+・+ 同居シリーズ +・+
水に降る雪
背中から回された腕が、有らん限りの力で締め付けてくる。
「わかってない。辰伶は全然わかってない…」
押さえつけても溢れ出でる激情ゆえか、ほたるの声は次第に掠れてゆく。対照的に辰伶は冷静だ。風の絶えた湖面のように、その瞳には動揺のさざ波1つ立っていない。
「ほたる、放してくれないか。これでは身動きがとれん」
しがみついたまま首を横に振る。それを辰伶は背中越しに感じ取る。
「…お前の気持ちは解かっている。多分、お前以上に理解している」
ほたるは辰伶の背中に埋めていた顔をあげた。しがみつく力が少し緩む。辰伶は形だけになった拘束を優しく外した。
「少し、話をしようか」
辰伶は床に落としてしまったクッキーの材料を拾って、再び歩き出した。ほたるもそれに続いた。
「卵が2つも割れてしまった。どうしようか。クッキーなんて作る気分では無いだろう?」
「……」
「ホットケーキが簡単でいいか。この間、徳用のホットケーキミックスを貰ったし」
「……」
「…安心しろ。ごまかしたり、はぐらかしたりしないから。茶でも飲みながら、ゆっくり話し合おう」
一歩進むごとに、ほたるの心は重さを増していった。この一歩が破局への距離をじわじわと縮めているような気がしてならない。辰伶は何を話す気なのだろう。好きだ。或いは、嫌いだ。または、迷惑だとか。そんな一言で終わらせるつもりは無いようだ。それが却って恐ろしい。辰伶の心が見えず、ほたるは一層不安を募らせた。
真っ白な皿に何枚ものホットケーキが堆く積み上げられている。マーガリン。メイプルシロップ。マーマレード。ブルーベリージャム。辰伶の前には薄めのブラック・コーヒー。ほたるは濃いめに。黒く苦い液体から、白い湯気が立ち昇る。
「いつから知ってたの?」
俯いたまま、ほたるがぽつりと呟くように切り出した。辰伶はカップをソーサーに戻して答えた。
「おまえが言っただろう。俺が風邪をひいて寝込んだときに」
「……ちゃんと通じてたんだ」
「当たり前だろう。バレンタインのチョコレートといい、あれだけあからさまに主張されたら、誰だって気づく」
「気づいてないと思ってた。鈍感な奴だって厭きれてた」
「おまえ、俺のこと馬鹿にしてるだろう」
ほたるの平手が辰伶の頬に飛んだ。乾いた甲高い音が鳴り、衝撃と熱が辰伶の頬に宿る。
「馬鹿にしてるのはそっちじゃない!解かってて知らん顔してたの?俺のこと、心の中で笑ってたの?」
痛みに疼く頬を押さえることもせず、辰伶はほたるを真っ直ぐ見遣った。
「気づかない振りをしていたのは事実だ。しかし馬鹿にしてはいない。嘲笑っていたわけでもない。ましてや、お前の気持ちを玩んでいたつもりもない。言っただろう。俺はお前以上に、お前の気持ちがどういうものなのか理解していると」
辰伶の頬を打ったときに立ち上がった弾みで、ほたるの椅子は床に倒れて投げ出されていた。突っ立ったまま、怒りの為に高ぶった呼吸を繰り返す。肩は大きく上下し、腕は小刻みに震えている。怒りの中心に氷の塊がある。堅く凍てついたその塊は、名を『懼れ』と言ったかもしれない。
「何が解かるっていうの?辰伶に、俺の何が解かるの?」
ほたるの眼光は鋭く辰伶を射抜く。差し向けられたナイフのように。しかし辰伶はひるまない。己の立場を微塵も崩すことなく、ゆっくりとコーヒーカップを唇に運んだ。
「…お前は、俺に恋愛感情を抱いているわけじゃない」
氷塊に亀裂が走った。ほたるの耳はそれが罅割れる音を聞いた。
「おまえの『好き』は違う。そういう『好き』じゃない。お前が、勘違いをしているんだ」
ほたるの顔から一切の表情が消えた。のろのろと倒れた椅子を起こし、力なく腰を下ろす。
「…何でそんなこと言うの?辰伶にその気が無いから、そう思うだけじゃないの?」
「では訊くが、例えば俺もお前のことが好きだとする。…例えば、というが実際に家族としてお前のことは好きだが、今はそれは置いておく。それで、互いに好きだと確認しあって、それからどうするんだ?」
「どう…って……」
言葉に詰まる。それから?両想いだと確認したら、その次は?
