重箱のゆくえ


 壬生の再建も、まあ、だいたい何とかなったカンジなので、ほたるは辰伶を上手く誘導して外の世界へ連れ出した。ちょっと外で弁当を食べるだけの、外というのが壬生の外、そしてそのままちょっと日本諸国、ちょっと諸外国まで出かけてしまった天然異母兄弟の、これはその後の話である。

 その前に余談を1つ。辰伶が突如としていなくなってしまった壬生の郷が何とかなったかというと、あまり何とかなっていなかった。山積された問題に押し潰された庵曽新がストレスでブチギレして、これはヤバイと思った遊庵が方々に声をかけて郷の運営が何とかなるようになったのだ。そんな懐かしい一幕もあったが、とりあえず今は何とかなっているようだ。

 さてある日の、太陽が中天から少し西に寄り気味になった時分、辰伶は独り、水茶屋で休憩していた。その日はほたるも辰伶もそれぞれ別の用事で別行動し、ここを待ち合わせ場所にしていた。

 その内にほたるも現れて、辰伶の隣に座った。辰伶に勧められるままに串団子を頬張る。

「お前の言った通りだな。路銀など、案外どうとでもなるものだな」

 辰伶の何気ない言葉が、ほたるには引っかかった。ちらりと辰伶の傍らを見ると、見慣れない巾着袋が置いてある。多分、中身は銭だ。嫌な予感がする。

「…何したの?」
「うむ。誰だか知らないが声をかけてきたので、適当に相手をしていたら、泣いて謝ってそれを置いていった」
「……」

 ほたるは巾着袋を持ち上げてみた。結構重い。これはその人が持っていた有り金全部じゃないだろうかと、ほたるは推測した。

「…何があったの?もっと具体的に詳しく話してくれる?」
「うむ。俺に酒の相手をしろと言うので断った。何故俺がそんなことをせねばならないのか解らなかったのでな。そうしたら乱暴に肩を掴まれたから、腹が立って睨みつけたら、急に泣き出してそれを置いて走って行ってしまった」

 それは辰伶の殺気に当てられたのだろう。相当怖かったに違いない。しかし辰伶が本気だったら、そんな破落戸など殺気も出さずに殺れたはずだ。

「やさしいね」
「虫けらにも生きる権利くらいはある」

 昔は虫けらに対する気遣いなどまるで無かったことを思うと、本当に辰伶は性格が丸くなったと、ほたるは思う。あくまで昔と比べてだが。

「でもさ、そんな奴のお金は受け取らないで欲しいなあ。俺、それを返してそいつを殺してくる」

 辰伶が丸くなった分、辰伶に寄って来る害虫の駆除は自分の役目だとほたるは考えた。あの世で歳世も大きく頷いているだろう。

「もう手遅れだ。お前も団子を喰っただろう」

 ほたるは半分食べた団子の串を見遣った。巾着袋の中身の一部は茶屋代として既に使い込まれてしまった後だ。

「じゃあしょうがないね」

 辰伶と旅をしているとこんなことが度々で、ほたるは今日会った昔の仲間から『カツアゲ道中』と揶揄われた。ほたるが独りで旅しているときにはこんなことはなかったし、他の仲間と一緒のときもそうだ。辰伶だけおかしいとほたるは首を傾げる。

 多分、辰伶が綺麗過ぎるのが原因だとは思うが、とにかく辰伶は危険だ。旅慣れしていなくて危なっかしい辰伶を、しっかり者の自分が守らなければとほたるは思っている。

 ほたるの分析はほぼ正しい。命知らずの破落戸たちも、ほたるの鋭い眼光には危険を鋭く察知して近寄って来ない。一方、念願叶ってほたると外の世界を満喫している辰伶は終始上機嫌で、険しさが取れて彼本来の良家の子息の顔になっている。破落戸からすれば、隙だらけで世間知らずの良い鴨に見えるのだ。

 そしてここが肝心なのだが、辰伶がまとっているえもいわれぬ色香。誰のせいといえばほたるが開花させた艶やかな色香。その色香が害虫どもを引き寄せているのだ。いわばマッチポンプ。或は巧妙な美人局。それをしてほたるの仲間に『カツアゲ道中』と言わしめているのだが、天然な兄と天然な弟の2人連れは全く解っていない。

