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同居物語・補


『俺、ここに住んでいい?』

 その一言を、どれ程の想いで言ったのか。あの時のあいつの気持ちを考えると、まるで鉛を飲んだように息苦しくなる。その苦く冷たい塊は時間の経過と共に消化される筈もなく、今なお俺の胸の中に重く重く蓄積され続けている。

 不安が無かったはずはない。あいつが俺のことをどれくらい前から知っていたかはしらないが、しかし言葉を交わしたのは今日が初めてのことだ。片親の血の繋がりはあっても、一面識も無い他人と同じ。そんな相手のところへ転がり込むしか術がないなんて、どれほど心細いことだろう。そして、どれほど勇気が要っただろう。

 終始あいつは淡々としていた。少なくとも表面的には、悲しいとも、寂しいとも、辛いとも言わなかった。その瞳は乾いた心そのままに乾いて、声は彼の決意と同じく震えることなく。ただ全身を、まだ3月の春も尚早の凍るような雨に濡らして。

 それほどまでに、彼は父親が赦せなかったのだろう。それほどまでに、深く傷ついていたのだろう。

 しかし俺は何も優しい言葉をかけてやらなかった。温かい言葉を何も持たなかった。俺はあいつの兄だというのに。弟であるあいつが、必死の想いで助けを求めてきたというのに。ただ俺はドアを開け、ただ義務として迎え入れただけだ。そこに人の温かみなどない。この程度の人間であったのかと、自分自身に失望している。

 雨に濡れたほたるは芯から凍えているようだった。とりあえずほたるを風呂場に追いやって、身体を温めさせた。ほたるが風呂に入っている間に、俺は父親と連絡を取ろうとして、止めた。電話越しに喧嘩になるだけだ。明日にしてしまえ。

 俺は空いている部屋のベッドを調えることにした。着替え用に新品の下着と、俺の予備のパジャマを用意する。雨も降っていることだし、今日はこのまま泊めて、明日、荷物を取りに行かせれば良いだろう。暗い夜道を高校生1人で帰らせるのは無責任だし、送っていくにも俺自身が未成年だ。

「…遅いな」

 ふと気づけば、時計は10時半を回っていた。ほたるを風呂に入れたのは10時前だったから、1時間近くも入っていることになる。ほたるが生来長風呂だったとしても、少し長過ぎはしないか。

「ほたる」

 風呂場の扉越しに声を掛けるが返事が無い。2度3度と繰り返したが、一向に応答が無い。じっと耳を澄まして中の様子を窺うが、物音1つしない。

 ハッと気づいた。風呂場のような響く場所で水音1つしないというのは異常なことではないのか。俺は思い切ってドアを開けた。案の定、ほたるは湯船でぐったりとのぼせていた。

 とにかく慌てた。湯船からほたるを引きずり出す。意識の無い身体は重かったが、ほたるは小柄なので助かった。バスタオルで包んで水滴を拭き取る。ほたるの頬は赤く息が荒い。

「ほたる、ほたる」

 頬を軽く叩いてやる。薄っすらと目を開けた。

「あれ、辰伶…」
「わかるか?おまえは風呂でのぼせたんだ」

 まだぼんやりとした風情だが、何となく状況は把握しているようだ。小さく頷いた。

 ほたるの身体を支えて、部屋へ誘導した。調えておいたベッドに座らせ、着替えを渡す。ほたるがパジャマを着ている間に、俺は水を汲みに行った。応急処置には余り詳しくはないが、恐らく水分が必要だろうと思った。

 戻ってみると、ほたるは着替えも途中で寝ていた。仕方がない。殆ど開いてしまっている前のボタンをとめ、湿った髪を拭いた。呼吸が苦しそうだったので、ボタンは上2つを開けておいた。ベッドに対して殆ど垂直になってしまっている体勢を直して、浅く布団を掛けた。身体は熱そうだったが、急に冷やすのも良くないような気がしたのだ。そのかわり、額には濡らしたタオルを乗せた。

 しばらくそのまま様子を見ていたのだが、呼吸も落ち着いてきたし、楽になってきたようだ。布団を掛けなおし、俺は空調のスイッチを入れて部屋を出た。


 真夜中、物音で目が覚めた。ダイニングからのようだ。寝ぼけた頭で侵入者かと思ったが、今日は自分以外の人がいることを思い出した。

 もう一度寝入ろうとした端に、今度は硝子の砕ける音がした。続いて何かが倒れたような音。俺は飛び起きてダイニングへ行くと、ほたるが倒れていた。傍でコップが割れていたから、水を飲もうとしたのだろう。

「ほたる。おい、ほたる」

 抱え上げた身体が熱い。これはのぼせたのとは違う。熱があるのだ。

 ほたるを抱き上げて、ほたるを寝かせていた部屋へ運んだ。俺はびっくりした。部屋が冷え切っていたのだ。驚いて空調のパネルを見てみたが、ちゃんと温風の表示になっている。どうやら故障していたらしい。

 そのまま俺はほたるを自分の部屋に運び、俺のベッドに寝かせた。額を触って調べて見たが、熱が高いようだ。そして、その時になって気づいたのだが、ほたるは右の掌を怪我していた。おそらく倒れたときかなにかに、落として割ったコップの破片に手をついてしまったのだろう。