「…解からない。考えてない。でも、」
「……」
「なんにも考えてないけど……だって、ヤなんだよっ!辰伶が年上ぶって保護者ヅラしたり、歳子とか歳世とかとガッコの話してたりするとムカつくんだよ!ゆんゆんなんか、辰伶と殆ど面識無いくせに辰伶のこと知ったかぶって…俺よりも辰伶のこと解かってるみたいで…。俺よりも他の奴の方が辰伶のこと解かってるなんて許せない!辰伶のことは何でも俺が1番じゃなきゃ…そうじゃないと気が済まない!」
絞り出すように語り出した言葉は、いつしか叫びになっていた。目元に熱が宿る。泣けるものなら泣きたい。血を吐くぐらいに叫びたい。でなければ心が壊れる。行き場の無い気持ちが、心臓を突き破って溢れ出そうだ。
「…俺は辰伶が1番好きだから、辰伶の1番も俺じゃないと許せない…」
激情するほたるに対しても辰伶は冷静さを失わない。そして、冷徹ともいえる言葉を下した。
「それは、よくある感情だ」
ほたるの瞳が大きく見開かれた。この冷たい漢に言ってやりたいことはいくらでもあるのに、言葉が喉で止まってしまう。
「家族の愛情を独り占めしたい。友人の一番の理解者になりたい。俺にも覚えのある感情だ。多かれ少なかれ、誰でも持っている。独占欲というものはな」
「俺のも、そうだって言うの…」
「そうだ」
「恋じゃなくて、単なる独占欲?」
「少し行き過ぎた独占欲だ」
「でもっ」
「俺が『それからどうする』と訊いたとき、お前は『何も考えていない』と答えたな。その時点で、既に恋愛じゃないんだ」
「どういうこと?」
「恋愛は、心ばかりでするものじゃないということだ。俺達ぐらいの年で、肉体の接触を求めずに恋愛なんてありえん。俺達は大人というには未成熟だが、想いだけの恋で満足するほど子供でもない」
「……」
沈黙が2人の間の空気を冷やしてゆく。テーブルの上のホットケーキはすっかり冷え切っていた。コーヒーも香気が消え失せて苦味だけを強くしている。押さえが利かないほどに高ぶったほたるの感情も今は沈静していた。
「コーヒーを淹れ直そうか」
辰伶の落ち着いた声が止まった時間を動かした。ほたるは小さく頷いた。
話し合いはそれ切りで、冷めたお茶会のホットケーキがそのまま夕食の代わりとなって、1日が終わった。卵と小麦粉と砂糖で胃袋が倦んでしまい、辰伶もほたるもしっかりとした食事を摂る気になれなかったのだ。早々と風呂に入り、各自の部屋に行って寝支度してしまった。
辰伶はベッドに腰を下ろし、正面の壁を見ていた。ジグソーパズルが飾られている。昨年の暮れにほたると2人で完成させた曽爾高原の風景写真。誰も居ない。何も無い。金色に輝くススキの穂だけが、どこまでも続いている。
先のことを考えていないから恋愛じゃないとは、我ながら凄い屁理屈だと辰伶は自嘲した。愛することに夢中で、好きだという想いだけで全てが満たされてしまうような恋愛だってあるだろう。恋愛感情と肉欲が必ずしも一致するとは限らない。後先考えないのが恋愛かもしれないというのに。
それでも辰伶はそう言うしかなかった。ほたるの気持ちを受け入れないと決めた以上は。
本当に、本心から言うなら、ほたるの気持ちは嬉しかった。
「嬉しくないはずが無い…」
一番好きな相手に、一番好きだと言われて、嬉しくない者などいない。辰伶は項垂れ、シーツを握り締めた。その拳が震えている。
少し行き過ぎた独占欲。自分こそだ。ほたるに言った言葉は、本当は己に向けて言うべき言葉だ。…自分に言い聞かせ続けてきた言葉だ。
ほたるの気持ちにいつから気づいていたのかと、ほたるは問うた。それは辰伶が風邪で寝込んだ時だ。では、辰伶が辰伶自身の気持ちに気づいたのはいつだったのか。
多分、随分前から好きだったのだと思う。それを自覚したのは大晦日の夜。ほたるとジグソーパズルに興じていた時だ。パズルの写真の舞台である曽爾高原へ、辰伶はいつか行ってみたいと言った。それに対してほたるは『連れていってあげようか?』と言ったのだ。ほたるは他愛も無く言ったのだろうが、辰伶はその言葉がとても嬉しかった。理由は解からないが、泣きたい位に嬉しくなった。
自分以外の人間がほたるの隣に居ると、辰伶は息が苦しくなる。ほたるの気持ちが見えないと、不安で堪らない。ほたるがクラスメイト達と楽しげにしていると、寂しくてしかたがない。
