浅い眠りの長い夜
1人の使用人が急ぎ足に歩いていく。この家に雇われてまだ1ヶ月にも満たない新参者だ。その焦った様子を辰伶は不審に思って呼び止めた。
「それは螢惑の食事か?」
「は、はい。辰伶様」
「…こんな時間にか」
使用人はこの屋敷の離れに住まう異母弟の夕食を運んでいるところだったのだ。しかし辰伶の覚えでは普段よりも1時間は遅い。どんな不手際があったか知らないが、辰伶は腹立たしい気持ちになった。
「寄越せ」
「は?」
辰伶が差し伸ばしてくる手の意味が解からず、使用人は疑問の声をあげた。辰伶は余計に苛立った。
「俺が運ぶと言っているんだ。さっさと寄越せ」
「は、はい」
使用人は慌てて、言われた通りに食事を渡そうとした。そこへ辰伶の母が現れた。
「辰伶さん、そこで何をしているのですか」
「母さん」
辰伶の母親は辰伶と使用人を交互に見た。
「貴方が最近、離れに頻繁に出入りしていると聞きましたが、事実のようですね」
その噂はこの使用人も耳にしたことがあった。離れに起居する人物は、この家の当主が愛人に産ませた子供だ。そんな事情だから異母兄弟である辰伶が螢惑に親しむ理由がない。むしろ忌避するものではないか。ところが毎日のように異母弟の元へ通う辰伶の姿を目にするので、使用人たちは口々にその行動を訝しがった。その声が辰伶の母親の耳に入ったのだ。或いはわざわざ告げ口しにいった者がいたかもしれない。
とんでもない場面に居合わせてしまったと、使用人は思いつつも、野次馬的な好奇心を膨らませていた。辰伶の弁明を興味津々に待ち構えている。
「それは、この家の為です」
辰伶は聊かも動じる風はなく、堂々と自らの行動について釈明した。
「妾腹の生まれといえども、螢惑にもこの家の名に恥じない学業成績を修めて貰わねば困ります。俺は螢惑に学習指導する為に、通っているのです」
「まあ、それは尤もなことです。では、家庭教師を雇って、あれにつけましょう」
「それは…」
「何もわざわざ貴方の貴重な時間を割くことはないでしょうに」
辰伶の言い訳の苦しさを、母親は率直に指摘してのけた。しかし強固に止めさせる気もないようだ。
「好きになさい。ただし、自分の生活を乱されぬ程度にね」
「無論です」
去っていく母の後ろ姿を窺いながら、辰伶は安堵の息を漏らした。その様子を傍から見ていた使用人の目に気付いて、辰伶は性急に使用人の手から螢惑の食事を攫った。
「さっさと行け。…食器は下げに来なくて良いからな」
辰伶は足早に離れへと行ってしまった。言訳がましい辰伶の説明に首をかしげながら、使用人は持ち場へと戻っていった。噂話の種を手に。
気怠く投げ出された体は、未だに熱の名残を惜しんでいる。それでも辰伶は呼吸が整うと身を起こし、散乱している衣服を拾い集めた。螢惑はベッドに寝そべったまま、緩慢に身支度を整える辰伶の背中を見ていた。
「シャワー、借りるぞ」
「…おまえの家のでしょ…」
そうだった。辰伶は螢惑からは見えない角度で苦笑した。ここは辰伶の家の離れであったから、ここに備わっている浴室も辰伶の家のものだ。しかし螢惑が暮らす離れの家屋は、辰伶にはどうしても螢惑の領域に思えて、たびたび今のような会話をしてしまう。
熱めのシャワーで、辰伶は螢惑との情事の痕跡を洗い流した。辰伶の中に吐き出された螢惑の情欲が、脚を伝い落ちて排水口へ吸い込まれていく。
異母弟との背徳の関係。背徳の行為。身体の奥に残る疲労感を、辰伶は考えまいとした。何も、何も考える必要はない。
体の水滴を拭い去り、衣服を身に着けた。首筋など、肌が見えるところを入念にチェックする。螢惑の印は全て着衣の下だ。
「そうだ。食器を…」
いつもであれば辰伶は、シャワーを浴びた後はそのまま母屋の自室に帰ってしまう。再び螢惑の顔を見てしまったら、もう一度触れたいと、触れられたいと未練がましく思ってしまうから。
螢惑の部屋のドアの前に、空の食器が置かれていた。きちんと食べてあったことに、何故だか少し安心した。辰伶がこれを持って訪れた時は、螢惑は食事など見向きもせず、辰伶をベッドに引き込んだのだ。
『螢惑、食事を…』
