれた? 誰がお参りに来た?」

 ゆやは額に手をあてて考える。ほたるの質問の一つ一つを浚ってみるが、どれもこれもゆやの記憶に無かった。そう、兄の墓所という絶対に忘れるはずの無いことまで、ゆやは思い出せなかった。まるで始めから無かったかのように。

「わた、私…」
「てゆーか、アンタ、いつ何処でコイツと知り合ったの?」

 ゆやはゆっくりと隣に座る幸村を見た。幸村は相変わらず人好きのする笑みを浮かべている。その笑顔が急に恐ろしく感じた。

「アハハハ。バレちゃったか。完璧のつもりだったんだけどなあ。どうしてボクが偽者だって判ったの?」
「ゆ、幸村さん…?」

 ゆやの身体は細かく震えた。隣に座る幸村が、いや、幸村の偽者が怖い。もっともっと怖いことを思い出してしまいそうで、ゆやは恐怖に震えた。

「俺、今日の2時に幸村に会ってるんだよ。…ヘンだと思ったんだよね。昨日、辰伶から2時って聞いてたのに、その直後にお前から電話があって3時にって言うじゃない。辰伶が間違えて伝えたのかなって思ったけど、幸村、ちゃんと2時に来たから」
「それじゃバレバレだね。僕としたことが、しくじったなあ」
「それにさ、本物の幸村はもっと抜け目がないんだよ。少なくとも、俺に遅刻させるようなヘマはしない」
「どういうことか判らないなあ。詳しく教えてよ」
「ヤダね」

 幸村の偽者が炎に包まれた。ゆやが悲鳴をあげる。

 …―― あーあ、せっかく久々に君と遊ぼうと思って、一生懸命準備したのになあ…

「お前と遊ぶ気無いから」

 …―― つれないなあ。こんなに愛してるのに…

「俺は嫌い」

 幸村の偽者は紙製の小さなヒトガタになり、灰皿の上で燃え尽きた。妖魔の気配は去った。

 炎を召喚する能力。これが壬生一族としてのほたるの超常能力だ。

「私…これ、見たことある…」

 ああ、そうだったと、ゆやは思い出した。私は、私も…

「アンタは兄さんに会えるよ」

 ほたるの言葉の意味を、ゆやは理解することが出来なかった。ゆやだったものは小さなヒトガタとなってソファの上に落ちた。

「あの妖魔もたいがいシツコイっていうか…」

 ヒトガタを使って幸村に扮していたのは、ほたるには旧知の妖魔だ。その妖魔が同じくヒトガタでゆやを造り、操っていたのだ。この妖魔は一体何が気に入ったのか、ほたるに付き纏ってくだらない遊びを仕掛けてくる。

 妖魔の愛と人の愛は違う。妖魔の愛は深く、そして残酷だ。

 幸村に扮していた妖魔は、その依挫であったヒトガタをほたるに燃やされたが、それで滅んだわけではない。妖魔を完全に消滅させるのは難しい。一時的に追い払ったり封印したりするのがせいぜいだ。

「でも、あいつは…あいつだけは絶対に消してやる」

 それはほたるの、ほたるの魂に対する誓約。あの妖魔だけは赦さない。亡き母の為に、ほたる自身の為に。そして……ほたるの異母兄である辰伶の為に。


 その日の午後2時のことだった。ほたるは離れの居間兼応接室で、時間通りに客を迎えた。

「ヤッホーv ほたるさんvv」
「え…っと、お前は…」
「真田幸村だよ。たまには覚えてて欲しいなあ」

 勧められるのを待つことなく、幸村はさっさとほたるの向かいに座る。礼儀正しく待っていても、ほたるは「どうぞ」なんて言ってはくれないことを、彼は経験的に知っていた。また、ほたるが礼儀に頓着しない性格であることも、熟知していた。

「辰伶さんは居ないの? 残念だなあ」
「…何で皆そう言うのかなあ。てゆーか、辰伶に用なら母屋に行けばいいのに」
「だってココ、辰伶さんが居ないとお茶が出てこないから」
「俺はお茶汲み係りではないんだがな」

 その声を聞いて、幸村は破顔した。

「なんだ。辰伶さん、居たんじゃないか。その香りはアールグレイだねv 嬉しいなあvv」
「電話で貴様がずうずしくも指定したんだろうが」
「指定だなんて。ちょっと希望を言ってみただけだよv」

 そんな無視しても良いような要求を呑んでくれる辰伶の律儀さは、彼の淹れた紅茶にも表れている。幸村はその芳香を堪能した。

「ジャクソンかいv 素敵な香りだvv」
「…ヘンな味」

 絶賛する幸村とは対照的に、ほたるは渋面を作っている。

「カップも機能的で趣味がいいね。僕の喫茶店で働かない? 優遇するよv」
「お断りだ。それより貴様に訊きたいことがある。最近、俺の携帯にやたらとほたるへの依頼の電話が掛かってくるんだが、これは一体どういう現象なのか説明しろ」
「皆、辰伶さんの声が聞きたいんだよ」

 辰伶は冷々とするような鋭い眼光で幸村を睨みつけた。

「俺は冗談が嫌いだ。本当のことを言え」
「やれやれ、相変わらずだなあ。だってさ、ほたるさんに言っても忘れられちゃうだろ。絶対に遅刻するし。その点、辰伶さんに言っておけば確実だからね」
「な…」

 余りのことに辰伶は絶句した。言われてみればそうだ。ほたるが寝坊したり依頼人との約束を忘れたりするのはいつもことだが、それを自分がほたるへ伝言し忘れた所為だと依頼人に思われては堪らない。だから辰伶はほたるへの依頼を託った時は、寝ているほたるを叩き起こしてでもスケジュールを守らせるのだ。それを幸村にすっかり読まれていた。