そして、遊庵とその弟妹たち。彼らには勝てないという思いが、いつだって辰伶を打ちのめす。自分の知らないほたるの癖を遊庵たちに教えられると、身を焼かれるような想いに駆られる。ほたるとは血の繋がった本当の兄弟なのに、遊庵たちの方がずっと家族らしい。そのことが辰伶の心臓に灼熱の刃を突き刺した。血は流れない。涙も出ない。傷など無いが、ただ、胸が痛かった。悔しくて、惨めで、打ちのめされた。
ほたるを取り巻く全ての人間達が、辰伶には疎ましい。しかし、ほたるが大切にしていて、ほたるを大事にしてくれて、ほたるに必要な人々を、ほたるから遠ざけることなど出来ない。少なくとも、ほたるの幸せを心から願っている辰伶には出来なかった。
いつでも辰伶は苦しかった。愚かな独占欲を殺すのに必死だった。
苦しみを齎したのがほたるなら、それを和らげてくれたのもほたるだった。ほたるに好きだと言われて、自分もほたるにとって無意味な存在ではないと知った。初めはただ嬉しかった。そして、その愛情がどういう種類のものであるのか考えた。肉親への親愛の情なのか、同居人としての仲間意識か、母親を失った心細さなのか、…恋愛感情なのか。
他人の心を計量するなどおこがましいことだ。ほたるの気持ちはほたるが決める。だからどういう種類の愛情かなんて、辰伶には解からなかった。しかし、辰伶は1つ1つのパターンを仮定して、自分の心に問い質してみた。
兄弟として慕ってくれるのは嬉しい。仲間として信頼を得るのも良い。無意識に頼られているなら全力で守ってやる。恋だとしたら、…それこそ最高だ。
ほたるの気持ちがどれだったとしても、辰伶の想いは変わらなかった。どれが真実だとしても、全部に喜びを感じた。迷惑に感じる想いも残念な気持ちになる想いも、辰伶の中には1つも無い。ただ、嬉しかった。
一番好きな相手に一途に好意を寄せられる。それ以上の幸福など、辰伶は知らない。そして同時に辰伶は絶望をも知った。
ほたるの気持ちが恋愛感情であるなら、辰伶は絶対に応えられない。何故なんて考えるまでもない。当たり前だ。自分達は同性だ。その上、片親のみとはいえ血の繋がった兄弟だ。
人類の歴史を振り返ってみれば、兄妹、姉弟の夫婦は存在する。そして、現在では同性婚を認めている国もある。しかし、同性の兄弟の婚姻を認めた例など、辰伶の知る限り1つもない。これが何を意味するか明白だ。同性の兄弟間の恋愛など、どう言い訳しようと、どれほど寛容な国の誰であろうと、1人として認めないということだ。
辰伶は自分自身に誓っていることがある。父のように母を悲しませない。父のように愛人をつくらない。絶対に父と同じことはしない。
そして、一番大切な相手を日の当たらない世界へ追いやったりしない。ほたるだけは絶対に光の下で幸せになって欲しいと辰伶は願う。…暢気に兄弟間で恋愛感情を抱いている場合ではない。
独占欲を抑える以上に、恋愛感情を殺すことは苦痛だった。何よりも、ほたるの気持ちに応えられないことが一番辛かった。ほたるの平手は痛かった。ほたるが『好きだ』と訴えるたびに、辰伶の心は軋み音を立てた。
しかし、そんな痛みがどれ程の物だというのだろうか。ほたるの未来を守るためなら、辰伶にとって苦痛など何でもないことだった。1年前、雨の中を凍えながらこのマンションの扉を叩いたほたるの心細さに比べたら、この辛さがどれほどのものだというのだろう。
愛している。愛情だろうが、信頼だろうが、恋情だろうが、名称なんてどうでもいいことだ。その全てを、全種類の『好き』という想いを全て、辰伶はほたるへ注ぐ。ほたるの気持ちを踏みにじる代償に、一生、ほたるだけを大切にしようと思う。
一瞬で燃え上がって、燃え尽きるような恋はしない。水が生命を育むように、大事にしていこう。ゆっくりと穏やかに愛し続けよう。それが辰伶の決意だった。
だから黙っていよう。
決して伝えないでおこう。
応えない辰伶に焦れて、ほたるが恋情を捨ててしまったとしても。
――水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも
消え消ゆるとも…
その時、辰伶の部屋のドアがノックされた。
「辰伶、起きてる?」
まだつづく。同居シリーズでも、やっぱり鎖で雁字搦めのお兄ちゃんです。
※水に降る雪〜は『閑吟集』から。
+・+ 同居シリーズ +・+