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君に会いたい
ほたるが起きた時には、既に辰伶の姿は無かった。その代わりに、ダイニングテーブルの上にお節料理の重箱と書き置きが丁寧に置かれていた。
書き置きに目を走らせる。余り遅くまで寝ていないこと。1日中パジャマでいないこと。散らかしたら片付けること。火の元に気をつけること…などなど。箇条書きのメモは細か過ぎて煩い。辰伶の小言くさい口調を思い出す。
「めんどくさがって食事を抜かないこと」
口真似して読んでみる。全然面白くない。
ほたるは重箱の蓋を開けてみた。喜びの昆布巻き。招財のキントン。長寿の海老。学問、文化発展の伊達巻。豊作祈願の田作り。子孫繁栄の数の子。無病息災の黒豆…
「よくやるよ。もしかして徹夜した?」
1ミリも外すところの無い正統派正月料理に蓋をする。全然面白くない。
書き置きの最後の段。不審者に気をつけること。それから、何かあったら、
「何かあったら、携帯に連絡すること…」
ほたるは洗顔を済ませ服を着替えると、リビングの炬燵に潜り込んだ。テレビのスイッチを入れると、お笑い芸人が正月のコントをしていた。
「全然、面白くない」
携帯電話を炬燵の上に置いて、ごろりと寝転んだ。
正月の1日からから3日間、辰伶は実家に帰ってきていた。辰伶の家は旧家で親戚の数が非常に多い。新年に訪れる客は3日間合計して百人を越す。そんな中で、本家の総領息子が不在では済まされない。辰伶は朝から羽織袴の正装で父親の隣に座して、客の相手をしていた。
毎年のことで慣れてはいるのだが、どうしても気が張って疲れる。その上、昨夜ほたると2人で近所の氏神様へお参りを済ませたあと、辰伶は夜を徹して数々の正月料理を作ったので、殆ど眠っていない。1人でマンションにいるほたるの為に、お節料理だけはどうしても用意したかったのだ。
ほたるは今頃どうしているだろうか。客たちの会話に機械的に応じながら、辰伶はそんなことばかり気になった。正月に独りなんて、寂しい想いをさせてしまっていることに胸が痛む。
辰伶とほたるは異母兄弟だ。1つ違えばこの場で父親の隣に座っていたのは、ほたるだったかもしれない。やり様によっては辰伶とほたるが並んで座ることだって出来たはずだ。…接客が楽しいことかどうかは別として。
盆の時も同じだった。しかも8月13日はちょうどほたるの誕生日で、後からそれを知った辰伶は非常に申し訳ない気持ちになったものだった。その時に、ほたるには兄として出来る限りのことをしてやろうと心に決めたのだが、心ばかりが走っているのが現実だ。正月さえも独りで置き去りにしてしまっている。
だが、これはどうしようもないことだ。こうして辰伶が息子としての義務を果たすことは、ほたるとの同居の許可を得るときに、父親と取り決めた交換条件に入っている。
ほたるは今頃どうしているだろうか。ちゃんと起きただろうか。朝ご飯は食べただろうか。
そっと携帯電話を懐に忍ばせている。それでも心配でならない。ほたるは何か困ったことがあっても、他人に助けを求めようとしないところがある。携帯電話が鳴らないからといって、何も無いとは限らない。何かなくても、ほたるの様子が判らないというだけで、辰伶の心は宙に浮いてしまう。
辰伶は一時中座し、気持ちをなだめる為に茶を貰った。立ち上る茶の香気に大きく息をつく。
心配するほどほたるは幼い子供ではない。自分と1歳しか違わない。それは解かっていても、辰伶はほたるのことばかり考えてしまう。
「ほたるは今頃どうしているだろうか」
心配することはない。その為に、彼らに頼んでおいたのだから。彼らに任せておけば安心だ。辰伶は自分にそう言い聞かせた。それでも、ふと考えてしまう。
ほたるは今頃どうしているだろうか。
炬燵でうとうとと気持ちよくなってきたころ、玄関の呼び鈴が鳴った。無視していると、2度3度と鳴らされた。
「…何?」
ほたるはめんどくさそうに起き上がると、炬燵を出て玄関へと向かった。呼び鈴は繰り返し繰り返ししつこく鳴らされている。
「セールスだったら帰って。忙しいから」
「嘘つくんじゃねえ。寝てただろう」
「え、この声って」
ドアを開けると、遊庵が立っていた。
