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好きということ


 庵曽新の真向かいでは、ほたるがミカンを玩んでいる。庵曽新は炬燵に片肘をつきながら、それを眺めていた。

「なあ、家出したんだろ」
「してない」

 ほたるはミカンに人差し指を突っ込んで遊んでいた。

「だって、機嫌悪いだろ」
「うん」

 親指と小指にもミカンを突き刺す。両手ともそのようにして、ほたるは庵曽新に手を振って見せた。一体何がしたいのかさっぱり解からないが、幼馴染で付き合いの長い庵曽新が見たところ、ほたるは機嫌が悪い。庵曽新はほたるの指からミカンを1つ抜き取ると、皮を剥いて実の4分の1程を口に放り込んだ。立て続けにミカンを口に運び、瞬く間に1つを食べてしまった。

「久しぶりに家に来たと思ったら、何なんだよ、お前は。家出なんて、あの兄キとケンカでもしたのか?」
「だから、家出したのは俺じゃない」
「ああ?」
「出て行けって、言われると思ったんだけどね。まさかこういう展開になるとは思わなかった」

 説明としては全くなっていなかったが、ほたるの口振りで、庵曽新は事態を察した。

「家出は兄キの方かよ…」
「今、実家にいる」
「あのマンションって、あいつのだよな」
「正確には辰伶の父親のものかな?よく知らないけど」
「何にしろ、お前が居候で、あっちが家主には違いないよな」
「そうだね」
「で、家主の方が出て行っちまうわけ?」
「行っちゃったわけ」

 庵曽新とほたるは、しばし無言で、ミカンを食べ続けた。

「お前の兄キって、たまにおもしれーな」
「うん」

 辰伶がこういう人物だから、異母弟であるほたると同居することが出来たのだろう。世の中は案外良く出来ているものだと、庵曽新は妙に感心してしまった。


 ほたると庵曽新が辰伶の噂をしている頃、当人がくしゃみを連発していたかといえば、そんな事実は無い。辰伶がしていたのはくしゃみでなく咳だった。

『いかん。声が出なくなった』

 喉が痛いし、咳が止まらない。実家に戻った辰伶は、完全な風邪ひき状態で寝込んでいた。

 風邪をひいてしまった原因には心当たりがあった。正月の2日の夜、大勢の泊り客を抱えた彼らのマンションは寝床が不足し、辰伶とほたるは一緒のベッドで寝ることとなった。しかし、辰伶とほたるが如何に細身と言えども、シングルベッドに2人は狭い。朝になってみると、見事にほたるはベッドから落ちていた。掛け布団諸共である。辰伶はベッドの上で、毛布一枚に包まっていた。

 余談ではあるが、この時、同じ部屋で床に布団を敷いて寝ていた庵曽新は、ベッドから降ってきたほたるに潰されるという悲惨な目に合っている。

 目覚めた辰伶は、まだ己の不調に気づいていなかった。朝食の味噌汁を失敗して非常に辛くしてしまったのも、いつもと人数が違うので分量の勘が狂ったのだと思った。少し体がだるいのも、実家で親戚の相手をしていたときの疲れが溜まっているのだと思い、『庵』家の5つ子たちとゲームをして遊んでいた。夕食に遊庵の奢りで焼肉屋へ連れて行かれたときは、どうにも食欲が湧かないので少し変だと思った。

 そこで風邪のひき始めだと気づいていれば、こんな風に寝込むことは無かったかもしれない。しかし辰伶は全く疑ってもいなかったから、すっかり油断していた。風呂から上がった後、髪を乾かすこともせず、5つ子たちに教えてもらったカードゲームを、ほたると2人で深夜までしていた。そして、そのまま炬燵で眠ってしまったのである。普段の規則正しさからすると、とんでもない不摂生だ。

『しかし、同じ条件で、どうしてほたるは平気なんだ』

 掛け布団と毛布の差が運命の分かれ道だったのかもしれない。しかし辰伶は、あえてこう言いたかった。バカは風邪をひかないのだと。

 辰伶は寝返りをうとうとしたが、それすら体がだるくて思うようにいかない。その時、部屋のドアがノックされた。

「辰伶さん。具合は如何ですか」

 母の声だ。辰伶は応えようとしたが、声が出なかった。代わりに咳が出た。

「入りますよ」

 ドアが静かに開閉され、天井しか見えない辰伶はベッドに人が近づいてくるのを気配で感じていた。

「少しは楽になりましたか?」
『それが、声が出ませんで』

 掠れて殆ど息だけのような声で、無理やり発音する。

「まあ、加湿器はちゃんと点けていますか?…随分水が減ってしまいましたね。給水しておきましょう」
『すみません』
「それから、何か召し上がりますか?」
『いえ…あまり食欲がありませんので』
「そう。ゆっくりお休みなさいね」
『はい。すみません。ご心配おかけしまして』

