いつまでも、どこまでも


 螢惑はこれまでに見た夢の内容を全て記憶していた。それは昔の夢だった。昔の昔の大昔の夢。遥かな過去の記憶。

 辰伶のことは、出会う前から夢に見て知っていた。夢の中の辰伶は現代の日本とは違う服装で、不思議な力で水を操り、強くて美しい人だった。そんな彼に、夢の中の螢惑は常に苛立っていた。2人は互いにいがみ合い、憎み合い、殺し合ってさえいたのだが、同時に螢惑はその人に激しく焦がれてもいた。彼は母の仇の息子で、螢惑とは異母兄弟だった。

 現実世界で辰伶に出会った時は、夢の中の人物とそっくりな容姿に内心驚いた。それが自分の異母兄だと紹介されて、重なる夢との符号に驚きよりも納得した。夢と同じに、辰伶を憎みながら焦がれる二律背反を味わうのかと思うとうんざりした。

 厭だったはずなのに、螢惑は辰伶に恋した。彼を欲しいと思ってしまった。自暴自棄に近い感情で辰伶を求めると、螢惑の予想に反して辰伶は螢惑を受け入れてくれた。辰伶と恋仲になってからも夢を見たが、辰伶への恋情が増すごとに、夢の中の辰伶の印象も変わっていった。

 夢の中の辰伶は、表面的にはいがみ合っていたが、その裏で螢惑のことを陰から見守っていてくれた。ずっと螢惑に手を差し伸べてくれていた。それに気づかず、彼の手を掴まなかったのは螢惑。本気で殺し合った時も、最後の最後で辰伶は螢惑を殺さなかった。

 螢惑が辰伶に焦がれていたのと同じに、辰伶も螢惑を求めてくれていた。もう渇いた夢に悩まされることはない。初めて満たされた幸福感を、絶対に手放したくないと思った。

 その夢が、自分の前世の記憶であったことに気づいたのは、誤って辰伶をナイフで刺してしまった後だった。螢惑は占い喫茶に行って、朔夜の兄の過去見の占師である望に自分の前世を詳細に視てもらった。そして前世から続く辰伶との因縁と愛憎を知った。何度交差しても絶対に結ばれない運命の糸。この無慈悲な因縁の鎖を断ち切ってやることが、全身全霊で螢惑を愛してくれた辰伶への、螢惑なりの愛の証と思った。

 だから、日本から遠く離れたアメリカの学校に留学させられたことにも、螢惑は素直に従った。辰伶には2度と会わない。そう決心していた。

 ところが、そんな螢惑の決心を無にしてしまった人がいた。辰伶の母親だ。螢惑のアメリカ留学を指図したのは辰伶の母親だが、しかし彼女は螢惑と辰伶を引き裂く意図は無かったのだ。

 辰伶の母親にとって螢惑は夫の不倫相手の子供であり、憎悪の対象であるはずなのだが、螢惑は彼女から直接的には害を被ったことはない。最初はわざとらしく無視されたが、辰伶が螢惑と仲良くしたいと彼女に宣言してからは、結構会話した。彼女は螢惑には不思議なくらい明け透けに本心を語っていたように螢惑は思う。

 彼女は夫の不倫をかなり前から知っていて、螢惑が生まれたことも知っていた。しかし彼女はそれを糾弾する気はなかった。もともと政略結婚の色合いが濃く、損得割り切った関係だったので、夫が離婚を望むなら、辰伶を連れて家を出て行くつもりだったし、不倫相手を愛人として面倒みたいというなら、子供の認知や将来も含めてきちんと生計が立つようにしてやるつもりだった。しかし夫は何も打ち明けてはくれず、相談も何もなく、螢惑と螢惑の母を捨てて口を拭った。後に螢惑を家に入れた時も、彼女には何の相談もなく勝手に離れに隔離してしまった。

 彼女は螢惑にこうも語った。

『あの人としても、何とかして貴方を援助したかったのでしょうね。だから私の機嫌を損ねないように、わざと貴方に冷淡にしていたのよ。辰伶が私の前では貴方に素っ気ないフリしていたのと同じね』

 大きな人だと、螢惑は思った。彼女は、周囲の人間が自分の機嫌を損ねないことばかり考えていて、その実、彼女の気持ちなどまるで理解せず心を傷つけているのに、それも保身に傾く人間の弱さと理解して許しているのだ。この人は繊細過ぎる。相手の気持ちを汲み過ぎる。