「…何しにきたの?」
「そりゃ、お前、新年の…」
挨拶に来たと言いかけた遊庵を踏み倒して、人の山が雪崩れ込んできた。
「明けましておめでとー」 「遊びに来たよー」 「おめでとー。おせち持ってきたよー」 「あけおめー」 「あけおめことよろー」 「あ、このちっちゃい門松、可愛い〜」 「明けましておめでとう。元気だった?」 「キッチンどこ?」 「あれ、何か踏んだ?」 「兄キ邪魔」
雪崩が玄関を通り抜けてリビングへと突入して行った後には、背中にべったり足型をつけられた遊庵が潰れていた。
「ゆんゆん、死んだ?」
「生きてるに決まってんだろっ!」
遊庵は起き上がって全身の埃を払った。
「新年の挨拶がこれかよ…」
「俺は何もしてないから」
確かにほたるは何もしていない。遊庵を突き飛ばし、その上を踏みつけて行ったのは、彼の弟妹たちだ。ほたるは挨拶すらしていないのだ。
最後に庵曽新が入って玄関のドアが閉められた。
「お前の兄キがさ、来いっていうから来た」
「辰伶が?」
冷蔵庫を溢れさせるまでに買い込まれているあの食料や飲み物の山はこの為だったのかと、ほたるは納得した。酒類もあったのは、遊庵の為にだろう。考えてみれば、年末になって急にリビングのソファやテーブルを貸し倉庫に預けて、代わりに炬燵を置いたのもこの大所帯を収納する為だったのだ。よく気の回る奴だと、ほたるは異母兄に対して少し皮肉を交えて思った。
「まあいいや。上がれば」
「相変わらず横柄な奴。まあ、とっくに上がってるあいつらのずうずうしさに比べれば…」
「このメンツで遠慮なんかして、なんかいいことあるの?」
ほたるはスタスタと行ってしまった。
「お前が他人に遠慮するタマかよ」
庵曽新もさっさと上がると、ほたる達を追ってリビングへ行ってしまった。遊庵はそれを見送ると、玄関に脱ぎ散らかされた履物たちを1人で揃えた。その背中はちょっとだけ寂しかったかもしれない。
遊庵を筆頭(あるいはどんじり)に、庵奈、庵樹里華、遊里庵、紀里庵、絵里庵、真里庵、里々庵、そして庵曽新の兄弟姉妹たちが訪れたのは、正月中にほたるが寂しくないようにという辰伶の計らいであった。ほたるが家に知人を呼ばないことも、ほたるが知人の家に出かけないことも見透かされていたわけだ。まるで心を見積もられたような気持ちになって、ほたるは少し面白くなかった。
「すごい。ほたるんちのお節って、数の子入ってる」
「ほたる、ご飯食べたら花札しよう」
「ば〜か。正月は坊主めくりだろ」
「てかさー、ここんちって、ゲーム機無いの?」
リビングはすっかり『庵』家と化していた。炬燵も持参してきたらしく、2台並んだ炬燵の上には庵奈作のお節と辰伶作のが仲良く広げられている。皆がまるで争うように口を開くので、声が途切れることが無い。
「あんたたち、お餅幾つ食べるのー?」
キッチンで雑煮の用意をしていた庵奈の声が、その喧騒を貫く。それまで好き勝手に喋っていた声が揃ってそれに答える。これが、家だ。ほたるが知っている“家”だった。
「まあ、いいや。退屈は退屈だったし」
気を回しすぎる辰伶も、それに乗ってくる遊庵たちも、ほたるは気に入らないが、今回は享受してやろうと思った。でも、全然、面白くなかった。手の中の携帯電話を握り締めた。
数十人に及ぶ親戚一同が揃って食事となると、その支度は大変なことである。それらを行うのは使用人達だが、それを指揮するのは辰伶の母親である。これくらいの客を捌けないようでは本家の嫁などやっていられない。
そして、これくらいの客にうんざりしているようでは、本家の息子などやっていられないのが辰伶だ。大人たちに接して話をしたり食事をしたりなどということは、小さい頃から慣らされているので臆するところもない。
だからといって、決して楽しい気分になれる筈もない。贅を尽くした食事も大して美味しくは無い。
「あいつ、ちゃんと食べてるかな…」
ほたるは今頃どうしているだろうか。携帯電話は鳴らない。
遅い朝食の後は、テレビを見たり、カードゲームをしたり、お菓子を食べたりと、正月らしくだらだら過ごしていた。そんな風なのでお腹が空く間がなくて昼食は省略となった。その替わり、晩御飯の時間が早まって、庵奈と庵樹里華は3時ごろから鍋の支度を始めた。10人もいるので、鍋は2つだ。