 辰伶の母が退出して暫くすると、使用人が加湿器に水を足しに来た。それが終わると、部屋の中は一層静かになった。微かな加湿器の音に、辰伶の咳の声だけが響く。

『俺は本当に食欲が無かったんだ』

 食欲が無い。それは本当だった。しかし、それだけでは無かったのも事実だ。まさか、ほたるが、よりにもよって、あんなものを…

 ケンカの原因を思い出して、辰伶は暗鬱たる気持ちになった。実に後味が悪い。何とも情けない。ほたるに悪気は無かったのかもしれない…とは思えないが、確かに自分も大人気なかった。挙句に子供のように家出をして、それで風邪を悪化させているのだから言い訳のしようがない。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう…


 遡って今朝のこと。炬燵の中で目覚めた辰伶は、関節に鈍い痛みを感じていた。喉が酷く渇いていたので、キッチンへ行って水を飲んだが、身体全体が重くて足元がふらついていた。己が身の不調を感じた辰伶は、体温計で熱を測りながら自室のベッドへと向かったが、それすらも億劫で、やたらと距離が長く感じられた。

 電子体温計は38度2分を表示していた。平熱が低めの辰伶には相当辛い。辰伶は体温計をサイドテーブルへ置こうとして失敗し、ベッドの下へ落としてしまった。それを拾う気にもなれず、辰伶はベッドにぐったりと沈み込んだ。

 そのまま午前中は眠ってしまっていたらしく、昼過ぎになってほたるの声に起こされた。そのときには熱も多少は下がっていたので、少し楽になっていた。

「風邪、どう?」
「まだ熱はあるみたいだが、少し良くなった」
「そう。おじや作ったけど、食べる?」

 正直なところ、辰伶は食欲が無かった。しかし、辰伶はいらないと即座に言えなかった。ほたると辰伶が一緒に暮らすようになってから、ほたるが食事を作ったのはこれが初めてだったからだ。

「少し貰おうか」
「じゃあ、もってくるね」
「起きるから、リビングにしてくれ」

 辰伶は半纏を羽織ると、リビングに移動して炬燵に当たった。程なくしてほたるがお盆を持って現れた。慣れない手つきで辰伶の前に配膳する。それを見た辰伶は、我が目を疑った。

 辰伶の目の前には、ほたるが作ったおじやが白い湯気を立てている。そのおじやは鮮やかな橙色をしていた。その隣には、橙色の液体の入ったグラスが並んでいる。

「ほたる、これは…」
「ニンジンと卵のおじや。それから、ニンジンとリンゴのジュース」

 摩り下ろしたニンジンを入れた御飯をトロトロに緩め、醤油で味を付け、卵でとじたおじやだ。ジュースもホームメイドで実に美味しそうである。ニンジン嫌いでなければ。

 黙っていたのだが、実は辰伶はニンジンが嫌いだった。これまでずっと辰伶が料理をしていたので、迂闊な形で食卓にのぼることがなかったのだが、昨日、庵奈がお昼にカレーライスを作ってくれた時の材料のニンジンが残っていて、それをほたるが使用したのだろう。

 カレーライスに入っている程度のものなら何とか食べることは出来るが、このおじややジュースほどニンジン度が高いと、辰伶にはもう食べ物には見えない。

 辰伶は冷や汗をかいた。ただでさえ食欲が無いのに、嫌いな食べものとあっては、とても口にする気になれない。しかし既に目前に置かれていて、今更食欲が無いとはいえない。

 ほたるは斜向かいに座り、おじやの椀と蓮華を持った。蓮華に少しおじやを掬い取り、息を吹きかけて適度に冷ます。

「口開けて」
「え!?」
「ほら。口、開けてよ」
「そんなこと自分でやる」
「何で?俺が風邪ひいたとき、辰伶が食べさせてくれたじゃない」

 それはほたるが初めて辰伶を訪ねてきたときのことだ。風邪をひいて寝込んでしまったほたるの世話をしたのは辰伶で、その時にほたるの食事を介助したのも確かだ。それについては、辰伶には言い分があった。

