「好きだよ」効果


 辰伶が高校2年に進級したばかりの春のことだ。辰伶とは母親を異にする弟が、新たに家族として家中に迎え入れられた。異母弟の名は螢惑といい、辰伶の父親の愛人の息子だった。年齢は辰伶の1学年下だが、誕生日は半年しか違わないので、殆ど同年のようなものだ。

 螢惑の母親が不慮の事故で他界したことより、未成年でまだ保護者を必要とする螢惑は父親の下で暮らすこととなったのだ。

 辰伶の母親に配慮して、螢惑は離れに住み、母屋には一切近寄らないことと決められた。母屋と離れは同じ敷地内にありながら、間に植え込みや垣根を挟み、互いに見聞きしないよう隔たっていた。母屋と離れを行き来するのは、螢惑の為に食事を運んだり、離れを掃除をしたりする使用人のみだ。

 その条件を異母弟は眉1つ動かさず呑んだと、辰伶は伝え聞いた。いくら血の繋がりがあるといっても、螢惑がこの家に溶け込むのは無理な話だろう。ならば異母弟にとっても、その方が気が休まるのだろうと、辰伶は思った。しかし同時に、この温か味を欠く処遇を淡々と受け入れるしかなかった異母弟の立場を思い、小さな痛みを胸に覚えたのだった。

 その時から、辰伶にとって螢惑は日々気に掛かる存在だった。


 ある日のこと、下校途中に辰伶は螢惑の姿を発見した。それは珍しいことである。辰伶と螢惑は別々の高校に通っている。それぞれの学校の所在は同じ方向だが聊か距離があるので、登下校の時間は全く重ならないのだ。出入りに使う門まで、辰伶は表門、螢惑は裏門と、それぞれ違っている。離れに住む異母弟とは、家で顔を合わせることは殆ど無いが、それは外に於いても同じだ。

 螢惑は学生鞄の他に、何か大きな紙袋を3つも提げて歩いていた。何が詰まっているのか、随分と重そうだ。辰伶は躊躇った末に、声を掛けた。

「大変そうだな。半分持とうか?」

 辰伶の声に螢惑は振り返って足を止めた。そのまま暫し無言で辰伶を見詰めている。その冷めた反応に辰伶は困惑した。まさかと思うが、螢惑は余り顔を合わせたことの無い異母兄の顔など覚えていないのだろうかと疑ってしまった。ひょっとして、自己紹介からせねばならないのだろうか。

 辰伶が心配したようなことはなかった。螢惑は抑揚の少ない声で短く言った。

「いいの?」
「ああ」
「ありがと」

 緊張した空気の後では意外なくらいに、素直に紙袋を預けられた。

「それにしても重いな。中身は冊子の類のようだが、資料か何かか?」
「資料っていえば、そうかもね」
「感心だな。レポートでも書くのか?」
「レポートは書かないけど、これ見て参考にしろって、学校の仲間が貸してくれた」
「ほう。何の雑誌だ?」
「エロ本」

 ドサッと音をたてて、辰伶の手から紙袋が地に落ちた。その弾みで辺りに中身がぶちまけられてしまった。螢惑の言ったとおり、それらの雑誌の表紙では肌も露わな女性たちが艶かしく微笑んでいる。

「…あのさ、こーゆー本って、こんな道端であんまり広げない方がいいと思う」
「広げたいわけがあるかぁっ」

 辰伶は必死に雑誌を掻き集めた。羞恥のあまりに顔は真っ赤だ。

「おいっ、見ていないで手伝えっ」
「落としたの、お前だし」
「お前の本だろうっ」
「俺のじゃないよ」
「お前が借りてきたんじゃないかっ。責任持て、責任をっ」

 殆ど半泣き状態で訴える辰伶に、螢惑はめんどくさそうに溜息をついた。

「しょうがないなあ…」

 螢惑も渋々と拾い集めた。その間、幸いにして人が通ることもなく、好奇の目に晒されずに全てを紙袋に押し込めることが出来た。慌てた作業であったから、少々乱雑に詰め込まれて紙袋は歪な形になってしまったが、仕方あるまい。

 まだ頬を薄紅に染めたまま、辰伶は螢惑に尋ねた。

「これ全部……そういう本か?」
「うん。…ええと、アイツ…何ていったかなあ。名前、知らないんだけど、何かクラスに……あれ? 隣のクラスだったかも。まあいいや、紅い虎柄のバンダナ頭に巻いてる奴がいるんだけど、なんかそいつんちにクラスの女達が遊びに来るから、エロ本避難させて欲しいって」

 なるほど。女は目敏いから、どんなに周到に隠しても気が気でないだろう。尋ねてくる女の中に意中の相手でもいるなら、必死にもなろうというものだ。

「俺のトコなら誰にも見られないからって、頼まれた。そしたら何か、皆でエロ本持ち寄って品評会やろうって話になって、それでこうなった。ま、別にいいけどさ」
「……」

 それを聞いて辰伶は少し心配になった。螢惑の交友関係については、良くない噂を耳にしたことがある。どうせ使用人たちがポイント稼ぎのつもりで、螢惑のあら探しをして大袈裟に御注進してくるのだろうと、辰伶は大して気に留めていなかったのだが、ふと、本当に性質の良くないグループに目を付けられていて、いいように利用されているという可能性に気付いた。