「ちゃんと言った通りの物は用意してあるわね」
食材を確認して、庵奈は感心した。事前に辰伶から何か用意しておくものは無いかと聞かれて、鍋の材料などを頼んでおいたのだ。材料の種類も量も庵奈の指示した通りである。カセットガス焜炉用のガスも忘れていない。
「すごいね。カニ、本当に10キロあるよ」
カニの足を断ちながら、庵樹里華が呟いた。
「10キロは冗談だったのにね」
庵奈は笑って応じた。辰伶の律儀さは融通が利かないのを通り越して、立派に天然だ。
「ほたるの兄さん、結構いい人みたいでさ…少し安心したよ」
「そうだね。ところで、うちの兄キなんだけど」
庵樹里華が顎で指した方を見ると、遊庵は酒のつまみに、鍋用の茹でガニの足を毟り取ろうとしていた。
「メシまで待てっつってんだろっ!」
「わ、悪ィ。悪かったからっ」
土鍋を頭上高く掲げた庵奈のもとから、遊庵は仰向けの姿勢のまま、這って逃げた。数メートルも逃げた先で、誰かの足にぶつかった。
「ゆんゆん、カニ?」
ほたるはしゃがんで遊庵を覗き込んだ。ほたるの問いは『ゆんゆんはカニが欲しかったのか?』と言っているようだし、また『ゆんゆんはカニの真似をしているのか?』と言っているようにも取れる。
「何でオメーはそんなに単語が少ねーんだ」
遊庵は起き上がった。
「あのさ、俺、怒ってるから」
「んなこと、判ってるぜ」
ほたるは瞠目した。遊庵はそんなほたるを促してリビングへ戻った。2人は斜向かいに炬燵に入る。
「飲むか?」
「それ、犯罪」
未成年に飲酒を勧める行為を、ほたるは冷たく指摘した。しかし遊庵は『それがどうした』と全く悪びれる様子は無い。
「なんで来たの?」
「電車」
「ごまかさないで」
「…だから、オメーの兄キが…」
「何で辰伶の言うことなんか聞いたの?」
「……」
遊庵はグラスにビールを注ぎ足そうとしたが、缶は空になっていた。最後の一滴が落ちるのを、遊庵は名残惜しそうに見ていた。
「そりゃ、気の毒だったからだ」
「俺が?」
「あいつが」
ほたるは遊庵が続きを話すのを待った。しかし遊庵はそれ以上口を開こうとしない。焦れたほたるは舌打ちをして、冷蔵庫から新しい缶ビールをとってくると、遊庵のグラスに注いだ。
「あの辰伶って奴。何だか必死だろ。一生懸命、兄キらしくしようとしてて。そんな奴を見てると、どうしようも無く…」
遊庵は言葉を切って俯いた。そして小刻みに肩を震わすと、一瞬後に大爆笑した。
「もう、どうしようも無くおかしくてよ。笑っちまうよなあ。あいつ、兄弟ってモンをてんで解かってねーんでやんの」
「……」
腹を抱えて笑い転げる遊庵に、ほたるは段々とムカついてきた。ムカつく理由はないが、そんな言い方をしなくてもいいじゃないかと思う。
「まあ、無理ねーか。お前という異母兄弟がいると知るまでは、あいつは一人っ子だった訳だからな。解かる訳がねーんだ。んで、解かってねーのに、いい兄キなんかになろうとするから、色々とおかしなことになる」
「おかしなことって?」
「兄は弟を守るものっていう幻想を、頭っから信じてんだろーな。そういう責任感が、時には過剰な保護者意識になるし、お前に対して負い目になってたりする」
「うん。そーゆーとこ、ウザいし、たまにムカつく」
そして、自分以上に辰伶のことを理解しているような遊庵の態度にも、ほたるはムカついた。遊庵と辰伶はそれほど面識が無い筈だ。何だかズルイと思う。
「その上、義理堅いときている。知ってるか?あいつは俺達に対しては、お前のことで随分遠慮してるんだぜ」
「どういうこと?」
「身内振らないようにしてるっつーの?何かこう、俺達の方を、お前の家族として立ててる感じなんだな。兄弟っつっても、おまえとあいつが家族として一緒に過ごした時間はまだ短い。だから、血の繋がりだけで、俺達兄弟とお前が培ってきた絆を軽んじてはいけないとか、難しく考えてるんだろうよ」
「……」
ああ、そういうことかとほたるは思った。つまり、ほたるが遊庵に対して抱いているような苛立ちを、遊庵たちに感じさせないようにという配慮なのだ。どこまで気を使ったら気が済むのだろう。だから風邪薬よりも先に胃薬なんかを常備するような羽目になるのだ。
「俺は、気を使い過ぎる辰伶が、すごくムカつく」
