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クッキーを焼こうか


 求愛が雄の専売特許だった時代は、過去となって幾久しい。そんな現代に於けるバレンタインデーの存在価値とは何か。辰伶の問題提起に、歳子は簡潔且つ明瞭な解答を提示した。

「そんなの、ホワイトデーに豪華なお返しを貰うために決まってるじゃないですか〜」

 決まっているのか。

 そして歳子は辰伶にチョコレートを渡した。スティックにアニメキャラクターの顔の形をしたチョコレートのついた子供向けの菓子である。当然ラッピングもされていない。飾りもごまかしも一切無い正々堂々たる義理チョコだ。

「お返しはぁ、駅ビルに『ラフォルグ』ってお店があるんですけどぉ、そのお店のオリジナルのお菓子でラム酒のボンボンをホワイトチョコでコーティングした『ピエレット』っていうのがいいですわ。数量限定だから、売り切れないように気をつけて下さいね。予約が確実ですから」

 お返しを購入する店も品もきっちりと指定し、歳子は足取りも軽やかに去って行った。これが1ヶ月前の出来事である。

 別に、指定通りにせねばならない義理はないのだが、…義理は義理である。義理堅い辰伶は、ホワイトデー用に、歳子に言われた通りの品を用意したのだった。歳子の分と、歳世の分と。

「俺にはお返しくれないわけ?」
「…要るのか?」
「俺もチョコあげたのにー」

 抑揚の無い声で恨み言を述べたのは異母弟のほたるである。スタイリッシュにラッピングされた2つの包みが並ぶテーブルに片肘を付き、上目遣いに辰伶を見上げてくる。

 ほたるもバレンタインデー当日に辰伶へ手作りのチョコレートケーキを送っている。ただし、そのチョコレートケーキを作ったのは9割がた辰伶で、尚且つそれには『誕生日おめでとう』と書いてあったのだが。

「あれは貰ったことになるのか?」
「あげたのにー」
「作ったのは俺…」
「あげたのにー、あげたのにー、あげたのにー、あげたのにー」
「材料費も俺…」
「あっげたっのにーっ」

 辰伶はそれ以上の抵抗を断念し、全面降伏を余儀なくされた。ほたるのゴリ押し勝ちである。

「悪かった。…菓子を買ったときにオマケで貰ったのがあるが、それでもいいか?」
「くれるなら、何でもいいよ」

 安堵した辰伶は紙袋から小さな包みを取り出した。白、黄色、ピンク色、水色、黄緑色、橙色、ラベンダー色…色とりどりの小さな星たち。優しい7色の金平糖だ。歳子と歳世に用意したものには比べるべくもないが、それでもささやかなラッピングの飾りとして淡いピンク色のリボンが可愛らしく使われている。

 手渡されたほたるは眉間に縦皺を作った。辰伶を睨みつけ、間髪入れずに怒鳴った。

「辰伶のバカ!サイテー!」

 叩きつけるようにドアが閉められ、ほたるは部屋から出て行った。まさに豹変である。辰伶は呆気に取られて立ち尽くしていた。

「ま、待て。ほたる」

 辰伶が追った時には、ほたるは自室に閉じ篭ってしまっていた。辰伶はドア越しに呼びかける。

「何なんだ。いきなり怒り出すなんて。訳が解からないだろう」
「解かんないなら放っといて」
「貰い物なのが気に入らなかったのか?何でもいいって、言ったじゃないか」
「出掛けるところだったんでしょ。早く行けば。時間に遅れるよ」

 言われて時計を見る。時間が差し迫っていた。これ以上は約束に間に合わない。

「しかし…」

 ゴン

 ドアの奥で異様な音が響いた。

「…ほたる?」

 ゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン…

 それ以上ほたるから一言も返らなかった。代わりに何かを打ち付けるような音が途切れることなく響いてくる。

 辰伶は溜息をついた。まだこの異母弟を完全には把握できないでいる。


 ほたるは気配によって、辰伶が出掛けたことを感じ取った。徐に部屋を出て、辰伶が家の何処にも居ないことを確かめる。

「辰伶。居ないよね」

 こだまさえ返らない。よしよしと、1人で頷く。

 ほたるは軽く上着を引っ掛けて、近所のドラッグストアーと100円ショップへ行った。そこで目的のものを購入し、真っ直ぐに家に戻る。再び部屋に閉じこもった。

 ほたるが購入したのはミニすり鉢、ミニすりこ木。そしてオブラートだ。

「ほんと、ムカつくよ」

 道具が揃ったところで作業を再開する。先ずは金平糖を袋さらペーパーウェイトで叩いて細かく砕く。それをすり鉢で更に細かく粉末にする。粉末状になった金平糖をオブラートで包む。

