想いを形に
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螢惑の為に弁当を用意するようになってから、当たり前だが辰伶が離れにいる時間は長くなった。これで家人に気づかれない訳が無い。
庵家で下ごしらえしてきた食材を携えた辰伶は、離れに直行する為に裏門から入った。そこを待ち構えられた。
「お帰りなさい、辰伶さん」
「……ただいま帰りました。…母さん……」
辰伶の母は声を荒げはしなかったが、その硬質な瞳に射竦められ、辰伶は酷く咎められているような気がした。彼女に対して隠し事をしているせいかもしれない。
彼女の表情からは怒っているのかすら解らない。無言の圧力に負けて、辰伶は自ら話を始めた。
「螢惑に勉強を教えているなんていうのは嘘です。俺は螢惑に逢いたくて、ここに通っています。俺は螢惑が嫌いではありません。むしろ個人的には好ましくさえ思っています。母さんの心を傷つけることは申し訳なく思います。でも、俺は螢惑を無視したくない。仲良くしたいと思います」
「…情けない」
抑揚のない呟きが、辰伶の心臓に冷たい針となって刺さる。親に反逆することが、こんなに精神に負担をかけるなんて、想像もしていなかった。しかし怖気づいている場合じゃない。本番はこんなものではないだろう。辰伶は螢惑のことだけを考えて、腹に力を込めて立っていた。
自分は螢惑に味方を作ってやれない。それならせめて、いついかなる時も自分は螢惑の味方でいようと辰伶は思うのだ。螢惑とは恋仲ですとは言えなくとも、自分は螢惑の味方であると表明するのだ。それが今の時点で辰伶にできる精一杯の誠意ある態度だ。
「この年にもなってそんなこと、いちいち親の許可をとるようなことですか。…情けない」
「……え…」
辰伶は母の双眸を見つめ返す。何も読み取れない。初めてこの家に来たころの螢惑に似ている。実の親子で、何年も一緒に暮らして来たのに、自分はこの母のことを全然理解していないのかもしれないと辰伶は思った。
「勝手にしなさい」
こうして辰伶は堂々と離れに通えるようになった。母の心情は推し測りがたいが、それから螢惑のことを「あれ」とは言わなくなった。それが辰伶には嬉しい。好きな人が「あれ」呼ばわりされているのが、辰伶はずっと嫌だったのだ。
「俺は辰伶のお母さんのこと嫌いじゃないよ。辰伶に似てるから」
もっと驚いたことに、あの日を境に辰伶の母は螢惑に声をかけてくるようになったらしい。それほど頻繁ではないが、たまたま顔を合わせた時になど『学校生活は問題ないか』とか『困っていることはないか』ということを機械的に聞かれるそうだ。
「そもそも俺は最初から憎んでないし。だいたい辰伶のお母さんは何も悪くないじゃない。筋道がしっかりしてていつも毅然としてる所は割と好きかなあ。それから……すごく繊細な人だよね」
何だか螢惑の方が、辰伶の母のことを理解しているようだ。自分には他人より見えていないものが意外に多いのかもしれないと、辰伶は思った。
何だか色々なことが上手くいって、これまで思い悩んでた分、拍子抜けしていないでもない。しかし辰伶が本当に家族を裏切るのはまだこれからなのだ。
今が束の間の平穏であることは、忘れていないつもりだった。
おわり