+・+ 同居シリーズ +・+
ずっと同じで居られたら
ほたるが辰伶の部屋に入室するのにノックをしたのは、これが初めてではなかっただろうか。辰伶はそんなどうでも良いことを思った。
「もう寝ちゃった?」
「いや…」
「入っていい?」
「ああ」
カチャリと情けない音がして、静かにドアが開いた。ほたるは影法師のように滑らかに入室すると、後ろ手にドアを閉めた。そしてふと、壁のジグソーパズルに気づき、数秒間無言で眺めたのちに、辰伶に向き直った。
辰伶はベッドに腰掛けたまま、入室者を迎えた。ほたるはゆっくりと音もなく歩を進め、辰伶の正面に立った。2人は暫く無言で見詰め合った。いや、睨みあっていたのかもしれない。ほたるは見下ろし、辰伶は見上げる。
突然、ほたるは辰伶の両肩に手を置くと、勢いに任せてベッドへと倒れ込んだ。辰伶の視界が天井へと切り替わる。それもすぐにほたるの顔によって遮られる。
「いきなり何を…」
「こういうことでしょ。辰伶が言ったのって」
ほたるが何を言っているのか、辰伶には解からない。ほたるは構うことなく言い募った。
「互いに好きだと確認したら、その次って、これのことでしょう?」
今度は理解した。理解して、辰伶は困惑した。
「待て、ほたる。お前、本当に解かってるのか?」
「だから、考えたんだってば。俺、考えるのって嫌いなのに、辰伶がああ言うから考えてみたよ。そしたら俺、辰伶とセックスするの嫌じゃないみたい。それで、相談なんだけど…」
ほたるは真剣に言った。
「どっちがする?」
「え?」
「俺はどっちでもいいけど。抱いてもいいし、抱かれたって構わない。辰伶は?したい?されたい?」
「待て!その前に、ちょっと待て!話が進み過ぎだ。その前の段階があるだろう」
「その先とか、その前とか、いちいち煩いなあ。今度は何なの?」
「こういうのは互いに好きだと確認し合った後だろう」
「だって辰伶、俺のこと好きでしょ?」
さも当たり前に言われて、辰伶は絶句した。
「え?違うの?俺がその気になればOKって話じゃないの?」
違うだろう。どうしてそういう解釈になるのか、辰伶は理解に苦しんだ。
「好きだなんて確認しあっていないじゃないか」
「俺が辰伶のこと好きだって言ったら、辰伶は何だか訳のわかんない理屈を捏ねてたよね。フツーさ、告白してきた相手のこと好きじゃないなら、一言『好きじゃない』って言えばいいだけなのに。辰伶の言ってることはよくわかんなかったけど、辰伶が俺のこと好きなんだってことは解かった」
ほたるの言葉に辰伶は茫然となった。すっかり脱力した。あんなに一生懸命、真面目に、精一杯、諭したつもりだったのに、それを『何だか訳のわかんない』ことで片付けられてしまっては辰伶の立つ瀬が無い。ひょっとして時間の無駄だったのか。もしかして労力の無駄だったのか。
「お互いに好きなら次に進まなきゃ。そう言ったのは辰伶だよ」
「…俺はそんなこと言ってない」
しかも大曲解しているし。あまつさえ、先のことを何も考えていなかったほたるをその気にさせてしまったのが当の辰伶の言葉というのだから、とんでもない藪蛇だ。冷静にほたるを諭していたつもりが、実は大真面目に墓穴を掘っていたことになる。笑うに笑えないし、泣くに泣けない。
ほたるは辰伶の上から退いた。拘束を解かれた辰伶はゆっくりと上体を起こした。ほたるはその隣に腰掛けた。並んで壁のジグソーパズルを見る格好となった。ほたるの指が、真っ直ぐにパズルの風景写真を指した。
「辰伶、いつかあそこへ行きたいって言ったよね」
「……」
「誰も居ないし、なんにも無いし。…こんなになんにも無いところに、辰伶は行きたいの」
継がねばならぬ家も、従わねばならぬ親も、遠慮すべき他人の目も世間のしがらみもない。そんな何も無い処に辿り着いて、漸く辰伶は安らげるのかもしれない。ほたるは気負うでもなく言った。
「俺は、居るから」
明瞭に発せられた声音が、辰伶の心に波紋を描く。俺が、ではない。俺は、と言った。その一言は1点から急速に拡散され、辰伶の心境を滑る様に広がる。ああ、そうかと、卒然として辰伶は得心した。あれはそういうことだったのだ。