「金平糖って嫌いなんだよね。歯につくから」

 粉末金平糖のオブラート包みを、嫌そうに口に運び、水で流し込む。

「歯にはつかないけど、食べにくい。やっぱり嫌い」

 最低の食べ物だと、ほたるは思う。こんなものを貰ってくる辰伶も最低だと思う。


 例えば、理不尽なことを言われても、許してしまいたくなる。
 隣に居て、何かする訳でもないのに、居ないと何だか物足りない。
 話しかけて、反応が無いと、どうしたらいいのか解からず途方に暮れる。

 ましてや面と向かって罵倒されてしまったら。辰伶は暗鬱たる面持ちで、大学構内のカフェに居た。心が塞いで、たった1杯のコーヒーさえ飲み干せないでいる。溜息で冷え切った飲み残しを、スプーンでクルクルと掻き回しながら、ぼんやりと黒い渦の中心を視凝めている。

 そんな彼の様子を、同席者たちはそれぞれの思いで眺める。1人は気遣わしげに、1人は退屈そうに。

「辰伶、何か悩み事か?」

 意を決した歳世が声を掛けた。歳世は辰伶に想いを寄せている。しかし辰伶が彼女に見せる好意は友人に対するもの以上でないことが明白なので、彼女もそれ以上の関係を求めない。その代わりに、友人としては最高でありたいと心を砕く。

 声を掛けられたことで、突如として辰伶は思考の渦から引き上げられた。状況を把握し、自らの至らなさを詫びる。

「すまん。白けさせてしまったな」
「全くですわ」
「歳子っ」

 労わりの欠片も無くスッパリと切り捨てたのは歳子だ。感情を口にするのに躊躇が無いのは歳子の特性だ。尚且つ辰伶とは高校時代からの知り合いだ。遠慮の立ち入る間柄でもない。その上、異性として興味が無いから、容赦する理由も無い。それが親友の想い人であってもだ。

 歳子は気紛れだ。気紛れに異性を翻弄し、気紛れに同性を嘲弄する。時には親友の恋を気紛れに応援することもある。ホワイトデーを口実に辰伶を呼び出し、お返しをきっちりと頂いてから、頃合をみて歳世と辰伶を2人きりにしてあげる心算だった。しかし辰伶がこんな様子では、とてもそんな雰囲気ではない。とっとと退散した後にはショッピングに行くつもりが予定が狂ってしまい、歳子はすっかり辟易していた。

「辛気臭い顔で、何を考え込んでいましたの?」
「私達で良ければ、相談に乗るが」

 辰伶は大きく溜息をついた。

「バレンタインデーのお返しに菓子をやったら、最低と言われた」

 歳世の表情が強張った。
 歳子のアドバイス(入れ知恵)により、辰伶はバレンタインデーのチョコレートは本命以外からは受け取らないとしている。そうなった経緯を知っている歳子と歳世の2人からは、例外的に受け取っているが、基本的には悉くチョコレートの受け取りは拒否だ。
 しかし、今の辰伶の口振りでは、2人以外の誰かからチョコレートを受け取ったらしい。しかもお返しまでしている。辰伶に恋情を抱く歳世は、とても平静ではいられない。

 歳世の動揺を横目で見て取った歳子は、退屈の終焉を予感した。気紛れな歳子のスイッチは、応援モードから一転して引っ掻き回しモードに切り替わった。

「バレンタインにチョコ貰ったんですかぁ?」
「貰ったというのだろうか。一緒にチョコレートケーキを作って食べた」
「まあ!仲良く一緒に作ったんですの?相手の家で?」
「え?いや、俺の処だが…」

 辰伶は一瞬、答えに詰まった。相手の家でもあるが、自分の家でもある。何しろ一緒にケーキを作ったほたるとは同居しているのだから。

「一緒に作ったと言っても、殆ど俺が作ったようなものだし、しかも誕生日祝いだというから…」
「んまぁーっ!誕生日を一緒にお祝いしたんですかぁ。仲が良ろしいことですわねぇ」
「仲が良いというのだろうか。いいようにこき使われているだけかもしれん」

 歳子はちらりと歳世の様子を窺った。茫然自失といった風情だ。少し苛めすぎただろうか。しかし歳子はすっかり好奇心の虜になっていた。この辰伶をいいようにこき使うとは、相手がどんな人物で、どんな関係で、辰伶とはどこまで進んでいるのか、或いは進んでいないのか知りたくて堪らない。

「そういうことだから、俺はホワイトデーにお返しなんて用意していなかったんだが、今朝、お前達に用意した菓子を見られてな。自分にもお返ししろと言うから…」
「お返しは相手からの請求だったのか」