「螢惑。お前はクラスで…その……イジメとか…」
「は?」
「いや、なんでもない」

 ありえない。辰伶は即座にそう思った。この異母弟は、苛められて黙って耐えているようなタイプに見えない。

 しかし、螢惑の交友関係に対する疑惑が晴れたわけではない。一度、螢惑の暮らしぶりをその目で見て確かめねばならないと、辰伶は思った。折り良く螢惑の荷物を持ってやっているので、そのまま離れの螢惑の部屋まで運んでやれば、自然と中の様子を伺うことができるだろう。

「でもさ、1つメーワクなこともあるんだよ。どういうのが好みか、ちゃんと見とけって、皆が俺に言うんだよね。何だか知らないけど、いちいち答えるのめんどくさい。ていうか、そんなこといちいち考えるのもめんどくさい。何でそんなこと知りたがるのかなあ」

 なるほどと、辰伶は思った。螢惑はこの通り鉄面皮だし、異性への関心も薄いようだ。だからこそ螢惑の友人達は余計に知りたくなるのだろう。
 また、この顔立ちだ。辰伶は螢惑の横顔を、マジマジと見つめた。螢惑の容貌は極めて整っており、眦が少しきつめだが、そのことが彼の端正な美貌を損なうことはなく、むしろ魅力とさえいえた。小柄で細身だが脆弱さは感じられず、均整のとれた伸びやかな四肢はしなやかで健康的だ。女子生徒に人気がありそうだから、密かに螢惑の好みを探ってくれと頼まれている者もいるのかもしれない。


 螢惑が暮らす離れは、浴室やトイレ、炊事場などの給排水の設備も調っており、そこだけでも生活できるようになっている。裏門から続く小径を辿り、行き着いた玄関の前に立った辰伶は、そこが自分の家と同じ敷地にあるとは思えない余所余所しさを感じた。

 螢惑に招かれて、辰伶はそこへ踏み入った。

「お邪魔します」
「ここ、お前の家だよね」

 螢惑はそのように言ったが、辰伶にはどうしてもそう思えない。螢惑がここで暮らすようになる前から、もともとこの離れにはあまり訪れたことがなかった。だから余計に、そう感じるのかもしれない。

 中は至ってまともで、辰伶は少しほっとした。考えてみればこの離れには、辰伶の家の使用人が掃除などの所用でしょっちゅう出入りしているのだ。非常識な状態になるような兆しでもあれば、すぐさま大騒ぎになることだろう。

 螢惑の部屋の前まで来た。螢惑はドアを開け、さっさと入ってしまったが、辰伶は開け放たれた入口の前で立ち尽くした。

「何してんの?」
「入ってもいいだろうか」

 辰伶は螢惑の入室許可を待っていたのだ。

「勝手に入って」
「お邪魔します」

 螢惑は何か言いたげに口を開いたが、短い逡巡の末、何も言わなかった。

「荷物はここでいいか?」
「うん。ありがとね」

 螢惑の部屋の中も普通だった。少し雑然としているが、犯罪に結びつくような危険なものは見当たらない。悪い仲間と付き合っている様子はなさそうだ。

「で、何が目的なの?」
「は?」

 質問の意味が解からず、辰伶は少し間の抜けた声を上げてしまった。

「そんなに仲良くもないのに、こんなところまで荷物持ってくれたのって、何か魂胆があったんでしょ」

 見透かされていた。そう思い、辰伶は返答に詰まった。異母兄に己の素行について疑いを抱かれたことを、螢惑はどう感じただろう。辰伶は噂に踊らされた己を恥じ、申し訳ない気持ちになった。

 しかしそれは見当違いだった。螢惑は紙袋を探って、1冊のエロ本を辰伶に差し出した。

「はい、辰伶も見たかったんでしょ」

 一気に血が上り、辰伶の頬は真っ赤に染まった。

「違うっ」
「これじゃないの? じゃあ、こっち?」

 別の本を差し出す。

「そうじゃなくてっ」
「どれがいいの? もう、めんどくさいから自分で探してよ」
「だからっ」
「いいよ。持ってっても。やっぱりこういう本って、独りでゆっくり見たいよね。あ、使ってもいいけど汚さないでよ。借り物だから」
「〜〜〜〜〜っ」

 あまりのことに辰伶は憤死する思いだ。これ以上は耐えられない。辰伶は踵を返して、螢惑の部屋を出て行こうとした。その辰伶の手首を掴まえて、螢惑が引きとめた。

「ちょっと待って」
「本はいらんっ」
「そうじゃなくて…」

 螢惑の琥珀のような瞳が、辰伶をじっと見つめる。不躾な視線に辰伶は居た堪れなくなり、逃れるように目を伏せた。奇妙に顔が熱くなる。

「それ、その顔」

 瞳を合わせたまま、螢惑は淡々と言った。

「さっき道でエロ本ぶちまけた時、辰伶、そんなだったじゃない。あの時の顔が、俺のタイプみたい」
「何を言って…」

 辰伶の言葉は、螢惑の唇に塞き止められた。突然のことに、辰伶は自分達が何をしているのか全く解かっていなかった。呼吸を奪われて、息苦しさに頭の芯がぼんやりとしてくる。漸く解放されても、辰伶の混乱は収まらなかった。