『貴女は政略結婚と言ったけど、もしかしてあの人のことちゃんと好きなんじゃないの?』

 辰伶の母親は曖昧に微笑んだ。

 アメリカで螢惑は、暫くは何も積極的にする気がなかった。そんな状態だったから、自己主張の激しいアメリカ人の中で、螢惑は孤立した。ちょうど放っておいて欲しかったから、鬱陶しく構われることがなくて良かった。そんな日々を辰伶のことばかり考えて過ごした。辰伶に怪我を負わせた罪悪感よりも、辰伶に会えないことの方が辛いと気づくのに時間はかからなかった。

「俺と辰伶を引き裂く悪者役になって、俺の辰伶に会いたい気持ちを煽るとか、とんでもない人だなあ」

 辰伶に会いたい。しかしそれ以上に螢惑は、辰伶を不幸にしたくないという気持ちが強かった。自分が辰伶の傍にいたら辰伶が破滅する。螢惑はアメリカの下宿先のアパートを飛び出した。自分の力で、自分独りで生きるのだと、それが辰伶の為だと思った。

 螢惑は棲み処を転々とした。しかし何処へ行っても忽ち辰伶の母親に見つけられてしまう。観念した螢惑は、彼女に自分の気持ちを話して、これ以上追わないで欲しい、ダメならせめて辰伶には居場所を教えないで欲しいと頼んだ。

 彼女は聞いてくれた。その代わり、荒れた生活はやめて、何か生きる術を身につけろと言った。

「ありがとう……母さん…」

 望の過去見が教えてくれた。辰伶の母親は前世では螢惑の母だった人だ。そして現世の螢惑の母親は前世の辰伶の母親だった。彼女たちはには転生の度に交互に螢惑と辰伶の母親になるという因縁があったのだ。螢惑は前世で非業の死を遂げた母親が今世で強く生きているのを嬉しく思った。

 螢惑は寿里庵の紹介でカメラマンの助手をして写真の修業を積んだ。その中でジャンルは違うが芸術家の卵たちと知り合った。能力があってもチャンスがない。何度も挫折して、それでも夢を追うのを諦めない人間が集まって、ある時、合同で展示会を企画した。皆でありったけの金を掻き集めてさほど広くない画廊を何とか2週間借りた。螢惑もアパート代まで注ぎ込んだから展示会が終わったら宿無しだ。

 1日目、2日目と、客は1人も来なかった。3日目も1人の客も無く日が暮れた。画廊を閉めて外に出ると、辰伶の母親が待ち構えていた。

『アルバイトする気ない?』

 螢惑は1も2もなく飛びついた。何しろ今月のアパート代も払えない身上だ。

 彼女に車で連れていかれたのは高級ホテルだった。その1室で待ち構えていたスタイリストに服から髪から全身いじられて、パーティー会場に連れていかれた。彼女のパートナーとして。

 パーティー経験皆無の自分にエスコートをさせる意図が掴めず、螢惑は疑問をそのまま口にした。辰伶の母親は若いイケメンを連れて自慢したいのだと嘯いた。だったら辰伶に頼めばいいのにと言ったら、彼女と辰伶は顔が似ているからすぐに肉親と解ってしまうので、それではつまらないのだそうだ。会場の女性たちの嫉妬の視線が気持ちいいと彼女は嘯いた。

 螢惑は辰伶の母親に連れまわされて、何人かの人に紹介されて挨拶を交わした。ずっと食費を切り詰めていたこともあって、螢惑は空腹に耐えられなくなった。

 食事スペースで螢惑は日本人の老婦人と知り合った。眼差しが知的で、上品な夫人だ。この婦人も写真が好きで、話が盛り上がった。展示会の話をしたら興味を示してくれた。

 翌日、画廊の前には、街には不似合いの高級車が止まった。車からはSPに護られた老婦人が現れ、展示会を見て行った。画廊の近隣住民を驚かせた出来事は、これで終わらなかった。その翌日から、高級車が詰めかけ、それが一段落すると、今度はメディア関係と思しき人々やってきて新聞だかテレビだかで紹介され、一般客も増えて行った。

 この2週間で、展示会を開いた芸術家の卵たちには全員スポンサーや各方面のプロジェクトから声がかかり、もともと個人活動者の集まりだったこの集団は自然に解散となった。

 螢惑と親しくなった件の老婦人は、欧米で経済界のフィクサーと呼ばれている人たちの家庭教師をしていたという人物だった。螢惑の写真に惚れた彼女の伝手で、螢惑は仕事を積み重ね、成功を積み重ね、写真集を出版するまでになった。写真集はHOTARUの名前で出版した。高校時代の仲間内の仇名が由来だ。ふと、日本にいる仲間の顔を思い出して懐かしい気持ちになった。