『後でいい。俺はね、辰伶に飢えてるの』
『し、しかし…』
『大丈夫だよ。途中でへばったりしないから。…ちゃんと満足させてあげる…』
思い出して、辰伶は赤面した。螢惑の言葉に嘘はなく、辰伶は散々にあられもない声をあげ、夢中になって彼の背中を掻き抱いたのだ。
螢惑と辰伶が関係を持ってから、まだひと月しか経っていない。或いは、もうひと月も過ぎてしまったというのだろうか。螢惑に「好き」と言われて、「したい」と迫られて、辰伶は流されるように受け入れてしまった。唐突な告白に驚きが大半を占めたが、螢惑の言葉に歓喜したのは紛れもない事実だった。
軽はずみな行為だったかもしれない。しかし後悔はない。あれから殆ど毎日のように、辰伶は離れに住まう螢惑のもとへ通った。何処に居ても誰と居ても、彼のことばかり思い出してしまって、通わずにはいられなかった。
螢惑は、辰伶の父親の愛人の息子であるという立場から、母屋に近寄ることは出来ない。辰伶から螢惑に逢いに行くしかないので、どうしても一方的になってしまうのだが、時に辰伶は不安になることがある。足繁く通いつめる異母兄を、螢惑は迷惑に感じていないだろうか。本当は鬱陶しいと思ってはいないだろうか。2人の関係が両親に露見したら、辰伶自身も激しく責め立てられるだろうが、螢惑の立場はもっと厳しいものとなるだろう。
思考に沈む辰伶は、そのまま今日あった出来事を思い出してしまった。学校から帰宅途中の電車で、辰伶は螢惑を見かけたのだ。辰伶と螢惑は別々の高校に通っていることもあって、日中に顔を合わせることは殆ど無い。同じ車両に乗り合わせるのは非常に珍しいことだった。
螢惑は座席で居眠りしていた。彼が眠っているのを見るのは初めてで、そのあどけない寝顔に辰伶は暫し見惚れていた。まるで幼子のようで、とても可愛らしいと思った。
電車の揺れに任せてふらついていた螢惑の上体が大きく傾いて、隣に座っていた男子高校生に凭れかかった。しかし螢惑は目覚めることはなく、無防備に身体を預けて眠り続けていた。隣の男子高校生もそれを咎める風も無く、そのまま寝かせていた。螢惑と同じ制服だから、クラスメイトだろうか。長く見過ぎていたのが良くなかったのか、男子高校生が辰伶の視線に気付いた。そして、クスリと意味ありげに微笑った。
途端に辰伶は恥ずかしくなった。居た堪れず、タイミングよく開いた電車の扉から、気付いた時にはホームへ飛び出していた。周囲の人間に己の心情を悟られたくないという思いから、無意味に自販機で缶飲料を買った。喉など渇いていなかったから、飲み干すまでに電車を3本見送った。
螢惑の友人らしき人物の、あの笑みは何だったのだろう。過剰な自意識ではない。間違いなく辰伶に向けられたものだった。
辰伶は螢惑が好きだ。螢惑も辰伶を好きだと言った。互いの体温も知り尽くしている。なのに、外では声をかけることもない。隣り合って座ることもないし、凭れかかることなどあるはずがない。
それは仕方のないことだ。辰伶と螢惑が親密にしているところを、何処で誰に見られるか解からないし、それが家の者…特に母の耳に入ったらと思うと、どうしても慎重にならざるを得ない。自分の実の息子が、夫の愛人の子供に親愛の情を抱くことを、辰伶の母は快く思わないだろう。
仕方のないことと解かっていても、辰伶の心は塞いだ。堂々と螢惑と交友を結ぶことの出来る彼の友人が羨ましかった。一層のこと嫉ましかった。
家人に怪しまれないために、螢惑の部屋には長く居られない。限定された時間の短さに煽られて、抱き合うことに没頭してしまう。それが一番互いの存在を確かに感じさせてくれる行為だから。離れている時間を一挙に埋めて、深く深く相手と繋がれる行為だから。
だから辰伶は螢惑の体温を知っていても、それ以外のことは何も知らない。ひと月になるというのに、互いに互いのことは何も知らない。行為の後は早々に母屋へ帰らなくてはならない為に、辰伶は螢惑の寝顔さえ見たことが無かったのだ。