「あいつは一生懸命、お前の兄キになろうとして、かえって他人行儀になってんだよ。そういうのが視えちまうから、ちっとばかり気の毒でよ」
「ゆんゆんって…」
遊庵のその深い洞察力と懐の深さを感じて、ほたるは言った。
「ゆんゆんって、年寄りっぽい」
遊庵はガックリと項垂れた。まだ20代なのに…
「どうしたの?辛いことでもあった?ビール、もっと飲む?」
「おまえな…」
そこへ土鍋を持った庵奈と庵樹里華が現れた。
「ほら、できたよ。まだ材料はいっぱいあるからね。どんどん食べな」
てんでに遊んでいた者たちも、一斉に炬燵に群がった。2つの炬燵にそれぞれ鍋が置かれる。
「やった〜。カニー!」
「カニもまだ沢山あるからね」
この喧騒がほたるの家族だった。死んだ母親も家族で、そして現在一緒に暮らしている異母兄も新たな家族だ。ほたるはポケットの中の携帯電話を取り出し、何もせずにまた仕舞った。
明日も朝は早い。辰伶は接客から解放されると、さっさと風呂に入って寝支度を調えた。携帯電話をサイドテーブルに置いて、ベッドに入ると1日の疲れがどっと押し寄せてきた。
「ほたるは今頃どうしているだろうか…」
掛け布団を引き上げた。あと、2日。
「それじゃ、また明日来るからね」
だらだらと長い晩餐に切がついたところで、洗い物は5つ子たちに任せて、庵奈と庵樹里華は遊庵に送られて帰って行った。
残った庵曽新と5つ子達は泊まっていくことになった。遊庵も保護者ということで、庵奈と庵樹里華を送り届けた後で戻ってくる。
客用の布団も辰伶の部屋に用意してあった。辰伶が実家の納戸に山と積まれている客用布団の中からこっそり持ち出してきたのだ。どこまでも用意周到である。ここまでくると、遊庵のように、一生懸命な辰伶が可笑しくて笑えるとまではいかないが、ほたるももう腹は立たなくなった。
ほたるの部屋のベッドは真里庵と里々庵に貸した。床には布団を敷いて遊里庵と紀里庵と絵里庵が雑魚寝だ。辰伶のベッドはほたるが使い、床に庵曽新の布団を敷いた。
「俺はどこで寝りゃーいいんだよ…」
戻ってきて、この有様を見た遊庵が言った。
「あれ?兄キの寝るトコは?無いの?」
「えー?遊庵兄キ?炬燵でいーじゃん」
「うん。炬燵があるある」
弟妹たちの温かい言葉に、遊庵は涙が出る思いだ。
結局のところ布団の数はあるのだから、リビングの炬燵を片付けて、そこへ遊庵の布団を敷くこととなった。しかし、リビングは深夜に至るまで遊び場となっていたため、最終的には遊庵がほたるのベッドを使い、5つ子たちは遊び疲れたまま、炬燵で雑魚寝になっていた。
5つ子たちのパワーから、先ずは遊庵が脱落し、程なくしてほたると庵曽新も寝ることにした。眠る間際に、2人はポツリポツリと言葉を交わしていた。
「…なんで、うちに来なかったんだよ」
「えっと、寒いから。外に出るのめんどくさいし…」
「正月のことじゃなくてっ」
「辰伶がここに入れてくれたから」
「……」
「辰伶がここを追い出さないから」
「……」
「辰伶が『兄』だから」
「…何だよ、それ」
「そのまんま。俺と辰伶は兄弟なんだよ」
この位置では、お互いに顔は見えない。見えるのは天井だけだ。少し角度を変えると、目覚ましの隣に置いた携帯電話が見えた。
2日目も辰伶のすることは基本的に変わらない。そして、考えることも変わらない。
「ほたるは今頃どうしているだろうか」
正月の段取りについては昨年の暮れの内に遊庵や庵奈と打ち合わせがしてあった。庵奈が言うには、2日目の朝はお節の残りで十分だということだ。カニ鍋の残りで雑炊も作るし、餅もある。
昼食には寿司の出前を頼んでおいた。総勢10人だが、育ち盛りが多いので15人前注文してある。吸い物は庵奈が作ってくれることになっている。
そして夜には料理屋にフライの盛り合わせを注文してある。あとは庵奈が何とかしてくれるだろう。
だから何も心配することは無い。しかし辰伶はぼんやりと考える。ほたるは今頃どうしているだろうか…
「辰伶さん」
突然声を掛けられ、辰伶は驚いて振り向いた。
「母さん」
「渡す隙が無かったので、遅れましたが」
お年玉のぽち袋を渡された。
「ありがとうございます」
「成人までですからね。それから、ほたるさんのことですが」