 こんなにも何もかもが一度に起こってしまって、俺は慌てふためいて対応が随分と手間取ってしまった。とにかく右手の血を拭ってみると、あまり傷は深くはないようだった。医者にみせるまでもなく、自然と完治する程度だ。しかし絆創膏では小さすぎる。傷薬を塗ってガーゼで覆い、包帯を捲いておいた。

 怪我の処置が一段落すると、俺は解熱剤を探した。しかし俺はあまり病気をしないので、風邪薬すら置いてなかった。あるのは胃薬だけだ。胃薬では何ともならん。

 こんな時間では当然ながら薬局も開いていない。とりあえず、俺は近くのコンビニへ走った。薬は売っていないが、貼り付けタイプの冷却シート(要するに『熱冷ま○ート』のことだ)ならあった筈だ。

 随分とバタバタしたが、何とか成るように成るものだ。最後にほたるの顔を覗き込み、自分も寝ることにした。空調を調節し、ほたるが寝ているベッド(俺のベッドだ)の隣に布団を敷いて、横になった。


 翌朝。目が覚めて驚いた。すぐ間近に他人の顔がある。それが誰であるかすぐに解かったが、どうしてほたると同じ布団で寝ているのだろう。場所は床に敷いた布団の方だから、ほたるの方から入って来たらしい。ベッドから落ちたのか?ほたるは寝相が悪いのだろうか。

 余程寒かったのだろう。ぴったりと身体を寄せてきている。パジャマ越しにほたるの体温を感じて、その温かさに陶然となる。ほたるは少し背中を丸めて、まるで猫のようだ。

 額を触ってみたが、熱はだいぶ下がったようだ。いつまでもこうしているわけにはいかないので、起き上がろうとして、パジャマが引っ張られた。ほたるの指にきっちり握られている。それを何とか外して布団を出て着替えた。ほたるはそのまま寝かせようかと思ったが、床のほうがどうしても防寒に優れないのでベッドへと運びなおした。全く、昨日会ったばかりというのに、こうしてほたるを抱き上げるのは何度目だろう。

 ベッドへと寝かせて布団を掛けなおすと、ほたるが目を覚ました。

「大丈夫か?身体の具合はどうだ」
「なんか…だるい」
「風邪だな。まだ熱があるんだろう。今日は寝てろ。着替えとか洗面具とか当面必要なものを取ってきてやるから、鍵を貸せ」
「鍵?」
「おまえの家の鍵だ」
「…えっと、カバンの中?制服のポケットかも」

 ほたるのカバンはリビングに置いたままになっていた。取ってきてほたるに渡す。ほたるは気だるげにカバンの中を探っていたが、鍵は入っていなかったようだ。

「…制服みたい。勝手に探して」

 ほたるの制服は、昨夜ほたるを寝かせた後、ハンガーに掛けて干しておいた。まだ湿った制服のポケットの中からキーホルダーがジャラジャラとついた鍵が見つかった。

 ほたるに家の場所を訊いて、俺は部屋を出ようとした。その時にふと思い当たって、ほたるに訊ねた。

「何か食べたいものはないか?」
「食べたくない」
「食欲が無いか。…プリンとかゼリーは?」
「いらない」
「ヨーグルトはどうだ?」
「……」

 少し心を動かされた様子だ。俺も熱を出したときは食欲が無くなる性質だが、そんな時でも冷たいヨーグルトは妙においしかったりする。ついでに買って来てやろう。


 そして俺はほたるの荷物を取りに行く途中で、風邪薬は薬局が開いてなくとも実家に取りに行けば良かったということに気づいた。薬を貰いに立ち寄ったところで、ほたるのことで父親と大喧嘩になった。色々条件を付けられたが、しかし概ねこちらの要求が通ったので、俺の勝ちだろう。

 こうして俺たちの同居生活は始まった訳なのだが、どうも俺は最初を誤ってしまった。

 それというのも、その後ほたるの風邪は結構長引き、その間ずっと俺が家事をしていたら、それが定着してしまったのだ。

 あの時のほたるは風邪で動けない上に、利き腕である右手を怪我していたから、食事の世話は勿論のこと、顔を洗うことさえ俺の手が必要だった。風呂に入れないから身体を拭いてやったし、身体がふらつくからトイレに行くにも支え手が要った。俺は看護学校を受験しなおして看護士になろうかと思ったくらいだ。故障した空調機も修理に時間がかかったから、その期間、俺のベッドはほたるに取られて、俺はその横で布団を敷いて寝ることを余儀なくされた。

 だけど、ああして有無を言わさず世話を焼かされたお陰で、ほたるとの同居生活は案外早く馴染んでしまった。それもそうだろう。寝相の悪いほたるが毎晩ベッドから落ちて、俺の布団に潜り込んで来ていたのだから。

 あんなに近くに身を寄せ合って、朝を迎えていたのだから。


 おわり。nana様のリクエストが無かったら生まれなかった話です。狙いは『無自覚に甘々世話焼きお兄ちゃん』てところで。

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