「あれはお前が右手を怪我していたからだ」
「ああ。俺、左手も使えるから」
「え?」
「だから、両手利き」

 何故それを早く言わない。辰伶はぐったりと疲れてしまった。あの時そうと知っていたら、絶対にあんな真似はしなかっただろう。

 いや、過ぎたことはどうでもいい。辰伶にとって問題なのは、現在直面しているピンチをどう乗り切るかである。

「はい、口開けて」
「う…」

 関係ないが、歯医者の治療台を連想した。実際、辰伶の緊張感はそれに匹敵していた。どうにも口を開こうとしない辰伶の態度に、ほたるは訝しく思った。

「ひょっとして、辰伶、ニンジン嫌い?」
「そんなことは!」

 そう口にして、辰伶はすぐに後悔した。何故正直に「そうだ」と言ってしまわなかったのだろう。好き嫌いは良いこととは言えないが、誰しも苦手な食べ物というのはあるものだ。

「そうだよね。まさか、ニンジン食べるのが嫌で口を開けないなんて、子供じゃあるまいし」

 まさしく図星を突かれ、辰伶は深く傷ついた。

「ほら」
「……」

 辰伶は覚悟を決め、ほたるの差し出す蓮華に唇を寄せた。おじやの美しい橙色に目を閉じて、思い切って口に含む。

「…っ」

 咽そうになって、慌てて口元を押さえる。悪魔のニンジンおじやを液体で流し込もうにも、目の前にあるのは呪いのニンジンジュースである。育ちの良さが災いして、一旦口にした物を吐き出すことのできない辰伶は必死に飲み込もうとした。ところが嫌いなものというのは中々喉を通り過ぎてはくれないもので、辰伶はこれ以上ないくらいにニンジンを堪能してしまった。

「まずかった?」

 ほたるは自分で食べて味をみてみたが、咽るほど酷いものとは思えなかった。

「やっぱりさ……ニンジン嫌いなんじゃないの?」
「……」
「そうなんだ。やっぱりね」
「…やっぱり、だと?」

 何とかニンジンを飲み込んだ辰伶は、ほたるの言葉に引っかかりを覚え、横目に睨みつけた。ただし、目元を涙に滲ませていたので迫力は皆無である。

「辰伶が作るカレーって、すごくニンジンが細かく刻んであって、溶けて形が無くなるまで煮込んであるじゃない。最初は単によく煮込んだのが好きなのかと思ってたけど、昨日の庵奈のカレーのニンジン、スプーンで小さく刻んで食べてたよね。しかも、ちょっと目が虚ろだった」
「観察眼が鋭くて結構なことだ。悪かったな、ニンジンが嫌いで。それで貴様は俺がニンジンが苦手だということを知っていて、嫌がらせにこんなものを作ったというのか」
「…知ってたわけじゃない。そうかもって、疑ってただけ」
「じゃあ、実験したというわけか。やっぱり嫌がらせじゃないかっ」

 段々と語気が強くなってくる辰伶の口吻に、ほたるも段々と神経が尖ってきた。気が強いところはそっくりな兄弟だ。こうなるとどちらも止まらない。

「嫌がらせ、嫌がらせって、何でそんな言い方するんだよっ。ニンジンが嫌いなのは辰伶の勝手でしょ!」
「ああ、俺の勝手だ。勝手にして何が悪い。俺がニンジンを食べなかったら世界が滅ぶとでも言うのかっ」
「なに開き直ってんだよっ。俺には食べ物のことで、あれこれ文句言う癖にっ」
「お前のワサビの使い方は普通じゃないだろっ」
「それこそ俺の勝手だよっ。辰伶にとやかく言われたくない」
「うるさいっ!」

 辰伶はほたるを怒鳴りつけると、足音高くリビングを出て行った。辰伶の部屋のドアが閉まる音が響いた。

「何なんだよ」

 数分としないうちに、再び辰伶の部屋のドアが開閉する音が乱暴に響いた。足早に廊下を歩く音がリビングの前を通り過ぎ、玄関へと真っ直ぐ向かっていった。ほたるが玄関へ行ってみると、外出の支度を調えた辰伶が靴を履いているところだった。