 辰伶が積極的にお返しを渡そうとしたわけではないことが解かり、歳世は少し安堵した。チョコレートもバレンタインという認識なしに受け取ったらしい。それなら辰伶は相手のことを恋愛対象としていない可能性が高い。まだ望みはある。

 しかし、自分の家に上がらせてケーキを一緒に作るという親密さは無視できない。また、辰伶は『今朝、見られた』と言った。そんなに頻繁に会っているのだろうか。しかも『今朝』というからには、紛うことなき朝っぱらである。歳世は考えたくない考えに行き着き、思考のどつぼに嵌っていった。一縷の望みを懸けて、辰伶に訊ねてみる。

「それは、親戚の子か何かか?」
「親戚……ではないな」

 ほたるは家族だ。親戚という呼び方は余りしないだろう。

「い、妹のような存在とか…」
「妹じゃない。ほたるは弟だ。会ったことあるだろう」
「……おとうと?」

 一気に脱力した。歳子は額を押さえて天井を仰ぎ、歳世はテーブルに突っ伏した。

「ああ、あのコ。あのカワイイ子ね…」
「なんだ…弟か…」

 心配して損した。

「弟からだし、誕生日ということだったから、まさかホワイトデーにお返しが要るとは思いもよらなくてな。あいつの分は用意していなかったんだ」

 そりゃあ、用意しないだろうと、2人は思った。

「何でもいいから寄こせと言うから、ちょうど金平糖があったので、それをやったんだ。そうしたら最低呼ばわりされた。馬鹿とも言われたな」

 歳子はこれ見よがしに深く溜息をついた。厭きれ返った口調で言う。

「弟クンが機嫌を損ねた理由なんて、一目瞭然ですわ。お返しが安いの!セコイの!ケチくさいの!…お話にもなりませんわ」
「しかし、ほたるは何でもいいと…」
「何でもいいわけないじゃないですか。何のためにチョコをあげると思ってますの?全ては豪華なお返しを貰う為ですわ!」
「それはお前個人の見解だろう」
「じゃあ、愛の告白だとでも?弟が兄に?」
「……」
「ホ〜ラ、見なさいな。やっぱり、お返しがチープ過ぎたから、ガッカリしたのよ。向こうは手作りのチョコレートケーキをくれたんでしょう?」
「作ったのは俺…」
「私達にくれたお菓子と比べて、差があり過ぎですもの。僻みもしますわよ」

 辰伶は黙ったまま、真剣に何かを考えているようだ。しばらくそうしていて、やがてこう言った。

「それも一理あるかもな。安物どころか、サービスで貰ったのを流用したものだったし。考えが無さ過ぎたのは確かだ。…何でもいい筈無いか…」

 何でもいい筈が無い。お返しには何が相応しいか、最初から考え直してみることにした。心を込めるとは、そういうことなのだから。


 帰宅した辰伶は、真っ直ぐにほたるの部屋へ向かった。ノックして声を掛ける。

「ほたる。居るんだろう?」

 返事は無い。しかし辰伶はそこにほたるが居ることを確信して、呼びかけを続けた。

「お前、勝手じゃないか。俺だってお前にチョコレートをやったのに、自分だけお返しを要求する気か?俺にはくれないのか?」

 ドアのノブが小さく音を立てて回転した。やはり部屋に居たのだ。ほたるの体分だけドアが開く。

「…欲しいの?」
「不公平じゃないか」

 要するに、仲直りをしようと言いたいのだろうけど。こういう持って回った出方をする辰伶は珍しい。似合わない小理屈を捏ねて、これからどう展開する心算なのか、ほたるは少し興味が湧いた。

「何でもいいならキャロットケーキ買ってくるけど?」
「何でもいい筈無いだろう」

 辰伶は手にしていた袋をほたるに突きつけた。反射的に受け取ってしまい、袋の中身を覗き込む。中には小麦粉やバターや卵などが入っている。

「一緒にクッキーを作ろう。バレンタインの仕返しだ」

 そう言って辰伶は悪戯っぽい仕草で笑った。少し子供っぽいそれは普段の辰伶から考えられなくて、ほたるはその笑顔に釣られるようにして部屋から引っ張り出されてしまった。キッチンへと先を行く辰伶の後を素直について行く。

 辰伶がこんな風に笑えるなんて知らなかったし、想像もしていなかった。そしてそれは、ほたるの機嫌を直すのに十分以上の効果を発揮した。…十分すぎた。

「……辰伶……好きだよ」
「わかった、わかった。俺も…」

 ほたるは目の前の背中を抱きしめた。

「わかってない!…好きだって言ってるんだよ…」

 クッキーの材料が床に落ちた。袋の中で卵が割れる音がした。


 こんなところでつづく。どうするどうなる…ってゆーか、どうしよう!

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