「ほたるさんに時間通りに逢いたかったら辰伶さんを通せって、この業界じゃ常識だよ。それに辰伶さんのお茶は美味しいしvv …本気で僕の喫茶店に引き抜きたいなあ」

 自分の異母弟のだらしなさが業界内で常識といわれるほど有名であるという事実に、辰伶は心底情けない思いを味わっていた。しかし当のほたるは涼しい顔をしている。

「…俺は携帯の番号を教えた覚えは無いぞ。まさか、ほたる…」
「俺じゃないよ」
「幸村、貴様は誰から聞いた」
「歳子さんが教えてくれたよ」
「なんだとっ」
「独身セレブ男性情報と交換にね。他の人には5千円から1万円くらいで売ってるみたいだよ」
「歳子の奴っ」

 辰伶は猛然と部屋を出て行った。その勢いのままに、携帯電話の番号の変更手続きをしに出かけたのだが……後日談になるが、辰伶の新しい番号は歳世を経由して歳子に知れるところとなり、結果として再び彼女の懐を温めただけに終わったのだった。

「ところでさ、依頼人を連れてくるんじゃなかったの?」

 ほたるは辰伶からそう聞いている。

「それがねえ、京四郎さん、急用ができちゃって。僕が代わりに預かってきたんだけど…」
「お前、喫茶店はいいの? 休業日?」
「才蔵に客席を分身の術で埋めてもらって来たから大丈夫だよv」
「それなら満席で、お客さんが来ても帰るからいいね」

 …穴山小助に身代わりを頼もうとは思わなかったのだろうか。ほたるの「客が帰るからいい」というのも問題発言だ。

「これを見て欲しいんだけど」

 幸村は鞄の中から木製の箱を取り出した。封印の符が貼られている。

「これを君の炎で焚き上げて欲しいんだ」

 ほたるは白木の箱を手に取り、封印の具合を調べたり、或いは振ってみたりして丹念に見入った。

「何が入ってるの? 京四郎って、あの京四郎?」
「そう。壬生京四郎さんが依頼人なんだよ」

 壬生京四郎。彼の存在は壬生一族の中でも特殊である。一族で彼の名を知らぬものは無いが、彼の能力は秘されていてそれを正しく知る者も無い。謎めいた存在だ。

「その箱の中には、ある漢の身に掛けられた呪詛を移したヒトガタが入っているそうだ。ただし、もう呪は祓われたから、ただの人の形をした紙切れに過ぎないのだそうだけれど」

 或る漢が妖魔の呪詛を受けた。呪詛によって漢の精神は荒廃し、ある日のこと、彼は最愛の妹をその手で殺そうとしている自分に気づいたのだという。寸でのところで正気に戻ったものの、己の所業に戦慄した漢は知り合いであった京四郎に助けを求めた。漢から依頼を受けた京四郎は紙でヒトガタを作り、それに妖魔の呪詛を移して斬って捨てたのだ。

 呪詛を破ることに成功し、真っ二つになったヒトガタが残った。用済みとなったヒトガタは焚き上げて浄化せねばならない。一度呪術に触れたモノは、それだけで呪具と成り得るからだ。ところがいくら燃やそうとしても、何故かヒトガタに火がつかなかった。

「それで、俺に燃やして欲しいってわけ?」
「ほたるさんの特殊な炎なら、ひょっとしたら…と思ってね」
「箱ごと燃やしちゃっていいの?」
「紙に火がつかないなんて異常だから、もう既に何か良くないものが憑いているのかもしれない。だから封印を破らずにそのまま箱ごと焼いたほうが安全だろうって、京四郎さんは言ってた」
「ふうん。…この依頼、受けてもいいよ。でも、何か気になるなあ。開けていい?」
「僕も預かった身だから、何とも言えないなあ。京四郎さんに確認して来るよ」

 こういう経緯で、ほたるはその箱を預かった。そして、幸村の返事を待っている間に、偽者の幸村がゆやという娘のヒトガタを連れて現れたのだった。

 ほたるは煙草に火をつけた。苦い煙を深く吸い込んでゆっくりと吐き出す。そして咥え煙草のまま作業を開始した。

 箱の封印を破って蓋を開ける。中には真っ二つになったヒトガタが入っていた。それを取り出し、テープで補修する。少し雑だが問題は無い。

 ほたるが気になったのは、箱の中から微だけれど切実に訴える声を感じたからだ。それは決して邪悪でなく、悲痛な念だった。

 テープで補修されたヒトガタを灰皿の上に置いた。その隣に、ゆやだったヒトガタを置く。そこに火のついた煙草を置くと、火はヒトガタに燃え移り、簡単に炎を上げた。

 …―― ゆや …
 …―― 望兄様 …

 兄のヒトガタは、妖魔によって妹のヒトガタが作られ利用されることに心を痛め、それが故に燃やされる訳にはいかなかったのだろう。だから焚き上げることができなかったのだ。多分、ゆやの兄である漢を呪詛していた妖魔は、ゆやのヒトガタを作った妖魔と同じ。ほたるに付き纏っているウザイ奴だ。

 ヒトガタを浄化する炎の中に兄と妹の幻が視える。兄妹は仲良く手を繋いで、紫煙と共に空へ上っていった。呪詛、病魔、憎悪、怨恨といった暗い念だけでなく、愛情もヒトガタには移るのか。そんなこともあるのかと、ほたるは感慨深くそれを視ていた。

「辰伶、早く帰って来ないかな…」

 無性に異母兄の顔が見たくなった。


 おわり

(05/8/16)