「何してんの?」
「……」
「風邪引きが、何処行く気?」
「出て行く」
「え?」

 思いがけない返答に、ほたるは驚いた。

「出て行くと言っているんだ。お前の顔なんか見たくない」
「な…」

 辰伶は振り返りもせずに出て行った。足音が去っていく。ほたるは閉じられたドアの前で呆然としていた。

「…何?あれ」


 ほたるから一部始終を聴かされた庵曽新は、正直に感想を述べた。

「お前ら、揃ってバカだろ」
「バカは辰伶1人。何で俺がバカなの」
「普通さあ、食欲落ちてる病人に、そいつの嫌いなモン喰わさねえだろ」
「別に嫌いだって、知ってたわけじゃ…」
「半分以上、確信だろ」
「うん」

 これで嫌がらせをしたつもりは無いというのだから、辰伶が怒るのも少しは当然である。

「そんなんじゃ、悪気が無かったとは言わせねえぜ」
「辰伶の弱点が知りたかったんだよ」
「何でまた」
「兄キヅラがムカつくから」

 その気持ちは庵曽新にも理解できた。弟の立場というものは、同じ弟たる身にはよく解かる。しかし同時に庵曽新は兄でもあるので、辰伶の気持ちも解からないでもない。

「ずるいんだよ。年上ったって、半年しか違わないくせに。俺、18だよ。辰伶も18で一緒だってこと、絶対忘れてる」
「しょうがねえだろ。学年が違うんだから」

 例えこれが3月と4月の一ヶ月間の差であっても、1学年は1学年だ。先輩後輩の線はくっきりと引かれる。兄弟も同様だ。

「とにかくなあ、そんなくだらねえことしてっと、次に仕返しされるぜ。メシはいつも兄キが作ってんだろ」
「あ、それは大丈夫」

 ほたるの嫌いな食べ物は、普通なら絶対に食卓に上らないものである。ご飯のおかずにならない物だから、普通でなくとも上らない。まず辰伶が買いそうもないというのが好条件だ。

「喋ったらすっきりした。帰る」
「またいつでも来いよ」

 去り際になって、ほたるは独り言のように言った。

「なんで、兄なのかな…」

 その問いは、答えを求めての呟きではない。それ故に、庵曽新は無関心であることを己に課した。


 ほたるがマンションに戻ると、辰伶も帰ってきていた。

「おかえり。…早かったね、家出」
『向こうじゃ風呂に入れさせてもらえんからな』

 掠れた声で聞き捨てなら無いことを言った辰伶に、ほたるの眉間に皺が寄った。

「酷い声だけど、何?風呂に入ったの?」
『ああ』

 辰伶は髪から滴り落ちる雫をタオルで拭きながら答えた。

「バカじゃないの!そんなカスカスの声してっ」
『入りたかったんだから、しかたないだろう』

 ほたるは絶句した。まさか自分の異母兄が、これほど馬鹿だったとは知らなかった。呆れて言葉が出てこない。

 ふとみると、炬燵の上に置きっ放しにしたおじやの椀が空になっていた。

「食べたんだ」
『今なら味が判らんからな。2度と喰うものか』

 風邪の影響で味覚が鈍くなっているのは本当だろう。しかし嫌いな食べ物の味というものは、どんな状態になっても判ってしまうものである。辰伶がニンジンおじやを無理やり口に運ぶ姿を思い浮かべて、ほたるは可笑しくなった。