そんな関係に、螢惑は何も思わないのだろうか。小さな疑問が、辰伶の心に疑念の影を落とす。螢惑が必要としているのは、実は辰伶の体だけではないだろうか。最初に螢惑はこう言ったのだ。好みのタイプだから、したいと。螢惑が関心を寄せているのは外見だけで、辰伶の人格には興味が無いのではないだろうか。
猜疑する心が辰伶を酷く苛むが、悩みの末に出る答えは、それでも自分は螢惑に恋い焦がれているということだった。螢惑の関心を引くのが容姿だけでもいい。身体だけが目的でも構わない。全く見向きされないよりかは、ずっといい…
恋人であるとはっきり確認したい。しかし、それを螢惑に確かめて、もしも否定されてしまったらと思うと、辰伶はそれが怖くてできないでいた。
辰伶が部屋を出て行った後、螢惑は冷めた夕食をとった。それは食事をしているというよりは、片付けているような印象で終わった。
離れに住む螢惑へは、使用人によって母屋から食事が届けられていたが、実際これまで一度もそれに手をつけたことはなかった。椀の蓋を取ってみることもせずに、そのまま返していた。
朝はコンビニに立ち寄り、昼は学校の購買を利用する。夕食はその時の気分次第で、学校帰りに仲間とファーストフード店に寄ることもあれば、昔から世話になっている知人の家でご馳走になることもしばしばあったし、この離れの炊事場を利用して簡単な調理をすることもあった。
螢惑がそんな態度にでるのは、それは螢惑の母を捨てた父親への反感からだ。それなのに父親のもとへ身を寄せているのは、1つには自分の母の愛した男がどれ程の人物か見てみたかったのだ。
実の息子である螢惑から見ても、己の母は弱くて愚かだった。いつも男たちに頼って、縋って、裏切られて、捨てられていた。男と別れるたびに、無理に酒を飲んで泣いていた。
『母さんね…やっぱりお前の父さんが一番好きみたい。やっぱり、あの人とじゃなければ、幸せになんかなれないのよ……』
それは過去の恋への未練というよりは、自分の不幸(失敗ともいう)に対する言い訳、もしくは責任転嫁だと螢惑は思う。もっと子供だったころは彼女に同情しないでもなかったが、何年も同じ愚痴を聴かされては、いい加減うんざりともする。反省が無いから進歩もない。不慮の事故で死ぬまで、彼女は変わらなかった。
一方で、螢惑は自分の父親である男に対して少々興味があった。ひょっとしたら、本当に母が執着するに足る人物だったかもしれない。余り期待せずに、それでも何かを期待して父親である人物にあいまみえた。結果として、螢惑は欠片ほどの期待さえも捨てることとなってしまったのだが。
今夜も食事に手をつける気など無かった。時間を過ぎても食事が運ばれて来なかったので、やっと諦めたかと思った。何の感慨もなく、螢惑はインスタントのカップ麺を啜って済ませた。
ところが、どういう気紛れか今夜は辰伶が食事を運んで来た。どんな経緯でそんなことになったのかさっぱりわからなかった。テーブルに甲斐甲斐しく配膳する辰伶の背中を見ているうちに、螢惑は堪らなく胸が苦しくなった。
辰伶しか、要らない。
家族なんて要らない。辰伶だけが欲しい。その想いのままに、螢惑は辰伶を抱き締めた。
この部屋で螢惑と辰伶は、会って、抱き合って、欲望を吐き出す。その繰り返し。話をするでもない。ただ、互いの体を貪り合う。まるで体以外は必要ないかのようだ。しかし、時にそれが螢惑には酷く虚しく感じられる。
辰伶の体を求めたのは螢惑自身であったし、彼がそれに応じてくれたことは嬉しかった。望んだ相手に触れることが許されて、幸せだった。だがそれも束の間で、螢惑の中では日に日に疑いの心が育ちつつある。
辰伶が螢惑を必要とするのは、快楽を得るための手段としてだけではないだろうか。なにしろ辰伶は、あの男の息子なのだ。そう考えて、直後に自分もあの男の息子だったと思い直して虚しくなる。
体だけの関係だとして、それで自分に何か不都合があるだろうかと、螢惑は考えた。やりたい相手とやれて、体は充足している。辰伶がどんな気持ちで受け入れているかなんて関係ない。…関係ないはずだ。
今夜も行為が終わった後は、辰伶はいつものように部屋を出て行った。普段と何も変わらない。ドアが閉じられる虚しい音。