「で、次はどこへ行きたいの?」

 桜の花は見た。海も見た。市の賑わい、祭りの喧騒、それから…蝦夷にも渡ったし、大海原を航海して、大陸も横断した。

「天竺に行って、ゾウに乗りたい」
「この前、乗ったじゃない」
「あれはラクダだ。天竺でもなかった」
「ていうか、ここ何処?」
「連れてきたお前が言うのか。こんな方向音痴で、よくも自分が案内するなどと言ったな」

 お前だって、森で迷子になってたくせに。辰伶に初めて会った、その頃の自分を思い出して、ほたるは微笑みが漏れた。誰に頼ることもなく誰も必要としない強さを、かつては求めていた。そうでなければ生きていけないと思っていた。そんな風にしか生きられなかった。

 辰伶が遥か雲の上に聳え立つ山の頂きを指さした。

「駿河だ。富士が見える。…郷が近い」

 辰伶はほたる宛ての書状を渡した。

「壬生から使者があった。灯からだ」

 死の病を克服したから壬生の郷に一度帰って来いという報せだった。辰伶にも別個に報せがあったようで、辰伶は灯の書状の内容を把握しているようだ。

「天竺の前に、郷に寄ろう。ちょうど金が手に入ったし、土産は何がいいだろうか」

 壬生のことを語る時の辰伶の声は例えようもなく優しい。辰伶にとって壬生一族がどれほど大切なのか、その声でほたるは知る。長く留守にしていたから、そろそろ帰りたくもなるだろう。なのに、辰伶は「帰る」ではなく、「寄る」と言った。

 騙し討ちのように辰伶を壬生の郷から連れ出したことを、ほたるは詫びたことがあった。その時辰伶は、何でもないように笑って、ほたるの傍に居たいからいいのだと言った。この時、ほたるはやっと壬生に勝てたと思った。

 壬生には辰伶を必要としている人たちが大勢いる。辰伶が壬生の為に生きたいと思うのは、壬生が辰伶を必要としているからだ。だから壬生一族全員の想いを全て合わせたよりも、自分の方が辰伶を必要としていないと、たちまち壬生に負けてしまうだろうと、ほたるは思う。

 辰伶は誰かから「必要とされたい」人だ。だから辰伶は「何がしたいか」ではなく「何をすべきか」で動く。その為の努力を惜しまない。

 それはほたるには無い感覚だ。だから長らく辰伶のことが理解できなかった。いや、理解できなかったのではなく、理解したくなかったのだ。

 誰かに必要とされないと生きていけないなんて、そんなことを言ったら、父親から不要な者として抹消されようとしたほたるは、自分の何に存在価値を見出せば良いのか解らなくなってしまう。誰からも必要とされなくても生きていていいのだと、独りで生きるのが正しいのだと、それを信念としないと生きていけないじゃないか。

 だからほたるは辰伶を理解したくなかった。辰伶が嫌いだった。彼の生き方に苛立った。そして苦しんだ。

 遥か昔の己の姿を瞼の裏に閉じ込める。もう、大丈夫だから。

『行かないで』

『帰って来て』

 大丈夫。ほたるをまっすぐに必要としてくれた、あの言葉があるから。傍に居たいと、辰伶が言ってくれたから。

 辰伶に必要とされて、辰伶を必要として生きていくのだ。


 さて、辰伶が外の世界へ出る切っ掛けとなった重箱だが、それは早い段階で道具屋に売られてしまった。何しろ2人とも旅支度も何も無しに郷を出てしまったのだ。それに、長旅に重箱は邪魔だ。

 重箱はその細工が見事であったことから、手に入れた商人が懇意の武家に献上した。そして世の中が大きく変わるごとに持ち主も変わり、やがて激動の波に乗って遠い異国の博物館に辿り着いた。

 辰伶の重箱は、博物館の倉庫の中でひっそりと眠っている。かつての主との再会を夢見ながら。


おわり