「辰伶、ちょっとそこに座って」

 ほたるは辰伶を炬燵の前に座らせ、洗面所からブラシとドライヤーを取ってきた。辰伶の背後に膝立ちする。

 辰伶は髪に温風を感じた。ほたるの手がせわしく梳る感触が気持ちいい。炬燵にあたりながら、心地よくなっていた。

「せめて髪の毛洗わなきゃいいのに」
『毎日洗わないと気持ち悪い』
「治るまで、絶対に許さないからね」
『横暴だ』
「だったら早く風邪治せば」

 辰伶の髪をすっかり乾かしてしまうと、ほたるは辰伶をベッドへと追い立てた。普段と反対の立場に、何だか変な感じがする。

「おとなしく寝てなよね」
『……』
「何?なんか文句でも?」

 辰伶が何事か呟いたので、ほたるは聴き取るために耳を寄せた。

『掃除がしたい』
「え?」
『リビングの片付けがしたい』

 リビングは正月に来客があったまま、散らかり放題に散らかっていた。辰伶はそれが苦になってしょうがない。

「そんなの治ってからでいいじゃない」
『明日が燃えるゴミの日なんだ。洗い物もしたいし』
「…俺がやっとくから」
『俺がやりたいんだ』
「我慢しなよっ」

 辰伶はほたるに怒られたことで不貞腐れて、頭から布団を被ってしまった。ほたるは辰伶の我侭ぶりに呆れかえると同時に、普段とは立場が逆転したようで憮然とした。これなら兄キヅラの辰伶の方がまだマシである。ほたるはもう一言何か言いたくなったが、これ以上小言くさくなっては本当に辰伶になってしまうのでやめた。すると布団の中から辰伶がボソボソと言った。

『ほたる、『男子厨房に入るべからず』って、解かるか?』
「知らない」
『俺は家を出る前は料理はおろか、台所に入らせても貰えなかった。だから、このマンションで暮らすようになって、俺は初めて冷蔵庫の中というものを見たんだ。…ああ、テレビのCMとかで見たことはあったが、自分で開けて中身を出し入れするのは初めてだった』
「それが何?」
『楽しかった』
「良かったね」
『料理も買い物も食器洗いも面白くて、すっかりハマった』

 理解し難い感性だ。ほたるはつくづくそう思った。そして、そんな辰伶のことが、ほたるはどうしようもなく…

「あのさ、俺、辰伶が好きなんだけど」
『それはどうも』
「ねえ、弟が兄を好きなのって、どう思う」
『仲が良くて結構だ』
「じゃあ、兄は弟が好き?」
『当たり前だろう。弟というのは可愛いものだからな』

 辰伶は気づかない。こんなにはっきりと告げても、全く通じない。この鈍感さが幸いだ。鈍感すぎる辰伶だから、ほたるは安心して本心を漏らすことができる。隠す必要も、偽る苦労も無い。

「…だったらいいよ」

 ならば、兄で構わない。辰伶が兄であること、自分が弟であることを、ほたるは自分に許した。

「俺、辰伶のこと好きだから。おやすみ」
『おやすみ。俺も好きだからな。掃除は頼んだぞ』

 心から好きだから。どんな形でも好きだから。好きという気持ちが溢れて止まらなくて、ほたるは切なく瞳を揺らせた。


 庵曽新の真向かいでは、ほたるがミカンを玩んでいる。庵曽新は炬燵に片肘をつきながら、それを眺めていた。

「で、今日は何しに来たんだよ」
「家出」

 ほたるは炬燵の上にミカンを積み重ねて遊んでいた。『1つ積んではオレのため〜』と、意味不明な歌をボソボソ歌っている。2つまでは上手くいくものの、3つはどうしても無理だ。崩れて転がって、庵曽新の前で止まった。庵曽新はそれを掴むと、皮を剥いて食べた。

「その割に、機嫌がいいじゃねーか」
「まあね」

 今日のほたるもいつもと全く変わったところは見受けられないが、どうやら機嫌が良いらしい。幼馴染の庵曽新だからこそ判るのだが。

「何かあったのかよ」
「辰伶に怒られた」

 辰伶が風邪をひいて寝ている間、ほたるがリビングを片付けたり、ごみ出しをしたりしておく約束だった。しかしそれは全くの口約束で、ほたるは1つも守らなかったのだ。

「辰伶が風邪ひいてる間は部屋に閉じ込めといたからバレなかったけど、治ったらバレちゃった」
「当たりめーだろ」

 もともと辰伶を寝かしつけるための口から出任せだったから、ほたるには罪悪感は無く、当然のことながら反省の色は全くない。一時的に立場が逆転したようにみえても、所詮、ほたるはほたるなのだ。

「あ、もうこんな時間だ。帰んなきゃ」
「え?」
「今日は鏡開きだから、辰伶がお汁粉作るって」

 ほたるの傍らにはスーパーの袋があり、汁粉用の茹で小豆が透けて見えた。

「それって、家出って言わねーんじゃねーの。単なるお使いだろ」
「帰る家があるから、家出なんだよ」

 ほたるはどこまでもほたるで、上機嫌だった。


 おわり。以前設置していたアンケートフォームからのリクエスト。その節はありがとうございました。
 念のため、これはほたるの片想いの話ではありませぬ。(←じゃあ、何だ)

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