ふと見ると、テーブルの上には、手付かずのまま冷め切った夕食の膳が放置されいる。螢惑のために辰伶が運んできたものだ。腹は減っていなかったが、螢惑は箸を取った。
無理に食物を胃に詰め込みながら、螢惑は今日の出来事を思い出していた。学校からの帰りの電車では、珍しく座席が空いていたので、同級生のアキラと並んで座った。電車の揺れに眠気を誘われて即行で熟睡していた。アキラに起こされるまで、下車する駅にも気づかなかった。
『貴方が凭れてくるものだから、肩が痺れてしまいましたよ。全く、人をクッションか何かと勘違いしているんじゃありませんか?』
『クッションだったら、うるさくなくていいのになあ…』
『他人に迷惑をかけておいて、そういうことを言いますか。…そういえば、いいんですか?あの人、何か誤解していましたよ』
『あの人って?』
『貴方の想い人ですよ』
『…辰伶が居たの?』
『あの人、辰伶っていうんですか。同じ車両に乗ってましたよ。途中で降りてしまいましたけどね』
『……』
『スマホの写真は顔だけだったので気付きませんでしたが、男だったんですねえ。思わず笑ってしまいましたよ』
『…辰伶が、何を誤解してたって?』
『貴方が私に凭れていたので、凄い目で睨んでましたよ。でも、私と目が合ったら、真っ赤になって電車を降りてしまいましたけどね』
『……』
『他人の恋愛に興味はありませんが、早くフォローした方がいいんじゃありませんか。何しろ凄い目で睨んでましたからね。殺されるかと思いましたよ』
そんな会話をしたのだった。
螢惑は空になった食器を廊下へ出した。感情の無い瞳で、ベッドの上で片膝を抱える。自覚は無いが、これは深く思い悩む時の彼の癖だ。
辰伶が求めているのが体の繋がりばかりではないと、本当はとっくに気付いていた。それなのに、どこか冷めた瞳で見てしまうのは、螢惑が恋愛感情というものを信じていないからだ。恋愛に対する根強い不信が、そのまま辰伶に対する不信感となっている。
辰伶の心が信じられなくて、時々、苛立ちに任せて辰伶を酷く手荒に扱ってしまうこともあった。悲鳴に近い喘ぎ声には悦楽の色はなく、気づいた時には失神させてしまっていた。頬には涙の跡。こんな扱いを受けたのだから、もう2度と通って来ないのではと思ったが、その後も変わらず辰伶は螢惑の部屋を訪れた。何をしても、どんな目に遭っても、辰伶は螢惑を拒まない。…今のところは。
もう理屈ではない。そこまで許されていながら、それでも螢惑は不信を拭い去ることができなかった。辰伶のことが好きなのに心を許せない。信じたくても信頼できないのだ。
「…俺って……親父に似てるのかな……」
何しろ、自分はあの男の息子なのだ。
その時、ドアの外で、食器が微かに触れ合う音がした。
不意に螢惑の部屋のドアが開いた。立ち去りかけた辰伶は足を止め、振り返った。螢惑の思い詰めた瞳が、辰伶を視凝めている。
「辰伶……今週末は暇?」
「ああ。特に用事は無いが…」
「ふうん…」
突然に訪れたこれまでにないシチュエーションに辰伶の心臓が騒ぎ出した。9割は期待に息をつめ、残りの1割は失望に備えて螢惑の言葉を待った。
「あのさ、俺も暇」
「……」
「……えーと…」
螢惑はドアに凭れ、俯き加減に頭を掻いた。
「…俺さ、デートってよくわかんないんだけど…辰伶はどこに行きたい?」
その時、辰伶の中で世界が弾けた。時間も空間も光の粒子となって飛び去り、音さえも消え失せた。視界と思考には唯一、螢惑だけが存在していた。一切の言葉も失ってしまった。
沈黙する辰伶に、螢惑は溜息交じりに呟いた。
「……迷惑?」
辰伶は激しく首を横に振った。迷惑な筈がない。喜びが大き過ぎて、表現する術がないのだ。言葉にならない想いが辰伶の瞳からこぼれて頬を伝った。
「そう。じゃあ、どこに行くか考えといてよ」
「俺は…お前が行きたいところなら何処でも…」
「俺はね、辰伶が行きたいところに行きたいんだよ」
ふと、螢惑は真顔で言った。
「あ、言っとくけど、ワリカンね。俺、あんま金ないから」
「承知した」
自分が奢っても良かったのだが。辰伶は苦笑した。
おわり