自分の母の口からほたるの名前が出て、辰伶は身を硬くした。ほたるは辰伶の異母弟。辰伶の母にとっては、夫の不実の結果生まれた子供。憎い女の息子である。
「解かっています、生まれてきた子に罪が無いことは。理屈では解かっていても、人の心とはどうしようもないもので、顔を見れば憎しみが湧いてしまう。解かっていても、どうしようもないのです」
「……」
「今はまだほたるさんの顔を見れません。見れば穏やかではいられないでしょう。今後も許せる気持ちになれるかどうか…」
「すみません。母さん、すみません…」
辰伶は謝った。辰伶がほたると同居を始めて、一番傷ついたのは母であることを知っていた。同居を始める前から、母を傷つけることになるだろうことは判っていた。判っていて裏切ったのだ。
「ですが、離れていれば、多少はこんな気持ちにもなります」
母は辰伶にもう1つぽち袋を渡した。『ほたるさんへ』と書かれている。
「母さん…」
「私達は距離を置いたほうが、お互いの為に良いと思うのです。それが私とあの子にとって、一番良い形に思えます。ですから、ほたるさんをお正月にもこの家には呼びませんでした」
それは正しい判断と言えた。この家に来ることが、ほたるにとって必ずしも良いこととは限らない。寧ろ、親戚連中に好奇の目で見られて嫌な思いをするかもしれない。
「辰伶さんがほたるさんと暮らし初めたころは、貴方のした事が理解できなくて、許せなくて、息子までもが私を裏切るのかと、貴方を恨みました」
「母さん、すみません。悩ませてすみませんでした。俺はどうしても……。だって、ほたるは弟だから。弟が、兄を頼って来たんだから、俺はっ…」
何故か涙が溢れてきた。張り詰めていたものが溶けていくようだ。もう子供ではないのに、大学生だというのに、悲しいことなど何もないのに涙が出てきて止まらない。
「私はあの子の母親にはなれないけれど、貴方はあの子のお兄さんなのね」
「…ごめんなさい」
「今なら貴方の心が少しは解ります。私こそが、貴方を悩ませてしまっていたのね」
辰伶は答えられなかった。小さな子供のように俯く息子に、母は優しく言った。
「ほたるさんのところへお帰りなさい」
驚いて、辰伶は顔を上げた。
「お父様には私から言っておいてあげますから。…ほたるさんには、寂しい思いをさせてしまったわね」
「母さん…」
母は踵を返した。真っ直ぐに伸びた背中が去っていくのを、辰伶は見送った。母の姿が視界から消えると、辰伶は弾かれたように自分の部屋に行った。着替えるために急いで着物を脱ごうとすると、懐に入れていた携帯電話が転がり落ちた。
ふと心づいて、辰伶はほたるに電話を掛けた。
ほたるは寿司のネタを剥がし、そこにねりわさびをたっぷりと搾り出すと、またネタを乗せなおして醤油をつけて食べた。ほたるの横にはねりわさびのチューブが5つ並んでいる。
「それ、ほとんどワサビ寿司じゃねーか」
「庵曽新に言われたくない」
庵曽新の横にはマヨネーズが置かれている。庵曽新はマヨネーズをアナゴ寿司にたっぷりと搾り出した。互いに相手の味覚は最低だと思っている。
その時、ほたるのポケットの中で携帯電話が鳴った。
「何?……うん。わかった。……え?………そう………あのさ…『ありがと』って伝えて。直接じゃなくてごめんだけど。…うん、じゃあね」
携帯電話を切ると、ほたるは遊庵に言った。
「辰伶、今から帰るって。だから…」
だから、もう帰ってもいいよと言おうとしたところで、5つ子たちが騒ぎだした。
「じゃあ、ほたるの兄キが帰ってきたら、一緒に初詣に行こうよ」
「どこの神社行く?」
「商売繁盛!お稲荷さん!」
「ええ〜。あそこ、去年おみくじ最悪」
「お前、おみくじ毎年最悪じゃん」
遊庵がほたるに耳打ちした。用が無くなったらポイなんて、こいつらが許さねーぜ…と。
「ねえ。お兄さんが帰ってきたら、お兄さんはどこで寝るの?」
庵樹里華がぽそりと言った。皆は今日も泊まっていくつもりなのだ。ほたるが答えた。
「俺と辰伶が一緒に寝るからいいよ」
もうすぐ、辰伶が帰ってくる。
おわり。長すぎて途中で何が何だか…。あけましておめでとうございます。
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