 日本での出版の話も幾つもあったが、螢惑は日本は避けていた。日本に行ったら辰伶に会いたくなってしまう。辰伶を不幸にしないために、螢惑は2度と日本の土は踏まないつもりだった。

 その考えが変わったのは、辰伶がとある会計事務所に就職したと、辰伶の母親から聞いたからだ。その会計事務所の所長は前世で辰伶の師だった人物だ。この人物と辰伶が出会うと、辰伶が自分を殺して大きな使命の為に生きてしまう率が高くなるのだ。辰伶には使命や運命に縛られて欲しくない。

 螢惑は次の写真集は、予てから誘いのあった日本の出版社で出すことにした。サイン会も企画されていたから、その時に来日(帰国か)して、辰伶に会いに行く決心をした。

 サイン会が終わったら、辰伶を訪ねるつもりだった。しかし、サイン会の当日。

 写真集にサインを何冊書いたか、螢惑が顔をあげると目の前に辰伶がいた。何の心の準備も無く突然だったので、螢惑は頭が空っぽになった。辰伶も驚いて言葉が出ない様子だった。

 辰伶は綺麗だった。父親に破かれてテープで貼り継いだ写真よりも綺麗になっていた。ロングコートが全く嫌味でなく似合っている。

 頭は真っ白で、何も言葉が出なかった。しかし変に冷静な部分もあって、螢惑は写真集にサインではなく携帯の番号と時間を書いて辰伶に手渡した。

 果たして、指定した時間ピッタリに、辰伶から電話がかかってきた。忘れるはずのない懐かしい声。螢惑が宿泊しているホテルのラウンジで待ち合わせて、一緒に食事をした。

 食事の後は、当然のように2人はホテルで宿泊した。螢惑としては、あれから何年も経っているので、高校時代の勢いで求めては辰伶に負担が大きいだろうと自重する気でいた。

 しかし螢惑の気遣いは、辰伶によって無にされた。辰伶は待ち合わせ時間までの合間に薬局に寄って、必要なあれやこれやを購入して来たと言って、紙袋に入ったあれやこれやを螢惑に渡した。螢惑が紙袋の中を見たきり無言でいると、辰伶は真っ赤になって、ずっとしてなかったからこういうものの助けがないと辛いと思ったとか何とか恥ずかしそうに言っていた。その様子が可愛い過ぎて、螢惑は自重を忘れた。

 翌朝は2人共に起きられなかった。


 目が覚めた螢惑は、腕の中でまだ眠っている恋人の額に優しくキスをした。昨夜は少し無理をさせてしまったかもしれない。辰伶の体が良過ぎるのだ。辰伶を起こさないように、螢惑は静かにベッドを出た。

 いつもは辰伶が朝食を用意してくれるのだが、今朝のように辰伶が起きられない時は螢惑が用意した。螢惑はアメリカ時代の仲間のお陰で、メキシコ料理と中華料理が得意だ。

 螢惑と辰伶は公私ともにパートナーだ。

 螢惑に再会した辰伶は勤めていた会計事務所をあっさりと辞めて、HOTARUの名前を前面に押し出したフォトスタジオを開業した。開業資金には辰伶の母親の助けを借りた。開業費用の半分を出資してくれるというのを、螢惑は最初は辞退するつもりでいたが、2人の結婚祝いだからと言われて断れなくなった。

 辰伶もカメラのことを覚えて、螢惑の助手をしている。そしてHOTARUのマネージャーでもある。フォトスタジオの経営者でもある彼は、撮影会を催したり、デジカメ教室を開講したりして、螢惑の撮影旅行資金を用立てている。

 他にも、各界のパーティーに顔を出してHOTARUの売り込みをしたり、庵奈と組んでスーパーの特売をチェックするアプリを開発したりと、辰伶は何かと忙しい。そのうえ炊事や洗濯や掃除などの、螢惑の生活も支えているのだ。勿論夜の生活も。

 辰伶は毎日が充実して幸せだと言っている。そんな辰伶の為に、螢惑は今日から1カ月間、辰伶を助手に伴って、外国に撮影旅行に行くことにした。辰伶が同行するのはこれが初めてのことだ。

「この広い世界の綺麗なもの全部、並んで一緒に見ようね」

 2人でずっと夢見てきた未来を、今叶えよう。


 おわり