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同居物語


 人生、何が起こるか分からないものだ。

 T大文科一類に現役合格し、法学部を卒業し、官僚になるというのが、俺の将来設計だった。子供の頃から父親にそう言い聞かされてきたので、その道を進むことに何の疑問も抱いていなかった。

 しかし、高校3年になったばかりのある日、突如として俺は父親に対して反感を覚え、大喧嘩の挙句、志望校を変更してしまった。進路指導の先生方にも色々言われたが、新たに志望したのもブランド校の壬生大学だったので、最終的には反対されなかった。現在、俺は壬生大学の法学部に通っている。志望の学部を変えなかったのは、法学部をターゲットに受験の準備を進めてきてしまったので、他に思いつかなかったからだ。その意味では進路に大きな変化は無い。

 父に反抗した俺は、大学進学と同時に家を出た。とは言っても、父の購入したマンションに住んでいるので、完全独立したわけではない。学費も生活費も親持ち。いい身分とはこのことだが、この際、自分の出自は大いに利用させて頂く。

 大学の1年という年は、まだ専門教科も少なく、教養科目が殆どだ。俺は今、数学に取り組んでいる。数学は苦手ではないが、そもそも文系の俺は得意とも言い切れない。しかし、論理的な思考を育てるのには有益な科目だ。嫌いではない。

 こう言っては何だが、俺には苦手科目というものは無い。何故なら苦手な科目があるなど、俺には許されなかったからだ。成績など良くて当たり前で、これまでの人生をやってきた。それもこれも両親の押し付けがましい期待のせいだが、だからといって今更、手を抜く気にもならない。

「ねえ、辰伶。退屈」
「そうか。良かったな」
「何してんの?」
「勉強だ」

 だから邪魔をするな。

「何で大学生が勉強なんかしてんの?」

 どういう意味だ。学業は学生の本分だろうが。無視していると、横からテキストを掻っ攫われた。

「あ、おい!ほたるっ」

 横から俺のテキストを奪って行ったこいつの名前はほたるという。ほたるは高校3年生で、俺と一緒にこのマンションに棲んでいる。

「俺、数学って嫌い。点数もらえないからムカつく」

 そう言って、ゴミ箱に投げ入れた。

「馬鹿野郎!それは俺のだぞっ」
「あ、ゴメン。つい癖で」

 教科書をゴミ箱に捨てるのが癖というのは、随分と問題のある行動だ。

「数学が嫌いって、お前は確か、理系じゃなかったか?」
「化学とか物理は好き」
「だったら、数学が嫌いなんて言ってられんだろう」
「嫌いなものは嫌いだからしょうがないよ。国語も嫌いだけどね。解釈が幾つもあるって言い訳がましくて卑怯だよ。それから英語も意味不明だから嫌い」
「卑怯と言っても、それこそ、そういう物だからしょうがないだろう。英語は国際化していく社会にはどうしても必要だし」
「国際化って言ったって、別に世界中の人が英語を話してる訳じゃないんでしょ」
「それはそうだが…」

 時折ほたるは嫌に鋭いところを突いてくることがある。馬鹿ではないのだ。

 そう、実はほたるは馬鹿じゃない。それどころか、恐ろしいような頭脳を持っている。

 ほたるは数学が嫌いだ。しかし普通に数学が不得意というのとは少し違う。ほたるは数式を見ると、公式や解法などの過程をすっ飛ばして、いきなり解を出してしまうのだ。何故それが解かるのかと訊いてみても、本人に言わせると、解からない方がどうかしてるということだ。リンゴとは何かと訊かれて頭にリンゴを思い浮かべるのと同じ要領で、彼の頭にはその数式の解が浮かぶらしい。常人には理解しがたい能力だ。しかし、解の過程がなければテストで点数は貰えない。だから嫌いだというのだ。ある意味、とんでもない馬鹿とも言える。

 ほたるは能力よりも、興味の有無が大きく作用している。数学の公式を覚えるのは嫌いでも、化学式や物理法則を覚えるのは好きだという。変な奴だ。記憶力は興味と綺麗に正比例していて、興味があるものとそうでないものへの落差は、いっそ清々しいほどだ。

 いくら天才的な頭脳を持っていても馬鹿は馬鹿だし、役に立たないのではどうしようもない。宝の持ち腐れとはこのことだろう。


 まだ春先の冷たい雨の降る夜のことだった。学校の制服のまま、ずぶ濡れのほたるが、このマンションの扉を叩いたのは。

『……』
『何の用だ』

 無言で立ちつくす相手に、誰だ?とは訊かなかった。俺はこいつを知っていたから。ほたるは俺の1学年下で、同じ高校だったから後輩になる。しかし学年が違えば、クラブ活動等で一緒になりでもしない限り余程面識は無い。実際にこの時まで話どころか挨拶さえしたこともなかった。