夕陽に染まるススキの穂の群生。一目見た瞬間に心惹かれ、このジグソーパズルを手にせずにいられなかった。幻想的だがそれは脆さや儚さでなく、果てしない雄大さが心に迫る。この光景に踏み入ったならば、金色に輝く雲海に臨むような思いに浸れるのではないだろうかと、そんな子供じみた期待感を胸にしてパズルを完成させた。
黄金色にさざめくススキの穂の群生は、ほたるの髪の色だ。ほたるの瞳の輝きだ。ああ、そうだったのだ。この風景にはずっとほたるが居たのだ。切ないまでの憧憬は、そこがいつかほたると共に行けるはずの場所だから。他の誰もいらない。この場所には、ほたるだけが居ればいい。一緒に居たいのはほたるだけ。
「俺は絶対に辰伶の隣に居るから。…いいよね、俺が居ても」
もう偽れない。辰伶はほたるの肩へと腕を廻し、そのまま彼の頭部を抱え込むようにして引き寄せた。ほたるの少し癖のある柔らかな髪が、辰伶の首筋を掠めて流れた。
「俺達は男同士なんだぞ」
「それもちゃんと考えた。だから、どっちがするか訊いてるんじゃない。辰伶が女だったらわざわざそんなこと訊かないよ」
確かにそうだ。男女間なら訊く必要のないことだ。しかしそれで納得してしまうのもおかしな話だ。
「しかし……兄弟だぞ。血も繋がっているのに…」
「あのさあ、それも考えたってば。近親がダメなのって、要するに子供がダメってことでしょ。俺達男同士だから子供できないじゃない。何か問題あるの?」
「あるだろう」
「どこに?」
「どこって…それは、モラルとか……世間的にも…」
「辰伶、俺はすごく考えたんだよ。辰伶が今言ってるようなこと全部。とっくに考え済み。男同士だと結婚できないけど、俺達は兄弟だから、わざわざ籍入れなくても家族だし。近親だけど同性だからセックスしても子供はできないし。やっぱりさ、マイナスにマイナスを掛け合わせるとプラスになるのは本当なんだよ。ねえ、俺達って、すごくラッキーじゃない?運命が俺達を贔屓してるってのは、ちょっと意外だったけどね」
ほたるの器が大きいのか、単にデタラメなのか。ほたるの恐るべき超絶プラス思考は、その滅茶苦茶な論理で、辰伶の心を縛っていた鎖を粉砕してのけた。悲愴なまでに耐え苦しんだのがまるでバカみたいに思えてくる。時間と労力の無駄だった。
もしかしたら、本当に自分達は幸運だったのかもしれないと、辰伶は思った。辰伶とほたるがもしも兄弟でなかったとしたら、恐らく知り合いにさえなっていないだろう。血の繋がり以外に何も接点が無いのだ。多分、お互いに関心さえ抱かなかったのではないだろうかと思う。だから2人が出会うためには、兄弟であることは絶対条件なのだ。そして同性でなかったとしたら、いくら肉親といえども辰伶はほたるとの同居を受け入れなかっただろう。ほたるが傍に居ないなんて、今ではもう考えることもできないというのに。
ほたるは辰伶の腕から抜け出し、猫のようにごそごそとベッドに潜り込んだ。
「何をしている」
「なんか寒いし。あ、辰伶も入る?」
「俺のベッドだ」
ほたるは壁際へと身体を寄せ、辰伶が入れるスペースを作って手招いた。先刻の緊迫感が嘘のようだ。人をいきなり押し倒して『しよう』と誘いかけておいて、危機感を持たれているとは思わないのだろうか。…思っていないのだろう。そもそも辰伶が拒否するとは微塵も思っていないようだから、危機たる自覚が芽生える土壌が無い。
確かに辰伶は危機感を抱いていなかった。ほたるの誘い方には情緒がないというか、色気が無いというか…危機感を抱く要素が色々と欠如しているからだ。現実的過ぎて、現実味が湧かない。
辰伶はほたるの分だけ狭くなったベッドに身体を滑り込ませた。
「話は元に戻るけど、どうする?」
「どうするって…」
つまり、どちらがどうするかという話である。最も恐ろしく現実的な問題を眼前に突きつけられて、辰伶は頭が痛くなってきた。
「あ。そういえば、男同士ってどうするの?俺、知らないけど」
「俺だって知らんわっ」
「じゃあさ、やり方の載ってる本探して来るから、読んで覚えて教えてよ」
「何で俺がそんなこと…」
「俺、本じゃ解かんないから、覚えるなら実践になるけどいい?」