「あ、やっぱりそうだ。ちょっと涙目になると、もっとすごく好みになる」

 いつの間に誘導されていたのか、すぐ後ろに螢惑のベッドがあった。力の抜けた辰伶の身体を、螢惑はゆっくりとそこへ座らせた。

「ねえ、してもいい?」
「するって…」

 何を言っているか、すぐに解かった。それなのに、咄嗟に拒否する言葉が出なかった。その曖昧な自分の心に、辰伶は更に動揺した。

「だめ?」
「どうしてそんな…」
「だって好きだから」

 心臓が大きく波打った音を、辰伶は自分の中に聞いた。茫然と螢惑を見遣る大きく見開いた辰伶の瞳には、驚きの気持ちがありありと顕れていた。それを見た螢惑は、微かな笑みを浮かべた。

「さっきね、急に好きになった。顔が好みだってのは、もっと急にっていうか、ホントに今、気付いたけどね」

 螢惑が微笑した。そのことに辰伶は「好き」と言われたこと以上に驚いた。彼が辰伶に笑顔を見たのは、これが初めてだったからだ。そしてその笑顔は、辰伶をすっかり魅了した。

 螢惑は考え込むような仕草で、長めの前髪を梳き上げた。熱っぽく光る琥珀色の瞳が辰伶の動きを縛る。

「辰伶、俺に声かけてくれたよね。それから、この部屋とかに入る時に、入っていいかって、俺に断ったじゃない? それって、ここが俺の領域だって認めてるってことでしょ。この家じゃ、皆が俺のこと無視してるけど、辰伶は俺の存在をちゃんと認めてくれてたんだね」

 そんなことを、螢惑は嬉しそうに語った。それのどこがそんなに嬉しいのか、辰伶には解からない。存在を認めるも認めないも、現実として螢惑はここに居る。それはただの事実だ。それを喜びと受け止めた螢惑の感性に、辰伶は切なさを覚えた。

「だから、好き」

 その切なさが、辰伶を堪らなく螢惑に惹きつけてくる。

「好きだし、俺のタイプだから、したい」

 正面から螢惑の両腕が辰伶の後頭部に回される。螢惑は辰伶を抱きかかえるようにして、辰伶の髪を結わえていた紅い紐を解いた。解放された髪が肩に流れ落ちて、それを辿って螢惑の指が滑りぬけた。たったそれだけで辰伶は自分が酷く無防備になったような気がした。

「好きだよ」

 好き。そう言われると辰伶の思考は停止してしまう。こんな魔法のような言葉を、誰が創ったのだろう。

「好きだよ、辰伶」

 ああ、そうだ。自分も螢惑が好きなのだ。そして、彼の顔はとても好みだと、辰伶は思った。間近に迫る螢惑の顔を存分に網膜に焼付け、辰伶は瞳を閉じた。途端に与えられた深く激しいキスに、辰伶は螢惑の背を抱くことで応えた。


 こんなにも流されやすい人間だっただろうか。辰伶はぼんやりと己を省みる。流されたのか、自ら流れに乗ったのか。隣で寝ている螢惑の方へ顔を傾けると、彼も辰伶を見ていたらしく、目が合った。螢惑の滅多に見られない微笑につられて、辰伶も微笑む。

 少し気怠るげに、螢惑が呟いた。

「ここさ、母屋からだいぶ遠いから…」
「…うん」

 その唇の動きに半分見惚れながら、辰伶は掠れた声で意味の無い相槌を打つ。

「良かったね。多分聞こえてないと思うよ」
「何が?」
「声」

 数秒間おいて、辰伶は螢惑の言わんとすることを理解した。羞恥に忽ち頬が染まる。

「辰伶のあの声、すごく艶っぽくてイイんだけど、ちょっと大きかったかもね」
「そんなに……か?」
「感じてくれてたんでしょ。俺は嬉しいけどね」

 衒いもなくさらりと言われてしまい、それが事実であるだけに、辰伶は泣きたいくらいに恥ずかしくなった。頭から布団を被ってしまおうとしたが、螢惑に止められた。

「あのさ、そういう顔すると、もっかいしたくなるんだけど。もしかして誘ってる?」
「だっ、だれがっ」
「違うの? でも、もっかいしてもいい?」

 螢惑に見つめられただけで、辰伶の鼓動は早くなる。

「好きだよ、辰伶」

 一瞬の、思考停止。

「俺もだ」

 想いが溢れ、一途に螢惑へと流れた。


「あ、今度、辰伶の写真ちょうだいね。コレが俺の好みだって、皆に言わなきゃいけないから。できれば半泣きのやつ」
「そんなものは無い」
「え、じゃあ、撮らなきゃ。スマホのカメラでいいか」
「撮るな、バカ!」


 おわり

 どうしよう。これ、続きが書きたいんだけど…