 それなのに、何故俺がほたるを知っていて、ほたるも俺を訪ねてきたかといえば、理由は1つしかない。その理由は、俺が父親に造反した理由でもある。

 ほたるは俺の異母弟だった。つまり、俺の父親が愛人に生ませた子供なのだ。

 ほたるは雫の垂れ落ちる顔をゆっくりと上げ、ぽつりと言った。

『俺、ここに住んでいい?』
『…は?』

 突然のことに俺は面食らった。

『何故だ』
『うん。母さん死んだから』
『いつ?』
『え、と…、昨日が初七日だった』
『……』

 母親が死んだということは、未成年のほたるは俺の父に頼る他ない。

『父には?』
『言ったよ。そしたら、家に来いって。でも、俺はあそこに住みたくない。だから、ここに入れてよ』

 おまえと、おまえの母親のせいで、俺の母がどれだけ苦しんだか分かっているのかと言ってやりたかった。だが、それは俺が言うべきことではない。ほたるに言っていいことでもない。

『…家事は半分ずつだぞ』

 ほたるは頷き、そうして俺はこいつを迎え入れた。ほたるがあの家で暮らすというのは、ほたるにとってもだが、俺の母にも良いこととは思えなかったからだ。まだ、ここの方がマシだろう。

 幸いマンションは学生が1人で棲むにしては贅沢なほど広く、部屋数も多かった。その中の洋間の1室をほたるに与えて、こうして俺たちの同居は始まったのだった。


 いかん。集中力が切れてしまった。もう勉強する気分ではない。今日はもうやめだ。

「俺、コーヒーね」
「……」

 俺は立ち上がっただけだというのに、どうしてこいつは俺が茶をいれにいくことが分かったのだろう。普段はボケた言動ばかりしているが、結構、勘は鋭い。

 それにしてもだ。どうして俺も素直にコーヒーをいれてやっているのか。別についでだから構わんが、年上を顎で使うな、顎で。

 大体だ、家事は半分ずつだと言ったのに、こいつときたら何もしないのだ。料理も掃除も全部俺がやっている。洗濯はさすがに面倒なので、業者に出しているが。ハウスキーパーを雇うという手もあるが、他人が出入りするのは煩わしい。

 リビングなど散らかしても、絶対に片付けない。この分では、こいつに与えた洋間など、どんな有様になっていることやら。見てみたい気もするが、あの部屋がほたるのものになってから、俺は1度もそのドアを開けていない。鍵が掛けられているわけでもないのだが、何となくあの中に入ってはいけないような気がしていた。あの部屋だけは、ほたる1人のものだから。ほたるだけの世界なのだから。

「ねえ、今月のお小遣い、まだなんだけど」
「ああ、そうだったな」

 俺はほたるに1万円札を渡した。高校生の1ヶ月の小遣いとして多いのか少ないのかよくわからない。俺もついこの間までは高校生だったが、俺が貰っていた小遣いの金額は世間一般と違うことは知っていた。だから見当がつかないのだが、足りなければ言ってくるだろう。

 この金は、俺の父親から出ている。ほたるが訪ねてきた明くる日、俺は実家に行って久々に父親と大喧嘩をかました末、ほたるの学費や生活費をふんだくることに成功した。余りに上手くいったので、大学を卒業したら弁護士になろうかと思ったくらいだ。

 この行為はまるでほたるに味方しているようで、母には申し訳なかったが、しかし母の為でもあるのだから、どうか赦して欲しい。

 そして分かったのだが、ほたるは私生児の扱いがされていた。父はほたるを庶子として認知していなかったのだ。俺は暗鬱たる気持ちになった。だから慰謝料込みで父親に金を請求した。

 しかしこの結構な金額を、そのままほたるに渡すのもどうかと思った。予想通りこいつは計画性というのに乏しく、これだけの金額の管理など出来よう筈が無い。そういうわけで、俺はこいつに内緒で銀行に口座を開き、月の小遣い以外にも授業料や参考書代、その他衣料費など必要な分を、そこから出して渡すことにした。

 いつか、ほたるが自分の行く道を選び、このマンションを出ていくと決めた時に、この通帳を渡してやろうと思う。

「辰伶、出かけないの?」
「別に用は無い」
「辰伶は彼女とかいないの?」
「あいにく、人から好きだと言われたこともない」
「……歳世、かわいそ」
「何故そこで歳世の名前がでる」

 歳世とは同じ大学に通っている同級生だ。学部は違うが一般教養科目でよく講義が一緒になるし、同じ高校の出身なので、昼食などを一緒に食べたりしている。彼女は大抵、歳子という友達と一緒にいるから、3人でいることが多い。
 歳世は(こういう言い方をしていいものか判らないが)女性にしては凛々しく意志もはっきりしていて、とても好ましい学友だ。あの派手で浮かれた歳子と何故友人なのか分からない。しかしあんなに性格が違うのに、気は合っているようだ。不思議なものだ。

「はっきり告られないと判らないなんて、…ニブイよね」
「だからどういう意味だ」
「辰伶が気になってる人はいないの?」
「俺?」

 俺?俺が気になっている相手?ほたるに言われるまで、そんなこと考えたこともなかった。

「いないな」
「いないんだ」
「強いて言うなら…、おまえだ」
「俺?」
「最近は遅刻も多いようだし、まともに学校に行っているのか?提出物は?おまえは3年だが、ちゃんと進路は考えてるのか?そういえば友達を連れてきたことがないが、おまえ、いじめられてないだろうな」
「……大きなお世話だよ」

 ついうっかり小言のようなことを言ってしまった。機嫌を損ねてしまったか。

 しかしほたるはその口元に不思議な微笑を湛えていた。気のせいか、嬉しそうに見えた。


 おわり

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