「実践…って…………おい!まさかっ」
「灯ちゃんとかなら知ってそうな気がする」
「馬鹿!」
本気なのか冗談なのか…多分本気だ。ほたるは不真面目な漢だが、冗談は殆ど言ったことが無い。本気だからこそ、辰伶にとっては性質の悪い脅迫たり得た。
「そういうのは……他人に頼るな」
「うん。俺もその方がいいと思う」
変な言い回しになってしまったが、そういうことだ。
「そういえば、歳世のことも知ってて知らない振りしてる?」
「は?何の事だ?歳世がどうかしたのか?」
「あ、そっちは素で気づいてないんだ」
辰伶の鈍感さは本物だったようだ。ならば気づいてもらえたほたるは、非常に運が良かったのだろうか。そうではない。辰伶がほたるを強く意識していたからこそ、その気持ちに気づくことが出来たのだ。偶然ではなく当然のこと。ほたるの表現を借りるなら、運命が2人を贔屓していたのだ。
「もう寝るぞ。日付が変わってしまったではないか」
「あ、ほんとだ。ねえ、辰伶。明日っていうか、もう今日だけど、何の日か覚えてる?」
「ああ」
「そう。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ…って、おい、ここで寝る気か。自分の部屋へ戻れ。おい……嘘だろう。もう眠っている…」
直下型睡眠の真髄を見た。どちらかといえば寝つきの悪い辰伶には羨ましい。
「しかし、こいつ、本当にやる気があるのか?」
好きだと告白して、行為を誘っておいて、その相手の横でよくも安々と眠れるものだ。
そしてそれは辰伶自身にも言えた。好きな相手に誘われておきながら、何もせずにただ同衾しているだけで、不思議と満たされている。今はこれで十分だ。このままでいい。
その日は変わらずに明けた。いつものように、いつものごとく。普段と全く変わらない朝が、2人に訪れる。同じように目覚め、同じように朝食を摂る。
「1年前だったね」
ちょうど1年前の今日だった。ほたるが扉を叩き、辰伶がそれを開けた。そうして2人の同居は始まった。初めて2人が出会った日。
「俺にとって、1番大事な日だよ。辰伶は?」
「2番目だ」
「…何それ。何で1番じゃないの?ムカつく」
「不満そうだな」
「じゃあ、辰伶の1番は?」
「……」
「教えてよ。この期に及んでも好きだって言ってくれないなら、それくらい教えてくれたっていいと思う」
言ったぞ、確か。辰伶は過去の記憶を掘り返す。風邪で熱を出して少し意識は朦朧としていたが、その寝入り端のほたるの告白に対して答えたはずだ。多少どさくさ紛れの感は否めないが。しかも本気だと判らないように。
…やはり卑怯かもしれない。
「……にち」
「え?」
「8月13日」
思いもよらぬ辰伶の言葉に、ほたるは自分の耳を疑った。
「何で…俺の誕生日?」
「おまえがこの世界に存在するということが、俺にとって一番嬉しい。お前がこの世に生まれた日が一番大切な日だ。この日が無ければ、俺達の出会いも無かった」
ほたるは言葉もなく、辰伶を視凝めた。想いが溢れそうなくらいに内圧を高めているというのに、それを開放できる言葉が見つからない。
――そりゃあ、ね。誕生日を祝ってもらったことくらいあるけどさ…
愛人の子として生まれた。父親には母子共に捨てられ、私生児として育った。生まれてきたことを後悔したことは無いし、殊更卑下する気もないが、誕生日を特別に嬉しいと思ったことも無い。ほたるにはどうでもいい日を、辰伶が何よりも大切だと言う。
「じゃあ…辰伶の誕生日は3番になっちゃうね」
ほたるは笑っていた。笑っているのに、不思議と涙がこぼれた。
「ま、いいか。俺を好きじゃない辰伶なんて、生きてる価値ないから」
「酷い奴だな」
辰伶も笑っていた。この2番目に大切な記念日には、特別なことは何もしない。普段通りに、普通の日のように。ほたるが隣に居るということが、当たり前に繰り返される日常である為に。
ずっと2人で居られたらいい。ずっと同じように、いつまでも…
おわり
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