予兆

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 そんなことがあった日だからといって、バイトを休むわけにはいくまい。辰伶の顔を見るのが気まずかったからでは、決して、決して、決して無いが、螢惑はいつも通りにバイトに行ってから帰宅した。弁当になるはずだった食材が夕食となって螢惑を迎えた。

「おかえり、螢惑」
「ただいま、辰伶」

 アキラの表現を借りるなら、夕食を作って待っててくれるぐらいには、辰伶の機嫌は回復したということだろうか。いや、回復したのは体調か。

「謝らないよ」
「謝らねばならんようなことをしたのか」
「してない、こともない……ごめん。辰伶、嫌だって言ってたのに、やめてあげなくて。あと、殴ったのもごめん」
「謝らないんじゃなかったのか?」
「俺が悪かったことは謝るけど、辰伶が悪かったことは謝らない」

 辰伶はクスリと笑った。

「じゃあ、お前が謝ることは何もない」
「あるよ。相手が恋人でも、嫌がってる相手に無理矢理しちゃダメだから。殴るのもダメだし。昨夜は辰伶、『やめろ』って、言ったよね。『待て』とかも言ってたし」
「それはあまり性急だったから、少し落ち着けという意味だ」
「え、本当にちょっと待つだけで良かったの?拒否じゃなくて?」
「嫌だったらお前を殴り倒している」

 途端に螢惑の瞳が冷えた。昨夜の螢惑を思い出し、辰伶は身がすくんだ。

「じゃあ、なんであいつは殴り倒さなかったの?あいつとしたかったの?」
「そんなことあるものか!」
「でも、抵抗しないで好きにさせてたよね」
「そのつもりだった。でも、耐えられなかった。あの時、お前が来てくれなかったら、俺はあいつを殺してたかもしれない。すまなかった」

 螢惑は無言で辰伶の話を聴いていた。脅迫者のゲスな要求に耐えられずに相手を殺していたかもしれないという件までは良かった。ところが最後を謝罪で締め括られて螢惑は困惑した。脅迫に屈してあの男に身を任すつもりだったことの謝罪だろうか。いいや、辰伶のニュアンスは少し違っていたように思う。身を任すことを耐えられなかったことを、謝罪しているように聞こえた。まさかとは思うが、そこは辰伶だ。

「確認するけど、我慢しちゃいけないこと解ってる?」
「この家を出てしまうまでは、お前との関係を秘密にしておかなかればならなかったのに、あいつに身体を触られるのが気持ち悪くて我慢できなかった。お前の為ならどんな努力もすると誓ったのに」

 やはり、会話が成立していない。

「俺にとって辰伶とのセックスはとても大切なことで、誰かに切り売りしていいものじゃない」
「切り売り…」
「辰伶を犠牲にして、俺がのうのうとしていられると思ってるなら、俺のこと見縊り過ぎだ」
「そうじゃない。そうじゃないが、俺は螢惑の為だったら、何だってしたいんだ」
「バカ!お前は一途を通り越してタダのバカだよ。いつだってそうだ。壬生の為に生きて壬生の為に死ぬだとか、いつもいつもウザイこと言うし」
「え?何だって?」

 ……の為に生きて、……の為に死ぬ。不思議と身に馴染むフレーズが、辰伶の胸に引っかかる。

「螢惑、さっきは何て?俺が何の為に生きて死ぬって?」
「自分の為に生きて、満足して死ぬ。それが俺と共に生きるってことだよ。まだ解らない?」
「そうじゃなくて、お前がさっき口走った言葉。俺がいつも言っていたという…」
「何か言った?」
「…もういい」

 なんだったのだろう。螢惑はあまり意識せず、咄嗟に口をついて出たらしいそのフレーズ。辰伶にとって、とても大事な言葉だったような気がするが、これまでそんな言葉を口にした覚えはなかった。

 螢惑の為に生きて、螢惑の為に死ぬ。辰伶にとって、一番大切なものを当てはめてみた。螢惑の為に生きて、螢惑の為に死ぬ。それが、辰伶にとって自分の為に生きるということ。満足して死ねる生き方。螢惑と共に生きるということ。辰伶は心にそう刻みつけてしまった。


「これが、お前が手懸けたナイフか」

 折り畳み式のアウトドア用ナイフ。昨夜、螢惑が辰伶を助けた時に手にしていたものだ。そのブレードの美しい曲線を、辰伶はしげしげと眺めた。

「作ったのは殆ど全部、寿里庵。俺はただのアシスタント」

 寿里庵とは遊庵の父親でナイフ職人だ。その業界では有名で、国内外の愛用者から製作依頼があり、予約でいっぱいなのだとか。そして、そこが螢惑の夜のアルバイト先である。こちらが寿里庵の本業で、カメラは趣味だ。その本業も、本来は刀鍛冶師で、聞くところによると鍼灸師の資格も持っているとか。結局何が本業なのか遊庵にも解らないそうだ。

 辰伶と螢惑は互いにもっと話し合うことにした。とりあえず、辰伶はかねてから知りたいと思っていた、螢惑の夜のバイトについて聞いてみた。

「昨夜は寿里庵が夫婦でいちゃつきだしたから、ゆんゆんがさっさと工房を閉めちゃって、バイトも適当に切り上げて帰ってきた。だからあの時間だった」
「良かった。お前が帰ってきてくれて。もう少しで取り返しのつかないことになるところだった」
「……」

 取り返しのつかないこと。それは脅迫に屈しそうになったことか、あの男を殺しそうになったことか、辰伶にとってはどちらのことだろうと、螢惑は思った。どちらも防ぐことができて幸いだった。早く帰らせてくれた遊庵に螢惑は感謝した。たまには役に立つ。

「螢惑はナイフ職人になりたいのか?」
「違う。俺が興味あるのはカメラの方。俺が一番綺麗に辰伶を撮りたいと思ったから。カメラ自体も面白いけどね」

 それから以前にデートした水族館の話をした。スケート場、遊庵の家での昼食会、朔夜の喫茶店での出来事…

「冗談じゃないよ。灯ちゃんが恋愛対象とか、絶対ないから」
「随分親しそうだからな。美人だし」
「辰伶こそ、灯ちゃんみたいなのが好みなの?灯ちゃんは美人で優しいけど、凄く性格悪いからやめた方がいい」

 それぞれの学校での友人や出来事…

「心配していたが、映画のチケットは喜んでもらえた。良かった」
「辰伶……鈍いって言われない?」

 そして、2人が出会った頃の話、出会う前の話。話すことはいくらでもあった。

 テーブルには温かい食事。正面に恋人。楽しい会話。この幸せな空間を永遠に守っていきたいと辰伶は思う。螢惑の為に生きて、螢惑の為に死ぬ。それはつまり、自分自身の為に生きて、満足して死ぬこと。それが辰伶の人生の目標だ。

 前世がどうであろうと、来世がどうなろうと、いま努力できるのは今世の幸せだけ。生涯の伴侶は今世の恋人だけだ。


おわり